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見上げた空のパラドックス
42 ―side Sora―

「……、行ってきます……」

 篠さんが帰ってくるという日。桧さんが迎えに出掛けた直後、初めて私に与えられた携帯端末が鳴った。メールの送り主は理子さんで、当然、『例の仕事』の指示だ。
 仕事着にしている黒のジャケットを鞄に詰め、私はテーブルに少し出掛けますとだけ書き置きをして、三つの鍵を丁寧に開閉した。真っ昼間から殺しの仕事が入るのは珍しく、肩にかかるナイフの重みと冬晴れの日光の明るさはどこか不釣り合いに思えた。
 私がこうして一人で出掛けること自体は、別に珍しいわけではない。……怪しまれないといいのだけど。
 とにかく、社長の指示だ。行こう。
 指定の駅まで電車を乗り継ぎ、メールに添付されたマップを目に路地を縫っていく。いつのまにか人目のない影に佇むと安堵するようになってしまった。位置を見計らってジャケットを羽織り、支給品のヘッドセットを装着する。

「理子さん」
『こんにちは、青空ちゃん。歩きながら聞いて。確認するわ』
「はい」

 目指す建物の位置、間取り、敵の人数、異能者の数、その詳細。簡潔に告げられる大抵の情報は以前にも聞いたものだ。敵はこれから集会があり、一階の広間に集まってくれるという。
 建物の外側からまずは内部を少しずつ低酸素に。突入は数分待ってから正面を切ることにする。相手を確認しながら殺すかどうかを迷わなければならない分、アドバンテージが必要だった。
 薄暗い外壁に背をつけ、ナイフの位置を確認し、胸の前で祈るように手を組んで、目を閉じた。
 『視る』。強引に視覚の拡張される錯覚にチリリとこめかみが痛んだ。ヒトを示す配列がどんなものかはもうなんとなく頭に入っていて、位置と人数だけなら壁越しでもなんとなくわかる。十数名、同じ部屋に集まっているみたいだ。

(……よく見る)

 踊る数式をかきわけ、粒子の波を泳ぐ。ゆっくりとほどけたそれらは線形になって私の望むかたちを描いてゆく。集中。干渉範囲は最低限に。余計な物質まで認識しようとしなければ代償は軽くなる。今さわるのは気体の酸素分子だけ。
 かすかな頭痛は深呼吸ひとつで落ち着いた。よし。訓練の成果は出ている。

『武運を祈るわ』
「もしも間違えそうになったら言ってくださいね」
『ええ』

 ナイフを握りしめた。
 事業所の一階エントランスはなんのことはない造りで、タイル張りに銀色のポストがぼつんと口を開けている。集会が行われている広間はすぐ脇の扉一枚隔てた向こうにあり、鍵は閉まっているから壊さなくてはならない。道具を使うとバレるので、ここでもずるをして力を使った。無理矢理に結合を解く。音もなく扉を閉めきっていた鍵の金属棒に亀裂が走り、そして分断する。そこまでやると少し肌寒い気がしてジャケットの襟を止め直す。
 動きに支障はまだ出ていない。仕事はできる。
 さてと。そろそろ酸欠の自覚症状が出る頃だろう。

(……扉付近には四人……)

 突入する。
 扉が開いた時点で脇腹の一点に燃えるような錯覚をした。身に覚えがある。ああ弾丸だ、と気がつきながらも転がり込んで刃を抜いた。すっかり手に馴染む細身の凶器。

「単独!?」
「ちっさい刺客だな!」
「え、弾当たったよね!?」
「距離をとれ!」
「俺が引き付ける!」

 向けられた銃口に駆け寄り、数発食らいながら黙って払い落とし、人のいない方へ蹴飛ばす。そうこうする間に指示が飛び交う。
 熱い。弾が貫通しない。耐え難い異物感に視界が赤く揺れて、気分が悪くて仕方がなくなる。喉に力が入る。うめくな。動揺するな。この身体はどうせ平気だ!
 幸い火気は一挺だけだったようで、敵は手に手に刃物を構えた。腕の立つらしい数名が鮮やかな足取りで向かってくる。この低酸素でよく動けたものだ。私は不真面目に応戦しながら視線を巡らす。
 いた。殺してはいけない人。赤毛の青年は壁沿いで何らか指示を叫んでいる。

(あとは殺してもいい!)

