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見上げた空のパラドックス
36 ―side Shino―

 あの夜があったはず、なのに。
 仕事をしているとすぐ近くの少女の背が遠く映るのは、なぜだろうか。
 彼女はナイフを握ると目つきが変わる。無感動で、けれど鋭さはなくて柔くて、ふわりと舞う冷たい雪みたいな。雪だから触れたら消えてしまう。触れてはいけないと思ってしまう。白刃が閃き、花のように赤が散る。彼女はいつも俺より一歩前に出たがった。殴られても刺されても気にも止めず、声も上げず、動きも鈍らず。銀のナイフが赤をつたって軌跡を描く。これは本当に殺人の様相なのだろうかと、ふと疑問に思う瞬間がある。あまりにも――きれいだ。
 血溜まりにたたずむ彼女の頬に手を伸ばすとき、胸がひりひりとしてたまらなくなる。微笑でごまかして透明な涙をぬぐって、おつかれ、と間の抜けた声を出す。少女は泣いているのが嘘のような落ち着いた口調でお疲れ様ですと返してくる。全身をべっとりと返り血に濡らしながら。
 少女の仕事着にしているジャケットはいつも洗濯をプロに任せている。シャワーを澄ませリボンを結い直した彼女はありふれた少女の佇まいに戻って、ありふれた少女みたいに笑う。

「篠さん、今日もありがとうございました」
「おー。あんたもな」

 彼女の笑顔は日を追うごとに明るくなった。俺の顔をみるとパッと笑って名を呼んでくれるのがくすぐったい。
 二人で仕事ができると、二人で帰れるからいい。夜道をたどるだけに心躍らせるなんて彼女に出逢うまではなかった。人を傷つけることも、嘘をつくことも、力を使うことも嫌だったのに、最近は帰路があるからというだけで嫌に感じなくなってきている。人としておかしいのではと思う。
 心が揺れている。
 桧に指摘を受けてから、自覚は日々のうちに少しずつ育った。努めて呼吸を深く遅くした。この揺らぎをどうにかする方法を俺は知らない。知らないうちに何かが狂っていく。それでも仕事は普通にあるから、できるかぎり穏やかでいる。慣れたリズムを守り、日々を進行する。
 ただ。
 やはり戦闘中の極限において穏やかさの鎧はかならず暴かれる。
 その瞬間を目撃したのが俺で、よかったのだろうか。
 ある晩秋の、ありふれた平日の深夜だった。東京の真ん中の、灰色の街の底。彼女が本格的に仕事を始めてからこなした件数が二桁目を数えて少しのころ。俺たちは出逢った。大したことじゃない。この仕事をしていればたまにある話だ。
 ターゲットが、彼女が手を下す前に自害した。
 相手は一人だった。壮年の男性で、俺とはたまに決まった酒場で居合わせて話すくらいの仲だった。だらけた酒場のソファ席でさえ動きのきびきびした奴で、俯きがちな目がぎらついていて、政治批判とくだらない下ネタを好んでいた。俺が話しかけなければいつも一人でいた。ごく稀に会話の通じにくいことがあって、たぶんほんのちょっと病いの気があったのだと思う。異能者で、よくいる世界隊上がりだった。
 ちょっと話したいことがある。そう切り出しただけでターゲットは快く誘い出されてくれて、その時点で俺は、ああこいつ気付いているな、とわかった。俺がサウンズの諜報員であることに。
 ずっと諦めていたのだろう。
 誰のせいでもないはずだ。
 彼はふと頭痛を訴えて俺のほうをじっと見た。そして少女の急襲を受けても驚かず、反射的に体が動いたと言わんばかりに刃を前腕で受け止めていた。どう見ても訓練された動きだった。俺も必要なら加勢するつもりでナイフを握った。そして彼は言った。

