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見上げた空のパラドックス
38 ―side Sora―

 災難は続く。
 因果応報というやつだろうか。

 ――初冬。
 その日の夜は星明かりがまぶしくからりと晴れていた。吹き荒ぶビル風が頬に痛くて早足で歩いた。
 説明すべきことはひとつだ。
 火事があった。
 仕事中のことだった。小さな事業所の殲滅を言い渡されていて、敵は四人。仕事自体は完遂したけど、何かの拍子か、敵の抵抗だったのか、さあ退散しようという時になって出火した。事務所に併設されたキッチンからだった。煙より早く焔が出たから、オイルが漏れていたのではと思う。キッチンには死体がひとつ転がっていたからとてつもないにおいがした。
 私は。
 切れかかっていた集中をどうにか持ち直し、まずは篠さんに足払いをかけた。伏せろと言えればよかったのだけど息が詰まって、声を出すより足を出した方が早かった。

「なっ、え、そらちゃん!?」

 ぱち。ぱち。聴きたくない音に凍り付こうとする背筋に鞭うって、歩くと言うには格好のつかない足取りで、私は火の手の方へ向かった。もちろん目は咄嗟に閉じている。見たのは一瞬に過ぎない。大丈夫。大丈夫。何度も練習したんだ。成果は出る。信じろ。
 火の手が天井を這い回っている。まるで広がることが使命だとでも言いたげだ。
 そうはさせない。

「はなれて」
「あんたは!?」
「鎮火します」

 やっと声が出た。篠さんは姿勢を低くしつつ掃除屋への通信を再開する。
 熱気を吸った。焼死体の匂いなんて初めて嗅ぐから吐き気がする。集中しろ。鎮火なんて簡単だ。酸素を取り上げれば酸化は収まる。二秒もかからない。ちゃんと見えている。やれる。集中しろ。異臭を含んだ息を吐き出し、止める。さあ。
 篠さんを危険にさらすわけにはいかない。
 しかしうまくはいかなかった。中途半端に切れかけの集中を持ち直しただけでも気分が悪くなるところに、あかいろと異臭が殴り込んだとなると、なかなか冷静にはなれない。勢いを広げないくらいの規模でしか力が入らない。二秒。五秒。熱気はめらめらと頬を掠める。

「そらちゃん! できそうか!?」

 各所への連絡を済ませた篠さんが布越しらしいくぐもった声で私を呼んだ。いつの間にか肌がひりつくほど煙が充満している。ああ、表世界の誰かに消防を呼ばれる事態だけは避けなくては。奥歯を噛み締める。においや煙を抑える方にも力を回した。こんな規模で力を使ったことあったかな。冷や汗がだらだらと流れる。

「……少し、厳しいです……!」
「OK底上げする!」

 一秒後。
 視界の先で散り散りになっていた粒子が恐ろしく整然と回転し弾け飛ぶ。きつく張り巡らせていた異能が、唐突にやわらかい果肉を切るような手応えになって、勢い余った力が大幅に焔を押し返した。チリチリと肌を焼いていた熱気が明らかに温度を落として、落差に思わず身震いする。
 なんだ、これ。こんな規模の干渉あるのか。

「いけるか?」
「……ありがとうございます!」

 鎮火はそれからものの数秒で済んだ。
 目を開く。焦げた家具。変色した天井。見るに耐えない肉塊。順番に認識して、もうどこにも朱がないとわかると、膝が落ちた。

「――っ、ぁ、」

 無理に押し込めて遅れた恐怖が呼吸を詰める。冗談みたいな痙攣と吐き気にうつむく。乾いた血で汚れた床に手をついて、息を吸うたび肺に満ちる異臭がたまらなくて嘔吐の真似をする。べつに何も出てこないけど。
 喪失感。虚脱、寂寥。恐怖。無根拠に沸き上がる。震えが止まらない。あかいろに紐付けられた感情。焔に触れるたび喪ってきたものの大きさだけが胸を抉る。恋した人のいのち。私のいのち。もう亡い。寒い。つめたい。
 今度は何を喪えばいい?

