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見上げた空のパラドックス
past script -2

 名前を、青柳俊と言った。

「鹿俣。久しぶり」
「……青柳。髪、伸びたな」
「ああ、うん。鹿俣はちょっと背伸びたね」
「ほんと!?」
「本当。そのうち大きくなるんだろうね」

 2007年8月2日白昼。青柳は他愛もないことを口にして微笑んだ。ほの青い昏い色の目は穏やかだった。
 同い年。十四歳の夏。俺は世界隊解散騒動の直前に一度だけ彼に逢った。彼も別に体格がいい方では決してなかったが、やっぱり彼の方が一回り背が高かった。俺は小柄な少年だった。

「青柳、どうやって俺の居場所を?」
「安心して。正規の方法じゃないよ」
「そりゃ、俺だって隠れてるんだから、そうだろうけど」
「知ってて黙る、って契約を、君の伴侶と交わしてた隊員がけっこういたから。ちょっと脅した」
「……突っ込まないでおくけど……」

 互いに三年もの逃亡生活を経たが、青柳はそう変わったようには見えなかった。世界隊に育てられ、日々犯罪に手を染めながらも、もとより世界隊の異常思想には染まらなかった彼だ。きっとずっと孤高を貫いてきたのだろうとわかった。
 誰に何を言われても、何も言われなくても、何を知っても、何も知らなくても。彼は彼だけの理由をもって、頑なに、ボロボロの身体で立っていた。赤く染まった雨の日のプラットホームで、死屍累々のさなかをただひとり祈りに立ちすくむ彼に、初めて出逢ったときから変わらなかった。

「鹿俣は、元気だった? 生活できてる?」
「うん」
「よかった。やっぱり。鹿俣なら逃げてもうまくやると思ったんだ」
「……青柳は……?」
「僕は……、大丈夫」

 絶対に大丈夫ではなさそうなことを言う。自然と彼の手がみずからの腹をさすっている。彼は世界隊にいた頃から、いやひょっとしたらそれより前からひどい被虐体質で、俺は詳しくは知らないが、たびたび身体が痛そうにしながら明け方に帰ってきたものだった。
 そんな彼は、そんなだからこそか、ひとたび仕事でナイフを握れば、罪に愛されたかのように鮮やかに人を殺したが。

「言ってなかったと思うけど、僕、異能者なんだ」
「……」
「傷とか病気、力で治せるから。大丈夫」
「……やっぱ、ずっとそういう感じだったのか?」
「そういう?」
「青柳、ひとりで傷つきながらやってきたのか。ここまで」
「うん」

 彼は迷いなくうなづいた。

「いいんだよ、使えるから。支配したがる奴らは無防備だ。僕を弱いと思ってるから、なんだって聞き出せる。お陰様で目的が果たせそうだよ」

 今になって思えば、青柳はその日だけやけに口が軽かった。世界隊で同級生をやっていた頃なら俺には決して言わなかっただろう、彼のいる暴虐の世界のことを、ためらいなく口にしていた。
 気がつけばよかった。

「目的って?」
「世界隊を滅ぼす」

 彼ははっきりとそう告げた。確信と静寂に満ちた口調で。

「全国の支部を回ったんだ。殺されそうになったり殺したりしたけど、でも、なんとかなった。僕はこれから本部に戻るよ」
「……どう、するんだ」
「言わない」

 言わない。彼はゆるりと首を振った。言ったら俺が青柳を全力で引き留めただろうと、彼にはわかっていたのだ。
 だったら。だったらさあ。どうしてわざわざ最期に俺に会いになんて来たのだろう。引き留められるかもしれないリスクを負って、それでもやって来て、俺が敏ければ察せたかもしれない言動をいくつも取って。
 止めてほしかったんじゃないのか。

「あ、でもそうだ、ひとつだけ言っとく。藤崎のことは、殺すつもりだ」
「あぁ……藤崎って、結局どうしてんの?」
「変わんないよ。木偶の坊だ。評価もされてないし、まだ逃げ出した君や僕の方が期待されてるんじゃないか」
「そっか。なんか、うざい奴だったけど、ちょっと気の毒だな」
「そうだね。あれで世界隊から離れられないんじゃ、救いようがないよ。……僕のこと好きだしね、あいつ。だから殺すしかない」

