見上げた空のパラドックス
30 ―side Sora―
埋まらない。
足りない。満たされない。この穴は埋まらない。二度とは戻らない。
血を見たとき、ひとの激情に触れてしまったとき、私は気がついた。絶望でしか埋まらないと思った空虚を、埋める術が本当は存在しなかったことに。
意味がない。幸せにも不幸せにもなれない。なったところで無価値な淡い夢のうたかたに過ぎない。死を前にした名も知らぬ被害者のように、命を懸けて全霊で哀しむということが、私にはできない。確かに、尊い人命をこの手で不条理に奪ったのに。重ねた罪に、動かした心に、勝ち取った人生のすべての瞬間に、凍り付いたこの命は少しだって応えてくれないと――気がついてしまった。
そんなの許せない。
死にたい。ひとでありたい。
血の滴るナイフを、よっぽど自分の胸に突き立てようと思った。突き立てれば命は散らないにせよ心音は阻むことができる。ギリギリでそうしなかったのは、篠さんが見ていたからだ。あのひとは私をひとだと思ってくれている。それなら、あのひとの前ではそう振る舞おう。恩人を悲しませるわけにはいかない。彼が望むならいたいけな少女でいよう。この耐え難い希死も、ひとでありたいという願いも――心のいちばん奥底にある全てのことは黙っていよう。
休日明け。
サウンズレストエンターテイメント本社。慣れた舗道をさっさと歩いて出社すると、玄関先で社長が待ち伏せていた。
「こんにちは。美山くん、悪いんだけどちょっと青空ちゃんお借りするわね。すぐ戻るから」
あれよという間に手を引かれた。理子さんの手は相変わらずしっとりとして綺麗だ。
入るのは二回目になる社長室。ガラス張りの壁からは褪せた薄曇りがぼんやりと光を降らせている。前に来たときは外が快晴で嫌な気持ちになったのだったか。
理子さんは立派な椅子に座ることなく、私を入口付近に立たせると窓辺に向かって歩いた。
「ちょっとお話、しましょうか?」
「……」
翡翠色の強者の目が悠然と微笑む。
理子さんのことは怖い。
でも、どこか居心地のよさもある。彼女は私を人間扱いしていない。私は何も隠さず自然体でいい。
「お仕事、お疲れさま。どうだった? 人を殺してみて」
「……聞いてどうするんですか」
「答えさせるために聞いているの」
私はうなだれた。
「……死にたいです」
「うん」
「うらやましいと思いました。こんなに簡単に、あんなに強く絶望することができるんだって。死ねる生きものは、……きれいだなあって。私は、何度殺されても、傷つかなくて、何も思えなかったのに」
仕事中のことは正直あまり覚えていない。うらやましい。そればかり考えた、ということだけ、執拗に頭に残る。
「人を殺して、申し訳ないとか、苦しいとか、ちっとも思いませんでした。前はあんなに思ったのに。同じ罪を重ねた、はずなのに」
言わせてなんになる。懺悔にすらならないだろう。今の私には罪の意識が欠如しているのだから。
……本当に、ばけもの。
私がいちばんそう思っている。
曇天を背に立つ理子さんを睨む。彼女は意味ありげに微笑むばかりだ。
「そうねえ、青空ちゃん。いい方法があるんだけど」
「……」
「そう、たとえばね。こうやって」
彼女は懐から重々しい拳銃を抜き出すと、流れるようにその銃口を自らの側頭に当てた。がちゃ。まったくのノーモーションでハンマーが持ち上がる。
身体が先に動いた。
弾は本当に出て、煙を上げながら清潔な床に突き刺さった。私が彼女の手を逸らすのが一瞬でも遅れていたらと思うとぞっとして膝が震えた。熱を持ったバレルを直に掴んで引き寄せると拳銃はあっけなく理子さんの手を離れる。目前の人の危機が去ったことを確認して、私はへたり込む。
「な、……なにするんですか……急に……」
「うん、大丈夫。青空ちゃん、ちゃんとわかっているのよね。終わりは、あなたは持っていないけれど、私たちが持っている。私が今ここで死んだら、サウンズは崩壊して、辰巳も美山くんも路頭に迷って、全国の異能者が暴走して戦争になるわ」
火薬の匂いがする凶器を握りしめ、取り返されないようにしながら、彼女のあっけらかんとした言葉を聞いた。
「あなたは今、私を助けた。私の命が大切だと思ったから。そうでしょう?」
「……、……」
「あなたはちゃあんと世界を愛せているわ。……ただ、自分を責められる理由を、なんでもいいから必死で探しているだけ」
「……」
「なんてね。これはただの戯れ言」
彼女は楽しそうにくすくす笑った。
「お願いしたい仕事があるの」
私はおそるおそる彼女を見上げて、よろめきながら立ち上がった。酷い戯れに付き合わされた心臓がばくばく言うから呼吸を整える。息苦しさが消えることはないから無視する。拳銃は、少し迷ってからデスクに置いた。
「……仕事、ですか。私に直接?」
「ええ。あなた一人のお仕事。美山くんや辰巳には知られたくないから、是非とも内緒にしてほしいな」
しなやかな人差し指を顔の前に立てて彼女がささやく。いつのまにか、窓の向こう、薄い曇天の切れ間から光が筋になって降りている。まぶしさに思わず目を細めた。
また罪を重ねるのか。気が重くなって、気が重くなった自分に安堵する。
私は問う。
「何人、殺せばいいんですか」
「あなたがそこに至るまでに殺すだろう人数のことを言っているなら……まあ、三桁かな」
「……虐殺、ですね」
「ええ」
彼女は不必要に声量を落として、ひそひそと説いた。狙っている組織の主な活動場所。そこに人が集まる時間。敵の兵力と異能者の数。二桁は常駐しているらしい。
「……一人でやるんですよね。私にできる仕事ですか、それ」
「完全な殲滅は不要よ。組織の運営が維持できなくなればそれでいいわ。ざっと三十人くらい削ればいいかな。ただ」
「ただ?」
「殺してはいけない人がいる」
どう聞いても難しい任務だった。
二桁を相手取るなら間違いなく異能を使わなければならないけれど、生け捕りが必要ならそう大雑把なこともできない。相手が死なない程度に動きを封じる、そういう力の使い方を身に付ける必要がある。
彼女はひとつひとつ細かすぎるくらいに対象となる組織の特徴と生け捕りにしたい人についてを語った。私も仕事なら間違えてはいけないので真剣に聞く。隠し事だからメモは取れない。何度も聞いて、頭に入れる。
赤毛の青年。
敵対組織の長であり、名前を鹿俣朸という。
彼のことは間違っても絶対に殺さないこと。
「彼が生きてさえいれば、何回かは失敗してもいいわ。あなたは死なないから、やり直せる」
「……はい」
「まだ時期は指定しない。あなたがこれからたくさん仕事をして、うまく戦えるようになったら、その時に指示する。覚悟だけしておいてほしいの」
「わかりました」
くれぐれも内緒で。釘を刺され、私は神妙にうなづいた。
きっといつまでも埋まらない心の穴に、罪の予定を書き込んでおく。
2022年4月25日
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