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見上げた空のパラドックス
35 ―side Sora―

 慣れること。
 人の死を見ること。血の匂いを嗅ぐこと。悲鳴や呪詛を耳にすること。絶望に染まった眼を見下ろすこと。己に芽生えようとする祈りを無視すること。自分の体温でぬるくなったナイフの感触、狭い空間で地を蹴り初速を上げること、深く肉を貫くために必要な重み。涙をぬぐうこと。跳ね上がった鼓動の気味悪さに耐えしのぐこと。
 大丈夫。今日も仕事は順調だった。
 コミュニケーションに関しては依然篠さんに任せきっている。私は現場付近で息をひそめ、合図が出たらナイフを手に黙って急襲する。一人が相手なら私一人で。多勢が相手なら篠さんと二人で。事が始まればいつだってすんなりと数秒で命が散る。異能者に出くわすことがあっても篠さんに無力化できない相手はいなかった。けれど、篠さんに力を使わせるのは合理的に考えてもよくない。彼が消耗してしまうのは損失だ。だからなるべく私が敵意に敏感でいる。篠さんよりも前に出る。どうせ死なないから盾にもなる。
 気体を大雑把に操るのは比較的楽だ、と気が付くまで時間はかからなかった。炎を出すよりももっと単純な操作で済むから消耗を抑えられるし、何より私が火を見なくていいから心理的なハードルが低い。
 仕掛ける前にじわじわと酸素濃度を下げることが私の常套手段になったのは仕事が十回目にもならない頃だった。篠さんからは「ほら、俺より強い」と肩をすくめられた。ほんとうかなあ。あなたの仕事ぶりがスマートすぎて、なかなかそうは思えないんですけど。

「おつかれえ、そらちゃん」
「お疲れ様です」
「今日も派手に汚したなー」
「すみません……」
「上出来、上出来」

 赤黒い屍の散乱する敵の城で、私はたいてい集中の切れた瞬間から泣く。嗚咽の気配もない冷めた涙は、驚くほど私の心象に関係なくほとんど自動的に溢れ、やがて止まる。仕事に支障はないからいいけど。
 篠さんももう慣れたもので、殺戮が終わると私の顔やら手やらの汚れを拭い、掃除屋の車まで引っ張っていく。私はけっこう戦ってしまうので篠さんほど綺麗にはなかなかいかなかった。
 意識を失ってしまうようなことはあれ以来なかった。死体袋の隣でぽつりぽつりをおしゃべりをすることにも慣れ、掃除屋の事業所でシャワーを貸してもらって、服を着替えて帰る。いつも同じパターンがつかめてしまえば心象なんて面倒な通学を繰り返すこととそう変わらない。薄情なほどに緊張がない。
 それじゃあおやすみ。軽い夜食をとったら言い合って、篠さんが自室へ上がっていく。リビングに私だけが残っても、もう勝手にコンロを使うことはなかった。
 桧さんには、見つかってしまった翌朝、すぐに話をした。
 なるべく一人で火を見る練習がしたい。人に頼らず恐怖をいなせるようになりたい。

「難しいだろうな」
「……難しい、ですか」
「お前は監視下にあるんだよ。危険な異能者だから。一人での行動が許されてんのは、お前が余計な危ないことをしないでいられるうちだけだ」

 彼はいつものように朝刊を膝に広げ、文面に目を落としながら説いた。 

「異能者ってのはあんまり動揺すると発作が出やすくなる。うっかり力が漏れる。力の漏れる規模がどの程度で済むかは、誰にもわからない」
「……」
「心が揺れる行動にはそういうリスクが伴う。だから教育がかならずマンツーマンなんだよ。深く信頼できる人がずっと隣についとく、それが安全だから。篠はありえねえくらい仕事あるからずっとお前の隣にはいないが」