「なんでお前がここにいるんだ――?」

 いつもぎらぎらと下のほうを睨んでいた目がその瞬間、確かに上がった。確かに、少女のほうを見ていた。視線に秘められていたのは見慣れた絶望でも憎悪でもなかった。彼が何を考えていたのか俺にはわからない。少女は何も言わず、動じず、仕事を続けた。ターゲットは低酸素で動きが鈍っていただろうに、たっぷり十秒ほどの攻防があった。そして、少女が負けた。
 彼は。攻防の『後になって』自前のナイフを抜いたのだ。武器を持っていたのに抜かずにいたということは、少女の振りかざす刃に本気で抵抗する気はなかったということだ。それならなぜわざわざ時間をかけて応戦などしていたのか。おそらくは、時間稼ぎだった。彼は何かを見極めようとしていた。傷を負っても気にも留めずに。
 少女の体が吹き飛ばされるまで予備動作はなかった。何の作用で吹き飛んだのかも傍目にはわからなかった。壁面にたたきつけられた彼女が体勢を立て直した一瞬で、ターゲットの手に白刃が光った。俺は咄嗟にナイフを構えた。そうして。
 彼が己の腹部に刃を押し込んだ。
 俺は上げたばかりの得物を下ろして、少女に目を向けた。

「終わったよ。帰ろう」

 声をかけても彼女は壁際に立ちすくんだきり、血を流してうずくまるターゲットを見下ろしていた。無感動だったはずの青い目が揺れた。涙の気配はなかった。澄んだ声が、一度だけ鳴った。

「どうして」

 じわりじわりと血だまりが広がる。
 ターゲットは的確に自身の急所を貫きはしたが、即死ではなかった。ぎらついた目が震える青い目を見返していた。しわがれた喉が水っぽい息を吸った。
 だめだ。こういう奴の話は聞くな。ろくなことがない。少女の手を引こうとした。彼女は動かなかった。

「お前が、それを、聞くのか?」

 いいんだ。聞かなくていい。
 誰のせいでもない。誰も関係がない。彼はきっと放っておいてもいつかこうした。あんたが現れなくてもきっと。

「勝手に死んだのは……、そっちが、先だろ……」

 ちがうよ。
 完全に人違いだ。
 おかしい。なぜそんな間違いが起こる?
 俺はしゃべり続けようとする狂人に歩み寄った。もう全身に力が入らないだろうに顔だけ持ち上げて、最期まで少女を見つめようとしているようだった。黙ってその目に刃を押し込めばもう何も言われることはなかった。終わってからふと自分が怒っていることに気がついて、ひとつ、深呼吸をした。ああ――、怒りに任せて人を殺したのも、初めてだ。俺もすっかり狂ってしまったんだな。笑顔を取り繕う。
 彼女の手を引く。もう抵抗はされなかった。

「そらちゃん」
「……」
「こういうのは一定数いる。気にしてもしゃーない。考えちゃいけないよ」

 車内、自害した死体がビニールにくるまれて目の前に転がっている。かたかたと震え灯るランプの傍ら、少女は口を引き結んで俯いていた。息が浅くて、ずっと喉の奥に何かを呑み込んでいるみたいだった。言葉をこぼしてしまうことを恐れているみたいだった。
 言ってよ。
 俺は祈るように少女の手を握った。少女は驚いたのか肩を跳ねさせて、けれどそっと握り返してくれた。
 数十分して、普段通りにシャワーと着換えを済ませた彼女は、あっけらかんと微笑んでお疲れ様ですと言った。

「すみませんでした。お手間おかけして」
「……大丈夫か」
「はい。少し、びっくりしただけですよ」

 ――隠したな。
 またわずかに怒りを感じて呼吸を整えた。俺はそれ以上言葉を続けなかった。うっかり力が漏れてしまったらかなわない。黙ったままで帰路について、そんなだから逆に心配された。篠さん。気遣うように名を呼ばれ、どうとも答えられずに無視をした。街灯の光が白々しくて嫌になった。やっぱり俺には届いていないのかな。彼女の持つ何かのことが、俺にだけ見えていないのかもしれない。そればかり考えていた。
 もうすぐ帰宅といったあたりで、隣を歩いていた少女が、一歩、二歩、小走りで前へ出て、俺の前に立ちふさがった。透き通った青が俺をまっすぐに見上げた。冷えた夜風に彼女のスカートがはためく。