 殺すとか、生きるとか。
 十一歳で世界隊から逃げ出し、理子と暮らし初めてから、俺は三年ものあいだ徹底的に平和で安穏とした日常に隔離されていた。だからそういう物騒な話がすらすらと出てくる感覚をすっかり忘れてしまっていて、少し動揺して、うまく言葉が出なかった。

「なあ、鹿俣。まだ迷ってる?」
「え」
「何がしたいか」

 ――さらに三年前、俺が組織からの逃亡を企てたころ。
 そうだ。俺は世界隊を去るとき、最後に青柳のもとへ話に行った。彼だけが世界隊に染まっていない奴だとなんとなく察していたから、逃げることを打ち明けて、背を押してもらうか、あわよくば一緒に行きたかった。青柳はそうかと言って、彼もその日に本部から逃走した。ただし、俺と一緒には来なかった。彼にはずっと、ずっと別の目的があったから。
 世界隊を滅ぼす。
 俺は彼のことがまぶしくて仕方がなかった。最初から最後まで決然と目的に向かい続けた足取りが、遠く前をまっすぐ見据える揺れのない青い目が、自然な自信からやわらかく伸びた背筋が。誰の言葉も聞き入れず、かといって突き放さず、穏やかに頷いてしまうところが。
 俺はずっと迷っていたから。
 これでいいのか。言われるがままに人を殺して、何も知らないままでいいのか。確かに暖かく育ててくれた組織から逃げてしまっていいのか。理子に支えてもらっていていいのか。支えてくれる彼女に何も返せなくていいのか。無能で人殺しの俺が平穏に過ごしていいのか。一人だけ幸せになっていいのか。これは正しいのか。迷い続けて。いくら世界を知っても、学んでも、新聞記事に真の正しさは書かれていなかった。
 軸がないのだ。行き当たりばったりで目的がないから。
 それでも胸を張って正しかったと言えるのなんて、唯一、国の異能研究所から辰巳を助け出したことくらいか。
 だが、それだけだ。

「迷ってるなら、後のことを任せたいんだ」

 と、青柳が言った。

「――え」
「鹿俣。僕はね。これまで出逢ったすべてのひとの中で、君のことがいちばん信頼できると思ってる」
「…………なんで?」
「僕に触れて狂わされなかった人、鹿俣しか知らないから」

 彼は流れるようにそんなことを言って寂しそうに笑った。細やかな仕草のすべてが、言葉の発音や息の吸いかたひとつとっても、つくづく美しく、たぶん一般的には扇情的な奴だった。

「もちろん気が向いたらでいいよ。鹿俣は幸せになっていい人だ。僕みたいな奴の言ったことなんて、苦しければ、忘れてもいいから」
「……」
「でも、もし君が本当に迷ってしまったら、そのときは僕が標になってもいい? 僕は世界隊を滅ぼす。きっと色んな混乱が起こる。後始末を、誰かに頼みたかったんだ」

 気がつけばよかった。
 気づけるはずだった。何度思い返しても。あのとき彼の紡いだすべてに辻褄があって。察せたはずだった。平和ボケにあてられた俺は、急な話に混乱するばかりで、彼を引き留められなかった。
 青柳はその数日後に死んだ。世界隊上層部の全員をその手で殺戮し、表の世界に向かって全国各地の世界隊の悪事すべてを告発する遺書をばらまき、自ら研いだナイフを呑んで、見せしめになって、……自決した。
 彼は正しかった。
 吐き気がするほど正しかった。一生誰かに殴られて、誰かを殺して、不条理な暴力を憎しみ抜いた彼の勇姿は。確かに。正しかった。世界隊はあれよと言う間に瓦解した。裏社会に蔓延っていた不必要な殺人と不毛な異能者排斥のどれほど多くが救われたかわからない。混乱はあった。治安は悪化した。それでも彼の実績は誰にも否定ができないほど、世界隊は狂っていて圧倒的に悪だった。頭の足りない俺にだってわかる。要らない虐殺を目の当たりにした俺だからこそわかる。耳の奥にあの日の雨の音がする。あの悲劇は二度と繰り返されない。彼という正義の生け贄があったから。
 青柳俊は、十四年前、齢十四歳で死んだ。
 もしも一言だけ、今、彼に伝えられるとしたら、俺はたぶん「お前は間違ってるよ」と言うだろう。

 なあ、俊、きっとお前の存在にいちばん狂わされたのは、俺だ。


2022年4月25日

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