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見上げた空のパラドックス
past script -3

 2005年の、冬の終わり。

「さあ行くよ、朸くん」

 宵闇の狭間を駆ける。手を引かれている。
 高いフェンス。何重にも行く手を阻む電磁制御のキー。暗がりに灯る非常灯。物々しい灰色の壁。人の気配。話し声。たまにどこからか混ざって聞こえてくる怒号。
 俺の手を引く彼女は確かに足音を鳴らしていて、周囲に人もいるはずなのに、存在を気づかれていない。引っ張られて走っているだけの俺もだ。それは不思議な感覚で、けれど慣れてしまっていて、だから俺は必死で彼女のしっとりとした手のひらを握り返していた。離してしまったらこの侵入がたちまちバレておおごとになる。駆けているからではない汗が背を濡らしていた。

「理子、ほんとうに大丈夫なのか」
「ふふ、やだなあ。まだ心配してるの? 私がへましたことなんてないでしょ」

 翡翠の目が振り向いて笑った。得意気な少女の顔を、背の足りない俺は頼りない心持ちで見上げていた。心配なのは彼女がへまをすることじゃなくて、俺がこの局面でなにかを間違えてしまうことなんだが。
 異能研究所。国家機密の要塞に、無関係のガキ二人が、いったいどうして忍び込めているんだ?

「えっ、マ、マジでやる気なのか」
「助けたいって言ったのは朸くんじゃない」
「言ってはないって。お前が読んだの」
「そうだっけ?」

 というわけで、助けちゃおうと思うんだけど。
 そんな大それたことを何でもなさそうに切り出された時は思わずちゃぶ台の角に膝をぶつけた。どう考えても、古びた六畳一間のアパートで、だらだらと扇風機の前にたむろしながら切り出されるタイプの話題ではなかった。
 助けたい人がいた。
 ただ、たまたま見かけてしまったから、それだけの些細な理由で。
 殺し屋の俺が、殺し屋からさえ逃げてしまって何もしていない俺が、人を助けるだなんて傲慢なことを願ってしまってもよかったのだろうか。わからないまま畳の上に膝を抱えて悶々と考え込んでいて、考え込んでいただけで、俺は何も言ってはいなくて。それなのに理子は俺の全部を読んで、一緒に悩んで、それから「じゃあ行こっか」と手を引いてくれた。
 人の認識は重なった網目状なんだよ、と彼女は言った。だからうまく隙間を縫って歩けば誰にも見つからないの。大丈夫、私にはわかるから。ついてきて。
 そうして俺は世界隊から逃げて、どうにかうまく逃げおおせ続けていて、今度はさらに国からまで追われる立場になろうとしている。さすがに危険なんじゃないかと、普通なら思う。普通ならだ。彼女が桧理子でなかったら。
 俺は彼女のことを信じていた。
 ずっと。

「実際に助けるのは朸くんだよ。私は見張りをしておくわ」
「見張り、必要なのか?」
「ここは異能者ばかりいるからね。事象の波がすっごく複雑化してる。さすがに私も動きながら片手間に読めるものじゃないわ」

 緊張はあった。
 もしも戦闘になったら。理子は未経験だし、俺は無能力だし。ぜったい死ぬ。

「迷わないで行って朸くん。何かあっても、後から適当になんとかできる自信はあるの」
「……ま、それが理子のやり方だよな」

 むちゃくちゃだよ。なんだか度を越えると面白くなってきて、分厚い金属の壁に息を潜めながら、かすかに肩を揺らして笑った。
 ひたすら指示された通りに動く。
 遠くからまた怒号が響く。悲鳴とか、泣き声とか、意味のわからないうめき声とかも、たまにする。ふと理子と初めて出逢った日のことを思い出した。

 その日は夏の夜半だった。俺は隊で殺しの仕事をしていて、彼女は目撃者だった。
 俺のかざしたナイフに待ったをかけた彼女は、俺の両親の安否について知っていると言って、わざわざ俺をそこまで連れていった。使える力があるから殺さないでという、壮大な命乞いだったわけだ。
 あの雨の日のプラットホーム、2001年。6.21で殺されるはずだったのが、100人だ。
 実際の死者は98人。
 残りの2人が、俺の両親だった。
 俺はそれを知らなかった。知らされていなかった。彼女に手を引かれて宵闇の狭間を縫い、精神科の鍵付き病棟に忍び込んで、虚ろにうずくまる母の姿を目にするまで。
 いきていたんだな。
 でも親元に帰りたいとは思えなかった。大事なことを隠していた世界隊にも、帰りたいとは思えなかった。