 発作。
 危ないってそっちのことか。考えの足りなかった自分を恥じた。私も起こしたことがある。倖貴の死の直前だ。力の扱い方がまったくわかっていなかった頃のことだった。あれが起こりやすくなると言われると、なるほど、ますます己のしていたことの軽率さが浮き彫りになった。

「悪いが観念してくれ。怖いことに一人で挑戦すんのは、誰かといて平気になってからでも遅くねえだろ」
「……はい。本当に申し訳ありませんでした」
「いい。何事もなかったんだから。昨日も言ったけど今後は俺がいるときに声かけてやってくれよ。そうしたらここにいとく。余計なことは言わないから」

 恐怖症の治療のほうはそうして一人ではやらなくなった。そうは言っても桧さんは本当にソファの定位置に座ってのんびりしているだけで、私が過呼吸を起こして泣き出しても振り返らなかった。ありがたいことだ。私が一人でやりたいと言ったから。ひとたび助けてと口にしてしまえば手を差し伸べられてしまうことはよくわかっていた。震える身体で出かかる言葉を飲み込んでいた。何度も。何度も。

「篠には言わないほうがいいかもな。たぶん死ぬほど心配させる」
「……ありがとうございます。大切にしてくれて。桧さん」
「はーあ、これが大切にしてるように見えんのかよ……」

 互いに目を合わせないままでも確かに通じる。暖かさに逃げたくなって微笑む。
 治療の成果が出ているのかどうかは、わからない。繰り返し挑むことはできているのだから前進したととらえてもいいのだろうし、やるぞと思ってキッチンに近づくだけで震えが出るようになったから悪化したととらえてもいいのだろう。でも、人と話すと、恐怖はすぐに落ち着く。
 火のことだけではない。
 私が殺しの仕事を平気でこなせているのは、彼らが隣にいて、声をかけていてくれるからだ。これが会社の体制であって冷たく合理的な戦略なのだとしても、彼らの声によってふっと絶望がほどける瞬間の安堵は間違いなく本物だ。
 ほらね。思った通り。思ったよりも。私は殺し屋として働いていられる。
 強くなれた気はあまりしなかった。
 弱いままで、支えられて、ここにいる。感謝してもしきれない。それはとても幸福で、いとおしいことだ。

「そらちゃんさ、最近なんか明るくなった?」
「私もともと明るいほうですよ」
「んー、そっか」

 特に篠さんの前では意識的に笑顔で振る舞うようにした。だってそうした方が篠さんがうれしそうだから。そうすべきなのだと思った。
 なにより、私自身が線を引くために。大切なものを大切にするために。
 距離を取る。
 隠している。
 大事なことは言わないでおく。
 言ったら彼らはきっと困ってしまう。優しい人たちだから、真剣に私のことを考えてしまう。そんな時間はとらせなくていい。この世界は私のためには回らなくていい。私が罪も恐怖も安堵も刻めないことは、悲しいけれど、正しい。彼らが彼らの思いを刻んで生きている。それだけのことをできるだけ遠くから愛していたい。
 初めて人を殺したあの夜から、ゆらりゆらりと、己の孤独について考えている。彼らにすがってしまいたい気持ちはもちろんある。手を伸ばせば届く確信もある。届いてしまった瞬間もいくつかある。
 それはとても幸福でいとおしいこと、だから。
 死にたいなどとは、一言も漏らさず、素振りにも出さない。
 明け渡さないことで、私は何を守っているのだろうか。いつかの別れが怖い。いつかの忘却が怖い。いつかすべてが大切ではなくなる瞬間が怖い。彼らのささやかな平穏に水を差したくない。いとおしいものに、ずっと、いとおしいままでいてほしい。
 息が苦しい。
 大丈夫。今日も生活は順調だ。

「ちょっと寒くなってきましたね」
「そやなー。そろそろ冬物買わんと」

 誰を殺しても、誰を愛しても、慣れ切ったリズムで、日々は続く。


2023年11月4日

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