 両手に握りしめたナイフで敵の刃を弾く。体格差に勝てるわけでもなく、勝つ必要もなく衝撃にしたがって後方へ転がる。壁にあたるが痛くもない。すかさず追ってくる敵にこちらも刃を突き出す。避けられる。
 いいのだ。まともな戦闘でプロに勝てないのはわかっている。
 目を閉じた。ずっと手を繋いでいた数式にもっとと呼び掛ける。さあ、初陣だ、私の焔。
 ぱち。火花の弾ける音が空間を貫いた。焔を人の合間を縫うように糸のように張り巡らせている。大雑把に大きな火を起こすより、こちらの方が楽だった。

「動かない方がいいですよ!」

 呼び掛けると辺りは静かになった。人々の移動が止んだのだ。
 はあ。息を吐き出す。いつのまにか喉の奥までも冷たい。

「何が目的だ!」

 問う声がした。目的? 殺しだ。だから答える必要はない。
 近いところからナイフを振りかざす。ずいぶん手早くなったと自分で思う。一人、二人。低酸素と焔の糸をキープしているのでひどい疲労を感じる。
 すぐに火傷を覚悟で動き出す者が現れる。焼ける痛みに声を上げながら、酸欠にふらつく足取りで、それでも目の前の脅威に向かってくる。ああ、勇敢だね。仲間の死を見て、自分の死を悟って、それでも走れるなんて感服だよ。人間は本当にきれいだ。
 閉じたままの瞼から涙が漏れていく。
 刃を振るう。黙って殺す。新鮮な死体がひとつ、ふたつ、みっつ転がる。血のにおいも生ぬるい液体の感触もとうに慣れている。でもこんなに殺したのは初めてだなあ。焔の糸はすぐ維持が難しくなって、揺らいで、消えて、そして何人もがこぞって私に刃を向けた。目を開く。潜り抜けられるものは潜り抜けて、避けられない殺意は素直に受けた。薄っぺらい金属なんて冷たいだけだ、気にもならない。むしろ相手の動きが止まるチャンスだ。凶器を振るえ。涙が落ちる。寒い。

「クソッ、化け物かよ!」

 ご名答。化け物でもなければ、こんなところに単独では乗り込むまい。
 たくさん殺した。でもまだ半分いる。まだ殺さなくては。ナイフを握る手だけ頑なに固める。震えが止まらない。

「リョク! お前だけでも逃げろ! こいつ殺せない!」
「馬鹿、続けろ! 無力化できなきゃ全滅だ!」
「くっそ……」

 りょく。生かすターゲットの名前だ。要人だからか私からは少し離れてくれているようで安心する。間違えて刃が当たることはないだろう。
 がたがた震える足で血濡れの床を蹴る。身体を動かすたび脳に響く弾丸の異物感にもう耐えきれずうめきを漏らす。たすけて。たすけてくれ。心に叫びながら何も言えず、刃を振るわれ、振るう。ナイフを奪われることだけは何がなんでも避ける。
 攻防はそうして呆気なく止んだ。あと数人を殺せないまま。数人がかりで取り押さえられ、ナイフを捻り取られた。追って助けに行くから、とヘッドセットから声がしてそれきり通信が途絶える。乱暴にフードを剥がれ、ヘッドセットももぎ取られた。

「……っ、」
「うっわ、ガキじゃん。最悪」

 取り上げられた私の凶器が床を遠く滑っていく。魂をくり抜かれた気分になって全身からどっと力が抜けた。涙だけが止めどない。幸いは鼓動を感じなかったことだ。胸の真ん中には誰のものかも知れぬ刃がひんやりと突き刺さっている。
 もう、いいかな。仕事はある程度こなせたし。しばらく眠っても。

「リョク、どうする。心臓止まってんのに生きてるよ、この子」
「支部に置いとくしかないか」
「何言ってんだよ。海に投げるかコンクリで埋めるでもしなきゃ。そこまでしてもエラーで抜けてくるかもしんねえ」
「まあ待て」

 視界に赤毛の青年が入った。無傷なようで、よかったなと思う。

「おい。お前、話せるか?」
「……」
「話せ」
「う゛っ……」

 心臓が抉られたような気がして、本当に胸から生えたナイフが捻られていることに遅れて気がつく。あまりの不快感に落ちかけていた意識が戻ってくる。

「なっ、ん、ですか……」
「お前、サウンズレストか」
「……」

 言っていいのかな。秘密にという指示は無かったが。そう思っているうちにもう一捻りが来て痙攣する。痛みを感じる機能は私にはないが、痛んだ振りをする機能はあるようだ。体感としてはただただ気味が悪い。

「う、ぅ……っ」
「所属と名前。エラーの説明。できるな?」
「……ふ、ふふ」

 私に拷問か。あの二週間を耐えきった私に?
 おかしくて笑った。言ってもいいけど、言わなくてもいいやと思って、何も言わないことにした。だるいし。寒くて凍えて仕方がないし。もう眠ってしまおう、そう思うと意識は再び泥の底へと急速に落ちていく。気絶した自分の首が傾くのをわずかに感じとると同時、遠くに舌打ちが聞こえた。


2022年5月13日

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