 空気が似ている。あのとき病棟で感じた、ひりひりと重たい、堅く閉じ込められている人たちの叫ぶ絶望の煮こごり。
 息をするのも嫌な場所だ。早く帰りたい。
 こんな場所に、罪のない幼子が繋がれているという事実が、心に重たくて、足を急かした。

「この部屋だね」

 理子がそう言って研究所の最奥、事も無げに何桁ものキーを解除する。
 集中治療室と書かれていた。ここは病院ではないし、別に異能者は病人ではないのに。いったい何を治療しているのか。何が治療とされているのか。
 息を吸って吐いて止めた。どんなに平和に過ごさせてもらっても、安心するためにナイフの柄を触ってしまう癖が治らない。扉が音もなくスライドして開く。
 暗い部屋だった。
 そこに彼がいた。
 寝心地のかけらもない金属製のベッドに縛り付けられ、小柄で悩んでいた俺よりもずっとずっと小さく幼い肢体に、何本もの管が繋がれていた。彼の頭を覆う機械からまた別の大きな機械へわんさかとコードが繋がって、何を示すかわからないランプが明滅していた。
 彼には意識があった。生気の抜けた顔をしていたが、俺が近づくと視線が動いて、何秒も時間をかけて、俺に目を合わせてくれた。宵闇のすべてを閉じ込めたような紫紺の目だった。
 俺はナイフを抜いた。拘束やコードを断ち切る。切れなければ痛いだろうが強引に外すしかない。怖がらせてしまうだろうか。それでもいつまでもここにいるよりはマシなはずだ。
 なんて、願った時点で既に傲慢だ。
 やり遂げようが、どうしようが、俺の勝手だ。だからやるんだ。胸が高鳴った。
 願いは気づけば言葉になって、舌の上から滑り落ちていった。

「逃げよう。そして、生きよう……」

 辰巳。
 結局拘束をスマートに外すことはできなくて、俺は血まみれになった彼の両腕に自分の身に付けていたマフラーを縛り、幼い身体を背負って走った。痛いはずなのに彼は少しも喚かなくて、それどころかいつまでもぼんやりとして俺を見上げているばかりだった。
 脱走だし、誘拐だ。もうこそこそ隠れようがない。もとよりビリビリしていた研究所内の空気は走るほど緊張感を増していった。それでも戦闘になるようなことはなかった。ぜんぶ理子がなんとかしてくれた。
 俺は理子がいなければなにもできないガキだった。
 暮らしも。勉強も。何かを遂げたいと思うことも。いとしいものに心で向き合おうとすることも。何も。
 それでも、小さな温もりを背にして駆けたあの時間だけは、きっと俺も正しかったんだ。

 辰巳がまともにしゃべるようになるまでは一週間もかかった。促せば食事はとったし、トイレにも行くし、風呂に連れて行けば服を脱ぐくらいは自分でやってくれたし、布団を敷いてやれば寝たが、それ以外の時間はひたすらぼーっとしていた。食べたいものを質問したときなどはたまに答えてくれるものの、積極的に会話してくれる感じではなく。
 そうして一週間ほど暮らさせてみて、腕の傷も癒え、彼も堂々と畳にごろごろ寝そべるようになってきて。
 やがて幼い声が言った。

「……とうさん」

 紫紺の目はきらきらとして俺を見上げた。
 まじかよ。俺もガキなんだけどな。
 でも確かに風呂に入れるのも食事を作って摂らせるのも読み書きを教えるのも俺の役目だったから、物心ついたばかりの彼からは親と思われても仕方がなかったような気はする。
 自然、理子はかあさんと呼ばれた。しかし彼女はいつもバタバタしていて家にいないことが多かったので、辰巳はひときわ俺によく懐いた。俺が悶々となにか悩んでいるとすぐに気がついて寄ってきて一緒に不安そうにする、昔から敏い子どもだった。
 幸せだったと思う。
 いつ思い返しても、あの日々のことは疑えない。
 腹が減った子どもに飯を食わせたこと。汚れた服を洗って干したこと。知らない言葉の意味を一緒に調べたこと。ぼさぼさの髪を毎朝梳かしてやったこと。つまらないニュースを眺めながら世界について語ったこと。そういうのが全部、疑えなかった。迷う暇がなかった。何が正しいかなんてわからなくても手が動いていた。ずっとそんな風に生きていたかった。
 忘れてはいないよ。
 忘れていないだけだ。
 歪に守られたあのかりそめの平穏を命がけで絶ったとき、俺が向けた背の先で、涙が落ちたことも。


2023年11月8日

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