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見上げた空のパラドックス
40 ―side Sora―

 焔が渦巻く。
 幾重にも粒子が揺れる。急激な酸化。エネルギーの放出。結合に伴って世界をあらわす数式が換わっていく。張り巡らせた現象の円環がまわる。たびたび朱から緋に青に緑に、おそらくは色を変えている。私は目を閉じたままだからわからないけど。
 凍えが喉の奥から震えになって込み上げて止まらない。押し寄せる倦怠に気を抜けば倒れ込んでしまいそうで、けれども無視は可能だと自分に言い聞かせた。不調は不調ではない。私に不調はない。気をそらす。ただ眼前にひろがる粒子と手を取り合って踊ることだけを考える。声を、聞く。物質に。こんにちは。あなたはどこへいきたいの。こっちにきてくれませんか。ぐるぐる。集中は深く、そして断続的に切れた。
 ぱち。耳元に火花が散る。熱気を吸って吐く。記憶が脳裏をつたう。寒気に便乗して恐怖が震えを誘い始める。

「――っ、はあ、はあ」

 力を止めた。
 よくないよくない。冷静であれ。慎重に呼吸を繰り返す。苦しいのはいつものことだ。
 目を開けば見慣れたコンクリートの地下空間がひろがる。寒々しい演習場区画の中心に私は立っている。立って、いたが、いま膝が折れた。あちこちの柱に設置されたフットライトと目線が同じ高さになって少しまぶしく感じる。

「はぁ、……はーっ……、」

 ……これでも訓練は順調だと、思う。最初はちょっと力の規模を広げるたびに倒れていたのだから、意識が保てているだけいいはずだ。成長している。大丈夫。大丈夫だ。
 心臓を押さえた。

「休憩するか」
「……はい」

 少し離れたところで監視していた桧さんが、やれやれといった口調で言った。篠さんがいないので監督は彼が代わっている。とはいえ私の訓練は勝手なもので、彼に指南を乞うことはないのだけど。
 異能を鍛えたいと言う私に、彼はため息混じりにただ一言だけ教えた。「よく見ろ」。自分が何にどうやって触れているのか。もっと細かく、もっと高くから見ろ、と。彼の言葉の意味がまるきりわかるわけではないが、とりあえず言われた通り、よく見るつもりで日夜訓練に励んでいる。
 数日程度でこまめな休憩さえ挟めば倒れないくらいになれたのだから、成果は上々と言っていいはずだ。あるいは、自分の身体に大丈夫と思い込ませることの方が上達しているだけかもしれないけど。
 立ち上がれずに動悸が収まるのを待っていると、頭上から重々しいため息が降る。

「そろそろ帰るぞ。これ以上は倒れるだろ」
「はい、ありがとうございます……ちょっと、待ってくださいね……」

 桧さんは黙って待った。
 篠さんのいないうちは二人で生活しているが、相変わらず会話が弾むようなことはなかった。私も目が合わないようにしていて、彼も必要のないときは口を開かない。退屈はするが気まずいわけでもなく、日々はただ静かだった。
 どうにか立ち上がれるようになってから、ゆっくりと家路につく。当然のように会話はなく、あっけらかんとした晴天に照らされて歩く。秋も終わって、だいぶ寒くなった。

「篠、とりあえず起きられるようになったらしい」

 ぼつり、ケータイを閉じながら簡潔に桧さんが言った。電車内。

「よかったです」
「ああ」

 うれしい報告だ。自然と頬が緩む。なかなか聞けはしなかったが篠さんのことはもちろん心配だった。私がもっとうまく力を使えたら彼は倒れなくて済んだ、という思いもあるし、彼がずっと多忙で無理をしていたことも知っている。あの人は私に無理するなと言うくせに自分はいくらでも無理をするのだ。ご家族のもとでゆっくり休めているといいなと思う。……喧嘩して別居中だったらしいから、そこも心配なのだけど。
 とりあえず回復はしてきているようで安心だ。
 帰宅して、食事を作って、テレビの音をバックに夕食を摂っている頃に、追加の連絡が来た。桧さんは失礼、と一声言って鳴ったケータイを開いた。

「電話する」
「はい」

 私が頷くと彼はそそくさとケータイを耳に当てた。

「……碧? どうした。篠の様子は? うん……」

 話しながら席を立って、彼は足早にリビングを出ていく。取り残された私はとりあえず食事の手を進める。
 あおい、という名をたまに聞く。たぶん篠さんの妹の名前だ。桧さんの想い人でもあるらしい。サウンズレストには関わせないよう篠さんに守られている。この世界の『私』。それ以外のことは知らない。ただなんとなく、あまり会いたくないなと思う。似ているらしいし、私の手は汚れているし、篠さんに無理をさせてしまったことを思えば合わせる顔もないし。
 なんてことをぼんやりと思いながら、機械的に食事を嚥下した。本当は食物なんていらなくても、篠さんや桧さんの前では食べる。ひととして扱ってくれる人の前ではひととして振る舞う。
 私の皿が空になるころ桧さんが通話を終えて戻ってきた。

「篠、明日にはこっちに戻るそうだ。まだ本調子じゃないらしいんだが……」

 そうして相変わらずの溜め息。相変わらず何かを思い詰めたように俯いて、彼は席に戻る。
 篠さんが、こっちに戻る。ご家族は? と思う。思うが口を出していいわけでもない。私はただわかりましたと言った。

