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見上げた空のパラドックス
43 ―side Tatsumi―

 少女が姿を消した。
 篠が帰ってくるのに出掛けたという時点でおかしいとは思った。その日の夜になっても日付が変わっても連絡さえつかないから、いよいよ何かあったろうという話になった。話になった瞬間に義母からメールが来て、詮索するなと指示があった。部下を振り回すのもいい加減にしてくれ。たまらずそう返信するが、当然返事は来なかった。
 義母から届いたメールを篠に見せると、彼は諦めたように力なく微笑んだ。

「始まったかぁ……」

 義母があの少女を使った何かを企んでいることはもともと明白だったのだから、驚くことでもなく。篠は折り畳み式の簡易マットレスに身を投げ出し天井を見つめた。

「でもいいのかお前、このままで」
「よくはないけどなぁ。どうにかできるか?」
「それは……」

 そうだ。できることはおそらくない。ペンは剣より強い。兵士も権力には敵わない。だが俺たちにも考えることはできる。思考停止で従う人形ではないのだ。
 ――整理しよう。あの少女について。
 高瀬青空。遠ざかった碧と入れ違うように現れた不死身の少女。ぼろぼろの、存在しない学校の制服を身にまとっていた。明らかに別人なのにあまりにも碧と酷似した雰囲気を湛えていて、義母によれば、碧とまったく同じ形の心を持っているという。
 気味が悪いと思う。同じ心の持ち主が複数いることも、それがこのタイミングで俺たちの前に現れたことも。ちゃちな運命じみたものを感じざるを得ない。
 何かがあったはずだ。彼女が白昼の路地裏で篠の前に姿をあらわす直前に。イレギュラーを起こした何か、高瀬青空を此処に繋いだ何かが。だが到底わからない。義母にも、俺たちにも、彼女自身にも。義母は半月かけて彼女を調べた。だが確認されたのはその不死の絶対性だけだった。
 そうして彼女はいつのまにか俺たちの仲間になった。異能の扱いには不馴れなようで訓練を要した。飲み込みは早く、センスもあり、殺しにも適性がみられた。重い火恐怖症を患っているが、症状を振り切って仕事を遂げた例がある。優秀な新人だ。
 話してみればネガティブで気丈で、感情を殺した声で話す。自分を化け物と呼び、人間でありたい、と笑う。
 そんな彼女は、焦ったような早さで組織に手綱をかけられ、異能の扱いや殺しがある程度できるようになった途端、姿を消した。まるで彼女が殺し屋の異能者として仕上がるのを待ったようなタイミングで。

「俺達に言えないような、高瀬に任せられる仕事って、何だろうな」
「……さあ?」
「殺しなのは間違いない。でも、高瀬じゃなきゃいけない理由がわかんねえ……」
「詮索するん? 止められた直後に」

 気だるそうな、咎めるような視線が、マットレスの傍らに立つ俺を見る。薄い色のヘーゼルアイ。
 そりゃあ、詮索くらいするだろ。だっておかしい。組織の汚れ仕事の根幹を担ってきた篠にも、組織運営を最初からずっと見てきた俺にも教えられないような案件があるのか? しかも、また、篠が動けないときに?
 嫌な予感しかしない。
 素直に怖いと思う。もう決定的に何かが壊れていそうで。

「……はは。ひのきちゃんにはできんか?」
「え」
「失う覚悟」

 篠はそう言って重たい息を整える。青白い顔で、作り物のやわらかい笑みを浮かべる。俺の嫌いな顔だ。

「大丈夫やって。理子さんは人を守れる。あんたと碧だけはかならず守ってくれる。何があって、何が変わっても」
「そういう問題じゃないだろ」
「一番大切なのは碧だ。碧さえ守られるなら、他がどうでも、なんも怖くもない。……そう思っておきなよ。不安がってもしゃーないやんか。何もできないんやから……」
「篠。だってお前、高瀬のこと」
「頼む桧。言わんでくれ」
「……」

 俺は何か一つが変わることだって怖いよ。隠し事にまみれた義母が恐ろしくていらいらするばかりだ。信じていた碧にも何かを隠されて、だから怖い。篠みたいなシンプルな考え方は、俺にはできない。
 篠はヘーゼルアイを瞼に閉ざしてまもなく意識を落とした。俺は部屋の暖房にタイマーをかけてから、一人リビングへ降りる。

(何もできない、か)

 本当にそうか? 俺にできることはないのか。
 そもそも何がしたいのだろうか。
 癖のままテレビのリモコンを握って、なにもせずに置き直す。耳鳴りを伴うような静寂に立ち尽くし、冷気を吸い込んだグレーの絨毯を何ともなしに見つめる。
 俺は。
 俺には、力がある。
 やろうと思えばきっとどんなことでもできる力だ。死にゆく人の命をひとつ繋ぐ、なんてことが解釈次第でできてしまえるのだから不可能はない。俺は特別に異能の扱いに長けている。物心ついた頃には、そのように調整されていたから。
 サウンズレストの前身でもあるこの国の異能研究。俺はかつてその被験者だったらしい。金属のベッドに繋がれ、無数の機械に取り囲まれ、点滴に繋がれて、かろうじて息をしていた。そんな折に、若かりし日の義母とあの男――鹿俣朸が、二人で研究所に忍び込み俺を救出した、なんてことがあったと聞く。記憶はおぼろげだが。
 そんなことはいい。ただ、俺には、やろうと思いさえすれば、できることがあるはずなのだ。寿命は縮むが。

(何がしたいんだっけ)

 碧の幸福。望みを考えるなら真っ先にそれが浮かぶ。だが俺は篠とは違う。碧の命が無事ならそれでいいわけじゃない。
 少女の言葉を思い出す。
 そうだ。
 一緒に幸せになりたい。余計な不安に脅かされることなく。そこには篠もいなきゃダメだし、誰か一人が無理に苦しみを押し込めていてもダメだと思う。
 現状は最悪だ。何をしでかすかわからない義母に支配された生活で、碧も篠も無理な顔で笑って。イレギュラーが不明瞭な警鐘を鳴らして。どちらを見回しても隠されたことばかりで。一人、また一人と、俺の前からいなくなりそうで。
 そうだよ。俺には失う覚悟ができない。
 黙って家を出た。やっぱり義母に会いに行くことにした。


2022年5月15日

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