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見上げた空のパラドックス
41 ―side Shino―

 目覚める。泥の底からゆっくりと這い上がるような重苦しさがある。
 十年暮らしている自宅の古びた天井が像を結ぶのを待つ。意識の覚醒にしたがって、揺らぎながら、少しずつ景色が鮮明さを取り戻していく。

「……う」

 布団に沈めているのにまだ沈み足りない全身がずっしりと倦怠感を訴える。特に頭。重すぎ。持ち上げられないわけでもないが、持ち上げたいと思うことのハードルが高い。意識だけ浮上したところでどうしようもなく、俺は寝過ぎで鈍く痛む腰にうめく以外の何一つをしなかった。

「起きた? お兄ちゃん」

 さっぱりとした妹の声がして、そちらに視線を振る。風呂上がりか頭にタオルを被せた碧と目が合った。
 家族の顔を見るとそれだけで無性に安心する。不思議なことだ。

「おはよー、碧」
「んー、5時間ぶり」
「そんなに寝てたか……」
「ご飯食べる?」
「もらうわー」

 空腹は正直まったく感じないが、食べないと回復もしない。倦怠感に対抗して身体を縦にする。重たさは感じるがいちおう意思にしたがって動きはする。
 碧は手慣れた様子でキッチンに立ち、深皿にポトフを盛り付けてテーブルに座り直した。俺はふらつかないように立ち上がってその向かいに座る。暖房の効きにくい木造の一室は布団を出ると肌寒かった。妹の料理は当然だけれど俺のものと近い味がする。

「だいぶ動けるようになったね」
「お陰さまで。苦労かけて悪いな」
「なんも。お兄ちゃん寝てただけやん」
「はは、寝飽きてきたわ、いい加減」

 会話はそれで途切れた。碧は肩にかかる髪の湿り気をタオルに吸わせながら座ったままでいる。早く乾かさないと風邪引くぞ、と言いたくなるが、丈夫な血筋なのか俺たちは風邪というのを引いたことがないから、まあいいかと思う。
 俺は変則的に眠っていたから時間の感覚がないものの、あのアクシデントから幾日かはこうして妹と共にいるはずだ。が、結局、一度も話はできていない。必要最低限の挨拶と確認と軽口だけが、互いに口にしない本題の上を薄く滑る。
 およそ二ヶ月だ。何かが変わるには十分な時間が経ったように思う。少なくとも俺はけっこう変わったし、きっと碧も何かふた月前では予想もつかなかったことを考えたはずだ。
 互いに何がどう変わっているのか。確認した方が、きっといい。
 眠気がないことを自分に確認して、俺は食事がてらいよいよ切り出すことにする。

「俺さいきん好きな人ができた」
「……へ」
「同僚の女の子で」
「ちょっと待って。急すぎ」
「前置きしたら変に身構えるやろ、碧は」
「それは……、」

 よく煮込まれた野菜を一口咀嚼した。
 相手の近況が聞きたいならこちらから話す。基本のきだ。碧は不服そうな様子でテーブルに肘をついた。

「そやけど。……お兄ちゃんからそういう話出るの、初めてやね?」
「そういう話があるのが初めてやからな」
「うっっっそぉ」
「そんな驚く?」
「とっくに彼女の十人や二十人はいるかと」
「盛りすぎ盛りすぎ。真剣に人を好いたことはなかったよ」
「遊びの付き合いはある、と」
「それは」
「ええよ別に。でもお兄ちゃんそういうの言わないタイプなんだと思ってた」

 碧はそう言うとヘーゼルアイを持ち上げて、まっすぐに俺を見た。

「言うほどの人なんだ?」

 確信めいた問い。その声がにわかに真剣味を帯びる。俺はつい姿勢を正して、スプーンを一旦置いた。
 ちゃんと話そう。碧の話もいずれちゃんと聞くために。

「……俺には、わからん」
「わからん?」
「ひのきちゃんに言われた。好きだよなって。でも俺はまだよくわからんくて、はっきりとは」
「はあ」
「新人が入って。で一緒に仕事しとるんやけど。俺、うまくやれんっていうか……考えすぎちゃって。その子のこと。そんで今までしなかったミスしたり、ひのきちゃんにもその子にも心配されたり、なんか調子狂ったなって」
「え、ねえ、もしかしてお兄ちゃん、本当に恋したことない?」
「たぶん」
「えぇ……」
「そんなに変か?」
「七つ上の兄がいまさら小学生レベルの初恋しとると思わんて……」