「そらちゃん!」
「はっ、う、……っ」
「……、おやすみ」

 意識が落ちた。
 目覚めたのは死体を運ぶ車の中だった。ガタガタ揺れるコンテナの床では疲れていると言えど寝ていられない。薄ら目を開けば目の前に死体袋。ほのかなランプの灯りと冷やかな空気。こんなのでも慣れ親しんだ光景だから、少しだけ安心する。

「……しの、さん、」
「起きたか」
「離しても、平気、ですよ……」
「やだ」
「……」

 なるべく私の身体が揺れに晒されないようにだろう、彼は私をあぐらの上に抱えてくれていた。汚れた黒のジャケットは脱がされて、代わりに毛布がかけられている。体勢的に目は合わないから、彼がどんな顔でいるのかはわからなかった。

「……あの、」

 なに、と返す声は柔くて、震えていた。

「……、リボンが。上着の中に……」
「ああ」

 片腕が離れ、がさがさと物音がする。篠さんは至って丁寧な手付きで青いリボンを取り出し、そのまま器用に私の髪を掬って、ぴったりいつもの位置に結い直した。ああ、ほんとうに、よく見てくれているんだな。私のことを。
 身体がろくに動かせない。かつてない規模で異能を使った。生半可な疲労感ではなかった。

「ありがとう、ございます」
「うん。そらちゃん、手柄だよ。あんたがいなかったら俺たぶん死んでたし、組織的にも面倒事になってた」
「……篠さんがいなくても、無理でしたよ。何だったんですか、あれ」
「打っただけ」

 篠さんはポケットからケータイを抜き出してくすりと笑った。

「言うより書く方が強いらしいよ。言霊は」
「……」
「まあ、人以外にまで言霊を作用させんのは正直……めちゃくちゃ……きついけど。緊急事態やったし……」

 言葉に大きなあくびが挟まっていた。
 触れている箇所のどこにも暖かさを感じない。彼の身体は冷えきっている。

「……寒い、な」
「……ありがとうございました。無茶をさせてすみません」
「あんたはよくやったよ……」

 言葉尻が発音されたかどうか、彼の首がかくんと傾く。

「わっ、」

 二人、一緒になって硬く冷たいコンテナの床へ倒れ込んだ。どうやら、私が目覚めるまではと、ギリギリ起きていてくれたようだった。
 放り出された全身に床の冷たさと車の揺れが伝わる。こんな状況でも篠さんはうんともすんとも言わない。心配になったけれど私も何もできない。どうせ死なないくせに言うことを聞いてくれない身体を恨んだ。

(もうしわけ、ないなあ……)

 申し訳がない。
 私のために必死になってくれる人へ、返せるものがあまりに少なくて。
 しにたいなあ。
 この命からも、愛してもらえる幸福からも、おのれの罪をまわるすべてのものから、いっそ逃げてしまいたい。
 それができないからただ目を閉じていた。
 篠さんはその日のうちには目覚めず、私もなかなか動けるようにはならず、結局は桧さんが社用車で迎えに来た。帰宅するのも一苦労だったけれど、掃除屋の事業所もバタバタしていて殺し屋を寝かせておく余裕はなさそうだった。どうにか三人、いつもの背の低い四角いビルへ帰り着いたのは翌朝のことだった。
 任務中に火災のアクシデントがあり、私と篠さんの能力で事を収めた。経緯を聞いた桧さんはそうかと言った。

「篠、しばらくは動けないだろうな」
「……桧さんも、夜通し、ありがとうございました」
「お前も。頑張ったな。あとの調整は俺がやる。休んどけよ」
「あの」
「ん」
「私は休まなくても平気です。……演習場、使わせてください」
「……なんのために?」
「異能を鍛えたいです」
「ハァ。お前のそういうとこ、俺はよくないと思うけどな。許可は取ろう」
「ありがとうございます」

 もっと力が使えた方がいいだろうと思った。強くならなくてはならない。篠さんを守るためにも、今後の仕事のためにも。


2022年4月25日

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