見上げた空のパラドックス
33 ―side Sora―
「……何してんの」
「あ、……桧さん」
いつもの背の低い四角いビル。深夜の誰もいないリビングで、じっと動悸が収まるのを待っていたら、桧さんが降りてきた。
篠さんがお仕事で街に出ている頃合い、私には仕事が入っていなくて、数日ぶりに暇になって、また火を見る練習をしていた。一秒だけガスコンロのつまみを回して止める。心臓が鎮まるのを待って、余裕があったらもう一度挑戦する。我流でやっている治療にしてはうまくいっているほうだと思う。ただ指先に力を込めてつまみを回して戻すだけ、それだけだ、と言い聞かせている数秒のあいだ、恐怖を押し込め動くことには成功しているからだ。そして火を止めた瞬間に決壊するわけだけど。
人前だ。ぐっと喉の奥に息を詰め込んで笑顔を作った。眠たげな眼をした桧さんは嫌そうに顔を背けて、そそくさとキッチンへ入っていった。私が消し損ねたから電気はついている。冷蔵庫の戸を開ける音がする。どうやら喉が渇いて起きてきたみたいだ。
「見なかったことにするのと、しばらくここにいとくの、どっちがいい」
ぱたむと戸を閉めながら彼が言った。虚を突かれた私は一拍だけまばたきに時間を費やして、何を言われたのか理解して、そうして取り繕った笑顔から力が抜けていった。ふっと結び目がほどけるように呼吸が戻る。冷たかった夜半の空気にぬくもりがさして、少し困った。
「桧さん眠いでしょう。夢ってことにしてください」
「お前も早く寝ろよ」
「ありがとうございます」
のそのそと少量の水を飲んだ桧さんがまた階段のほうへ背を向ける。泣いていたことについて深追いされはしなかった。私はその背が消えるのを見送って、いつの間にか胸の中から去ってしまった恐怖に自嘲した。ああ、やめたほうがいいよ、喪失を自分以外の人で埋めるのは。こうしてうっかり埋まってしまって安堵を受け入れることも、きっと、やめたほうがいい。
立ち上がる。平気になったのならもう一度だけやろう。ひとりで平気にならなければ意味がないのだからやり直そう。これは前進なのか、それとも自傷なのだろうか。わからないままふらりと足を進める。最近はこうしてひとりキッチンへ向かおうとするだけで膝が震えるようになってきたけど、震えていても、動けば、動ける。早く終わらせてここから離れてしまおう。そうしたらさっさと部屋に戻って寝る、今日はそれで十分だ。これで最後、あと少し。内心に繰り返す。離れたくて逃げたくて指先が冷えていく。慣れに従って一歩、キッチンへ踏み入る。
「高瀬」
耳慣れたぶっきらぼうな声にはっと顔を上げる。まだいたのか。というか、気配がわからないほど考え込んでしまっていた自分に危機感を覚える。
キッチンはリビングから階段へ向かう間に位置していて、壁から少し顔を出せば階段の入り口が見える。桧さんは一段目に足をかけたまま振り向いてこちらを見ていた。はあ、とため息とあくびの混じったような音が聞こえる。寝間着なのだろうスウェットの袖が紫紺の目をこする。
「やっぱ、いとくよ」
「……いや、でも、悪いです」
「お前ひとりじゃ危ないだろうが。つうか、常習だな?」
何もかも悟ったように、咎めるように言って、彼は片足を階段から降ろした。
「あのな、危ないことはやる前に相談すんだよ……。何隠れてんだ、いたずらでもねえのに」
「……、ごめんなさい。あなたの家で勝手なことをして。軽率でした」
「はあ。言えたら許してやるから今どんなこと考えてるか言いな」
「え、っと。すごく眠そうなのに引き留めてしまって申し訳ないです……」
「はいはい。で? 俺が引っ込んでたらひとりでどうする気だった」
「火を、見る練習を、していました」
「正直でよろしい」
彼は動く気力はないようでその場で壁にもたれかかり話した。眠たげながら芯のある叱責は度重なる恐怖の波に弱った心にはよく効いて、私はすっかりうつむいて掃除の行き届いたグレーの絨毯を見つめていた。
どうしよう。ひとりで乗り越えなければ意味がないのに。人に頼らずいられるようにしたくて始めたことなのに。優しい人に見つかってしまった。
「これからそれやるときは絶対に呼べ。なんかあったら止めてやる。別に何時でも付き合うから」
「……」
「うそ。無理。早い時間にしてくれ」
「本当にごめんなさい。今日はもう寝ます……」
「寝れるか? 震えてるぞ」
「ご、ごめんなさい。大丈夫です。ご心配おかけしてすみません」
「おいあんま縮まんな。そんな怒ってねえよ……」
とうとうひときわ大きなあくびを漏らして、桧さんは再び緩慢に階段を上り始めた。よろよろしている。大丈夫かな。
「あー……ねむい……ひっぱって……」
「え、ええ……? はい……」
とりあえず階段の明かりをつけてリビングとキッチンの照明を落とす。今日のところはさすがにこれで終いだろう。今後の練習はどうすればいいかな、考えながらおずおずと桧さんの腕を掴む。言われた通り引っ張り上げるとゆっくり階段をのぼってくれたけど、もうほぼ寝ている。
桧さんの部屋の前まで来て立ち止まっても反応がなかったから、致し方なく開けたことのないドアを開く。中は暖かくて薄暗い。見ればベッドサイドのランプだけがつけっぱなしになって、たもとに重ねられた本の表紙を黄色く照らしている。
(世界隊解散騒動……)
新書のタイトルが目に入ったが意味はわからなかった。
壁際にも大きな本棚があり、パッと見ただけでも几帳面に整理されているのがわかる。本の並ぶ段と、古い新聞の並ぶ段と、他にもなにやら白い紙の束が大量にまとめられている。棚上に地球儀がある。空気清浄機がそっと駆動している。殺風景な篠さんの部屋とはずいぶん趣が違って、なんか、全体的に、知的な部屋だ。
半分寝ている桧さんをベッドサイドまで引っ張っていく。
「お部屋ですよ、桧さん。もうベッドで寝られますよ」
「……ん。あんがと……」
声をかけると彼は目が開かないままうなづいてベッドに入った。私がランプを消すかどうか迷っていると、「つけといて」とほとんど寝言みたいな発音で言われたのでこのまま退散する。そんなこんなしているうちに体の震えは止まっていた。
申し訳ないことをしてしまったなあ。ひとまず明日改めて謝ろう。勝手に人の家でリスクのあることをしてしまったのは事実だ。指摘されれば軽率だったとうなづくしかない。謝って、たぶん、本当にちゃんと相談するしかないのだろう。私はひとりで問題なく仕事ができるようになりたいと。誰もいないところで、自分だけで乗り越えたいと。
己の寝床に入る。癖でプレーヤーを起動し、絡まりかけのイヤホンをほどく。今日も長い夜に眠るふりをする。
2023年11月3日
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