「篠さん。怒ってますね」
「……」
「動揺してるの、私よりも篠さんのほうですよ。大丈夫ですか」

 冷たく小さな両手が、俺の手を取りあげて強く握った。

「言っていいですよ。なんでも。何がきても私死なないので。受け止めます」
「……」
「篠さん」

 うるさいよ。
 本当に揺さぶらないでくれ。わかっている。おかしいよな。どうして俺は部下が傷ついてしまったかもしれないときに自分のことばかり考えている?
 笑い返すことができなかった。冷気を吸い込んだアスファルトばかり見つめた。彼女は手を離してくれなかった。

「……そらちゃん、」
「はい」
「わかんないよ……」

 かすれた声が出た。
 何を言えばいい?
 何を思えばいい?
 俺は何を思っている?
 わからないから、何も言えない。

「……ちょっと歩きましょうか」

 少女が俺の手を引いた。
 家のほうでも駅のほうでもなく、あてどもなく。夜のオフィス街はまれに車の往来がある程度で、そよ風の音が耳元に大きく聞こえる。静寂にかすかな二人分の足音を刻んで歩く。リズムは徐々に遅くなった。寒風を吸って吐く速度も。握り合った手に温度が宿るまで、目的もなく歩いた。
 俺はずっと少女を見ていた。細やかなショートヘアが、青色のリボンが揺れている。小さな足がアスファルトを踏む。幼い横顔をたびたび街灯が白く照らす。
 気ままに行きたいほうへ、言葉もなく互いの足の向かうほうへ、なんとなく曲がったり曲がらなかったりした。そのまま、ゆっくりとたゆたうまま、やがてなんとなく足が止まった。なんとなく、言葉がこぼれた。

「あんたが、」

 彼女が微笑んで俺を見上げた。

「あんたがそんなに隠すほど、俺、頼りない?」
「……、」
「……」
「……あはは! じゃあ、どのくらい甘えてほしいですか?」
「え、笑うとこか?」
「篠さん。私は子どもなので、大人に甘やかされたらほんとに甘えちゃいますよ。怖かったら守ってって言います。悲しかったら慰めてって言います。寂しかったら一緒にいてって言いますよ。そうしたら、あなたは落ち着きますか?」

 ころころと肩を揺らして笑う声さえ澄んでいた。俺は何も言えなくなって笑顔を見返した。無理をしているわけでも笑うしかないわけでもなく、どう振る舞うかを心で選んで、彼女は笑っていた。からかわれていると気づくまで数秒かかった。
 ああ、わかってるんだな。
 俺があんたを好きだって。
 少女はひとしきり笑って、黒々と冷えたアスファルトにステップを踏んで、それから灯りが消えたみたいにふっと声を落とした。

「でも――、言えないことは、言えません。あなたが大人でいてくれるかどうかは関係ありませんよ。あなたがどんなに頼もしくても、私は、言わない」

 自分は子どもだからと彼女は言うが、その言葉には教師が生徒を諭すような響きがあった。決然としていて、何を言っても折れてはくれないだろうとわかった。俺は呆然と聞いて、置き去られた迷子の気になって握る手を強めた。
 そうやって距離を取って、逃げてしまおうとするんだな。俺の歌でしか泣けなかったくせに。

「……寂しい。一緒にいて」
「言うと思いました。あなたのほうが大人なのに」
「あんたのほうが強いから」
「そうかなあ。でも、なんでも受け止めるってさっき言っちゃいましたしね」

 ありがとうございます、篠さん。
 彼女はなぜか礼を言った。
 もう少しだけ二人で夜を縫った。死を見た直後でも、汚れきった都会の夜でも、俺の手を握る彼女はどこか楽しそうだった。彼女が笑っていてくれるのならこれでもまあいいか。そう思わせてくるからずるい。
 失う覚悟はしておけ。桧の忠告が脳裏をかすめていた。


2023年11月5日

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