 碧は眉間を押さえてうつむくとおもむろに立ち上がり、ドライヤーをかけにだろう、足早に洗面所へ向かう。

「ちょっとその話ちゃんと聞くからご飯食べといて。起きてて。いい?」
「はい」

 碧は何かに呆れたようだが、ともあれ話ができそうなのでよかった、と思って食事を再開した。すぐ食べ終わって、重い身体で食器を片付ける。ずっしりとした頭重を、久々に妹と対話ができそうだという期待で持ちこたえた。
 髪を乾かしてから碧が改めてテーブルに着いたので、俺もみたび向かいに腰を下ろす。

「で、どんな人なの。お兄ちゃんの好きな子」
「歌が好き。人には優しい。自分に厳しい」
「似た者同士やん」
「最初は碧に似てると思ったよ」
「そう?」
「なんでも自分のせいにするとことかな」
「……」
「頼もしい子だよ。今回も助けてくれた。仕事中にボヤがあってな、俺だけやったら対処できんかった」

 少女の背を思い出した。血に汚れたロングジャケットのフードを目深に被って、朱く光る焔の前に立ちはだかった。煙越しに見てもその背は震えていたのに、発せられる声はただ冷たく力強かった。彼女が仕事中にしか出さない声。
 彼女の火恐怖症は生半可なものではない。さんざん訓練に付き添ったから誰より知っている。近い色を目にするだけでも、ただ想像するだけでも、細い肩が震えてしまうことを知っている。
 それほどの恐怖を、押し込めてまで、彼女は仕事をした。
 ――強い。
 彼女は俺の想像していたより遥かに強く、なっていく。どん底へ、堕ちれば堕ちるほど、その輝きが増していく。俺はそれをただ隣で見ている。きっと胸を痛める必要も手を差しのべる必要もない。なにも言わなくていい。
 俺の恋とて彼女には要らないだろう。それでいいと思う。はなから離別の確定した関係だ。

「すげえ奴なんよ。困ったな。俺が気の迷いでヘマしたら彼女にも迷惑やし、何より危ないやんか。……ってことを考えてた。最近は」
「……殺しのほうの同僚、なんだよね?」
「うん」
「ねえ、どうして逃げないの? 仕事から」

 碧はそんなことを問うた。射貫く視線は揺れない。
 空気が冷えている。

「大切な人がいて、危ないと思うなら、一緒に辞めたら? 好きでやってもいないんでしょう」
「……やっぱ辞めてほしいか? 碧」
「当たり前」
「うん。碧が正常でうれしい。でも、ごめん。俺は辞めんし、ひのきちゃんも、俺の好きな子も、逃げようなんてきっと思わんよ」

 うまく本題にもってくることができた。
 碧は表情を曇らせる。悲しませるのは俺だって百も承知で、だが仕方がない。辞めない理由ならいくらでもある。もちろん生活費のためでも、碧を助けるという契約のためでもあるが、とっくにそれだけの話ではない。
 殺し屋であり続けることは、殺した数への報いだ。

「どうして? おかしいよ」
「おかしいな。わかってる。碧、あんたが正しいままでいてくれるから、まだわかってる」
「……どういうこと?」
「勝手に寄る辺にしてごめんな、怒ってええよ。俺は、あんたが正常でいてくれるから、まだ立っていられてる」

 できる限り言葉を選んだつもりでこんなことしか言えない自分に笑った。心なしか頭重が増してきたが、今の俺がふらふらするわけにはいかず奥歯を噛み締める。重みはゆっくりと痛みに変わっていく。
 高瀬青空、あの少女ならこんなときに何と言うのだろう。大切な人に汚れた自分を受け入れてほしいとき。いや、彼女なら迷わず突き放すに違いない。受け入れてほしいなどとは露ほども示すまい。孤独の奥底へ一人で突き進んで、大丈夫と言って笑うのだろう。
 俺は弱い。妹という寄る辺がなければ立っていられなかった。
 碧は俯いて、細く息をついた。思ったよりも平静に。

「はぁぁ……あのな、お兄ちゃん。言わせてもらうけど、自覚して。あんた何度も働きすぎで倒れてるし、思考もまともじゃないし、てゆうか今まで初恋する暇もなかったとか、ありえんわ。全っっ然とっくに平気じゃないやんか。どうしてそんな身も心もボロボロになるまで働くの?」
「……、」
「私のことなんでしょう。さすがにわかるよ。妹のためだから頑張ろうって、私を支えにするしかなかった、そういう話でしょう」
「それは」
「やっぱりしばらく別々に暮らそ。離れた方がいいよ。大丈夫、私は元気だし。壊れてるのはお兄ちゃんのほうだからね。自覚してね。休養もしてね。あと自分の気持ちは大切に! 愚痴とかメールしていいからね。わかった? ちょっと辰巳さんに連絡するね」

 畳み掛けるように言って彼女は席を立ち、携帯を耳に当てた。


2022年5月12日

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