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見上げた空のパラドックス
39 ―side Aoi―

『篠が倒れたんだけど』

 久々に聞く辰巳さんの声はそういう内容だった。
 私は出先で彼からの電話に出た。変わらず鹿俣さんにつきまとう日々だから、その時も鹿俣さんが隣にいた。

「え」
『いつもの過労。寝てれば治るんだけどさ、回復するまでだけでもそっちに帰そうと思って。碧、いいか?』
「……う、うん。わかった……今出掛けてるからすぐ帰るね」
『悪いな』

 通話はすぐに切れた。携帯を持つ手が震えた。
 もうふた月も兄と離れて一人で暮らしていて、そろそろ誤魔化しがきくかどうかと心配していた頃合いだったけど、それにしても不意打ちだった。兄はこれまでも何度か過労で寝込むことがあり、倒れたこと自体はまたかって感じだけど。心配だし、兄の帰還を断ることは私にはできなかった。
 通話終了と表示し続けるディスプレイを黙って見下ろす。
 まいったな。

「すぐ帰るんだろ。行きなよ」
「……すみません鹿俣さん。しばらく連絡とらないでください。兄が帰ってくるみたいなので」
「最初から連絡入れたことないぞ、こちらからは」

 赤毛の青年は肩をすくめ、流れるまま道を引き返し始めた。

「駅までな」
「一人でも帰れますよ」
「美山。お前はもう俺たちに関する情報を相当持ってる。まあ向こうもとっくに掴んでる程度のものだろうが……正直、私的な接触は許しにくい」
「……」
「向こうだって、お前がこの間に何をしてたか、怪しんでるだろう」
「……そうですよね」
「口を割るなよ」
「はい」
「それとだ。もう二度と来るな。俺にも会うな。言えることは十分伝えた。これ以上は無いし、知ることもここにいることも危険だ。自分の命を大切にしろ」
「それは、従うかわかりませんけど」

 電車に飛び乗り、自宅の最寄駅の改札を小走りで抜け、この十年兄と暮らしたワンルームへ走った。帰り着いた頃にはまだ辰巳さんからの連絡はなく、ひとまず部屋を片付けておく。
 辰巳さんは車を借りてやって来た。兄は後部座席で眠っていて、呼び掛けるとひどくぼうとした様子で応じる。

「碧、……久々やなあ……」
「寝てて」

 辰巳さんが肩を貸してゆっくりと階段を登った。兄はひと月ぶりの自宅にも特段の反応は示せず、常に半分眠ったような状態で、布団に押し込むとすぐ動かなくなった。

「篠、しばらくはこんなだろうから。介護よろしく」
「どしたんお兄ちゃん。今回は」
「最近ダブルワーク多くて。疲れてんのにちゃんと寝ないしさあ。んで仕事中に派手に力使ったら、こう」
「あー……」
「世話が無理そうだったら俺も出るから言ってくれ」
「わかった。ありがとう辰巳さん」

 流動食じゃないと入らないかな、トイレ行けるのかな、などと考えながら、青白い顔で眠る兄を見つめる。再会の理由がこれとは、なんとも言えず悲しい。……はやく終わらせないとなあ。
 なぜ兄がこんなになるまで働かなければならないのか。冷静に考えてみる。
 サウンズレストの前身は異能研究所だから、当然のことバックボーンは国だ。十年前に桧理子をトップに据えることで民間の蓑をかぶった会社運営がスタートした。隠れ蓑が芸能プロダクションなのは、合法的に人身売買ができるからだ。
 国は明らかに『世界隊の二の舞』を恐れている。異能者を含む団結した集団が反社会的な思想を持つこと。その抑止のために兵士として異能者を使っている。冷然として合理的な話だった。
 しかしそれにしても、兄がここまで特別にこき使われる理由は不明だ。表裏どちらの活動に対しても才能を示したから、は一因に過ぎないだろう。だって才能を評価するにしてもとてもではないが大切にはされていない。使い潰す勢いがある。
 ……どうして兄ばかり。

(――どうして私だけが楽な生活を)

 嫌な予感はするが、確信に至るほどの情報はまだない。
 もっと根本的には裏社会におけるサウンズレスト一強体制や国の異能者の捉え方や関わり方が悪いのだけど、そこに手を入れようとするのなら、それこそ団結したクーデターをという話になってくる。
 なんにせよ気が重いばかりだ。
 辰巳さんは色々と兄のための食料を入れた袋を置き土産にして、すぐ戻ると言った。兄が倒れたからその分の調整で忙しい、と何気ないまま愚痴を垂れながら。

「あ、それと碧」
「うん?」

 古びた玄関口の空間で二人、向かい合っている。紫紺の目がじっと私の目を見て、かすかに揺らいだ。何かを迷うような間があった。何か聞かれるだろうと思ったからちょっと身構えた。
 聞かれはしなかった。ただ数秒の沈黙をもって、彼は私の袖をそっと引き、私を抱擁した。え、なんで。私は呆然と突っ立ったままでいた。鼓動だけがいち早く反応するから早く離してほしくなった。たぶん伝わっているから。

「碧、大丈夫だよな」
「……えっ、と」
「どこにもいくなよ」

 蚊の鳴くような声でささやいて、それじゃ、と言って彼は踵を返した。
 立て付けの悪い扉が軋み、あっけなく開閉して、静寂が訪れる。私は彼の背の去った後の扉をただ目をみはって見つめている。扉の内側にぺたぺたと飾っているのは、兄のファーストアルバムのジャケ写、私の七五三の写真、それから辰巳さんも交えて遊びに行ったときの集合写真だ。
 たった数秒だけ与えられた温度が、心臓にいつまでもひびいて静けさを汚している。

「…………」

 その場に座り込んだ。
 ずるい。
 ずるいよ。辰巳さん。
 なんでも聞いて追及してくれたら逃げ切る自信があった。何も聞かずに心配だけされるとは思っていなかった。そんなの、隠れて危ないことをしている私が間違っているみたいじゃないか。やっぱり私が間違っているのか。
 彼は私がいなくなったら壊れるだろう。
 ほんのすこし触れたくらいでわかってしまうから顔を覆った。
 桧辰巳。最近こそ平然と過ごせているけれど、元来、弱い人だ。彼が兄以外と話せるようになるには年単位の時間がかかり、最初から会話が成り立っていた兄とて軽口を叩けるまでになるにはさらに年単位の時間をかけた。私と辰巳さんが交流を持てたのもここ数年の話になる。兄の献身的なかかわりによってか最近はほとんど気にならないくらいになったが、街を行くとき怯えたように人を避ける癖はまだ治っていない。とにかく誰にも容易には心を開かない、そういうところがあって、今も、危うい。
 彼にはまだ、私たち兄妹しかいないのだ。心を許せる人が。

「……辰巳さん……」

 声にもならないくらいの声で名をつぶやく。胸の痛みを確かめている。
 どこにもいかない方がいいのか。
 このままで、本当に。
 辰巳さんほどの優しい人が殺しにかかわるのも、兄が不当に使い潰されようとしているのも、間違っている。手を打てと言えるのは所属していない私だけなんじゃないのか。私が動かなかったら何も変わらないままじゃないか。でも。私にもし何か不幸があれば、辰巳さんはどうなる。
 どちらを選ぶとしても罪悪感に押し潰されそうだった。


2022年4月27日

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