「……なあ、高瀬」
「はい」
「例えばで、いいんだが。どうしても家族を遠ざけたい時って、お前だったら何を考えてるんだ?」

 ……。
 私に聞くの、それ?
 桧さんの声はどこか迷子の幼子のように切実だった。見ているこちらもわけもわからず心が痛む気がして目を逸らす。話不精な彼から私に相談なんてもちろん初めてのことで、きっとよほどのことがあったのだろうとだけ察する。
 ……私に聞くなら突っ込ませてもらおうかな。

「碧さん、の話ですか? 私と似ているって篠さんが言ってました」
「……」
「気持ちを想像するにはちょっと状況がわからないんですけど、どういう流れでそうなったんですか」

 名前を出すとますます目が合わなくなった。空気がひりひりする。
 桧さんは至極言いにくそうに、つっかえながら言葉を選んだ。

「まずな、篠と碧ってずっと二人暮らしで、あいつらの生活の後ろ盾はもっぱらサウンズなんだが」
「はい」
「……裏の仕事が、バレた。ずっと隠してたんだよ。十年。相当ショックだろうとは、思う」
「……」

 身構えたとおり深刻な話が来て、私も一緒に押し黙る。
 この世界に生まれなくてよかったと思ってしまった。
 ……子どもなのだから、家族が自分のために働いてくれることはまあ、当たり前、だけど。仕事内容が殺しだと知ったら複雑だろう。まして十年も隠されていた上での発覚となると、当然、衝撃が倍増する。そしてさらに篠さんが過労で倒れた。最悪だ。

「……碧さん、篠さんのことはどう思ってらしたんですか」
「さあな。音楽やってんのは知ってるが」
「仲はよかったですか」
「ああ」
「……」

 自分のせいだ、と思うだろう。
 真っ先に想像がついた。隠し事の衝撃が大きければ大きいほど、だって、明らかに碧さんのために隠されていたわけだから、そのぶんの心配と思いやりは、変換効率十割でのうのうと無知に生きてきた自分に突き刺さる。兄が「何かに苦しんでいるだろう」とは、音楽からでも予想できたろうに。何があったのと聞けなかった。兄はずっと自分に尽くしてくれていたのに、自分は兄に寄り添おうと行動できなかった。一人だけへらへらと生きていた。
 そこに倒れた兄の姿が現れたとなったら、そりゃあ。無理をさせているのは自分だろうと思う。あるいはサウンズレストを恨む。

「……私なら心中を考えますけど……」
「おっ、まえ、やめろよ」
「すみません。でも、合わせる顔がないんじゃないですか。兄のことを考える度に自分の罪だと思う。謝ったところで、余計に心配されるんだろうから、申し訳ないなんて言いませんけど」
「…………」
「篠さんが今回倒れてしまったのは私の責任ですけど、碧さんは私よりずっと、自分が悪いと思ってしまうでしょうね。……つぐないを考えるか、それが不可能ならもう愛さないで捨ててほしいと思って悪いことをするか、かな。私ならですよ」

 桧さんは顔を上げなかった。ただ雑音を邪魔に思ったのか黙ってテレビを消した。耳鳴りがするほどの濃い沈黙。私は続ける。

「碧さんの様子、聞いてもいいですか?」
「……元気そうなんだ。俺たちには距離を置かせてって言って、あいつずっと一人で暮らしてるんだが。顔色はいいし、ちゃんと生活してる」
「え、すごいな」

 それだけ後ろめたさがあってもまだ健康な自分を許せるものだろうか?

「何か隠してるみたいなんだ。碧。学校にも行ってないし、このふた月あいつが何をしてたのかわからない」
「さっきの電話ではなんて?」
「もう少し色々考えたくなったから時間をくれって。あと、篠を頼むって」
「うーん」

 わからない。と言ってしまえばそれまでなのだけど。私に聞かれた以上は、『私』だから言えることを言うべきか。

「とにかく合わせる顔がないので、避けたいのは、当然ですけど……元気そうにしているんなら……目的があるのかなって思います。なにかつぐなう方法を見つけていれば、守りたいものがあれば、まだ、歩けます」

 言っていて自分にダメージがくる。つぐなう方法なんて、私にはもう無いよ。倖貴は死んでしまったし、闇雲に悼みに身を浸すにも、墓があった世界そのものが滅んでしまった。あとはもうただひたすら私が苦しむくらいしか。
 微笑みで胸の痛みをごまかす。今は倖貴のことはいい。
 深く沈黙を吸った液晶画面が黒々として存在感を増している。

「解決の話をするなら、ハブらないで汚れ仕事に関わらせてあげたらどうですか。裏方なら危ないこともそんなにありませんし……」
「……」
「みんな苦しんでいるのに、自分だけが幸せなんて、いやですよ。せめて苦しむのも一緒がいいです。できれば、一緒に幸せになりたいですけどね」

 私に言えるのはこのくらいです。沈黙して俯いたままの桧さんにそう告げて、私は空の食器をキッチンへ運ぶ。洗い物を済ませておく。桧さんの食事の手は止まったままだ。たぶん今日は残すことになるだろうな。


2022年5月5日

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