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見上げた空のパラドックス
32 ―side Sora―

 夜半。今日は私の仕事はないけれど、見学ということで篠さんについていく。とはいえ彼の仕事を隣で見ることはできないから、傍で待機するエコーズ社の車に乗って掃除屋の人たちと一緒に合図が来るのを待っている。
 例のヘッドセットで音だけは送ってもらっている。今回はあの街での仕事ではなく、篠さんの振る舞いかたはまた別のまったく知らない人みたいになっている。いったいその喉に何人ぶんの声を持っているのだろう。
 死体輸送車の荷台の中に踞っている。こびりついたかすかな死臭とひんやりとした空気に息を潜めているとなんだか落ち着いた。いつもの黒いジャケットのフードを目深に下ろして、片耳だけのイヤホンに耳を澄ませている。
 エコーズ社の人たちはというと運転席側で談笑しているところだ。私はあの人たちのことをよく知らないけれど、なんだか会社全体で特別に仲が良い感じがする。車にも社内にもほのかな死臭と冷気が漂っているのに、雰囲気はどこか暖かい。
 と、音声に展開があった。事が始まっている。あとはもう数分も時間がかからないとわかっているから顔を上げた。そろそろ出番だろう。
 荷台の扉が開く。夜だけど、遠くに見える街灯がまぶしくて目を細める。

「おーいお嬢ちゃん、行くぞー」
「はい。ありがとうございます」

 静かな街だった。都心からは少し離れて、深夜ともなれば家並みも商店も寝静まる。緩い寒風が家並みを縫う。自然と足音をひそめてアスファルトを踏んでいく。現場へは数十秒もかけない。テナント募集の看板が錆び付いているビルの後ろ、階段を上がって室内だ。音もなく押し入って、よう、とひらひら手を振る篠さんに会釈をする。ここからは現場が片付けられていくのを尻目に篠さんの講釈を聞く。

「これが一対多だよ。聴いててどう?」
「どうっていうか。篠さんはすっかり場に溶け込んでから急にやるので、スッといきすぎてよくわからないです」
「よくわかっとるやん。油断させる暇があるんならさせたもん勝ち。まあそういうのは難しいから、参考までにな」

 語る篠さんの姿が私にとってはいちばん不可解というか、感心するものだった。着ている服のどこにも、一滴の血痕も見当たらないからだ。そのうえシートにくるまれ運ばれていく死体を見れば、私には「基本は二撃」と教えたくせに、どう見ても傷が一ヶ所しかないものが目立つ。周辺に置かれた棚やテーブルに乱れもない。仕事ぶりの鮮やかさはどちらを向いてもわかった。

「殴って済むなら刺さなくてもええんよ」
「やっぱり喧嘩慣れしてるんじゃないですか」

 殺し屋として現場から学べることは多いけど、あっという間に死体は運びだされ、血痕の洗浄と消臭へ作業が移る。掃除屋の皆様には頭が上がらない気持ちだった。
 後片付けはもっぱらプロに任せ、また取って返して死体と一緒に車へ乗り込む。目の前に死体袋が積み上がっているから、ほんの少しだけ摘み取られた人生について考えそうになって、やめた。私には正しさよりも大切なものが多すぎる。

「言っていいのかわかりませんけど……」
「うん?」
「篠さん、ほんとに造作もないって感じですね。お仕事」
「ははは。殺しはな。やっぱ騙してる間の方が気い使うもん。俺はコミュ力で仕事してるからさ」

 つられて苦笑した。
 騙している間、と言うけれど。きっとあなたは騙していない時の方がずっと珍しいんでしょう?
 問わなかった。知って心に留めておくだけでいいはずだ。隣に座る彼の顔を見上げる。自然で完璧な微笑みだけが返ってくるから、彼は今も気を張っているのだろうと思う。素のときの彼はもっとまっさらで素朴に強情だ。

「私も早くお力になれるようになりますから」
「いいや。あんま焦んな」
「焦りますよ。篠さんのお仕事少しでも減らしたいですし」
「んなこと考えるもんやない。あんたには、あんたの仕事が回ってくる。それをあんたが選んでする。あんたのために投げ出す権利がある。他の誰も関係ない」

 彼は静かな声で言い聞かせた。
 それも、そうだ。私が罪に向かうことを彼のせいには間違ってもできない。してはいけない。私が選んでする。でもやっぱり、それでも、彼の仕事を一件でも減らせたら嬉しいと思うことには変わりがないのだ。ただ殺すだけの仕事ならうまく騙せない私にだって代われる。

「篠さんは、お仕事を投げ出したこと、ありますか?」
「あるある。しょっちゅうな」
「そう、なんですか。意外です」
「俺のはタイミング選べるから。今日はいいやーって、もうやれるのに後回しにすること、あるよ。最終的には俺の責任やけどな」

 仲良くなって情報を精査してから殺す。その行程には数ヵ月、一年、何年もかかることだってある。数日や単発で済むものはほとんどないと彼が言う。そうやってただただ仲良くつるんでいると、いつ手を下すか、わからなくなってしまう瞬間がどうしてもあるのだと。

「そういうのを減らすためにも演技をしてる。自分を切り替えたら、少なくとも帰って寝るころには、ああ、そういやあいつらどうでもいいやつらやった、って思い出せるから」
「……、……」

 ああ。私にはどうしてもできなそうな芸当だ。
 ただ何か祈りたくなって口を閉ざした。
 見上げれば味気ない鈍色の天井が死臭を吸っている。荷台には死体が積み上げられるスペースと殺し屋がちんまりと座るためのスペースがあって、申し訳程度の電池式ランプが車体の揺れにあわせてカタカタと震えている。そういう空間だ。息を吸っても薄まった血の匂いはあまりわからなかった。

「……ねえ、篠さん」
「ん?」
「私は。きっと、あなたよりずっと自然体で、本心でいるままで、人を殺しています」
「うん。知ってる」

 知ってるよ。彼はもう一度繰り返した。
 瞬いたヘーゼルアイはかすかに揺れながら私だけを見ていた。

「そらちゃん、」
「はい」
「別に焦らんでも、最初から、あんたは俺よりも強いよ。仕事のことはやってたら嫌でも慣れるし。……大丈夫、なんだよ、あんたは」

 彼は表情を変えなかった。物々しく積まれた死体袋に見向きもしないで、ガタガタ揺れる車体に居心地が悪そうにして、何気ない素振りのままで、私を見ていた。
 私は震え灯るランプの光に目を落として停車を待った。


2023年11月2日

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