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見上げた空のパラドックス
29 ―side Shino―

 彼女の仕事ぶりは鮮やかだった。本当に初めてなのか疑うほどに、迷いがなく、一瞬ごとに何をすればいいか直感で悟れるようだった。

「スポーツとかやってた?」
「ちゃんとやり込んだのは無いと思います。部活は陸上でしたけど、それも三ヶ月くらいしかやってないし」
「へえ」

 生来のセンスなのだとしたら恐れ入る。異能の扱いも飲み込みが早かったし、残念ながら、向いているのかもしれない。
 少女は死体のもとを離れると徐々に泣き止み、エコーズ社の宿舎で身なりを整える頃にはいつもの顔に戻っていた。さらには微笑んで、失礼しました、と言った。いつも聞く、抑揚の乏しい、はっきりした口調だった。

「これで、いいんですよね。お仕事は」
「ああ。うまくいったよ。お疲れ様、そらちゃん」
「篠さんも。すごいと思いました。溶け込み方っていうか」
「十年目やからなぁ」

 俺の仕事を彼女に見せざるを得なかったのは、けっこう、かなり嫌なのだが。彼女は特に気にしていないようだった。仕事への割り切りが最初から徹底できている。つくづく、恐れ入る。
 携帯で本社と桧に連絡を済ませ、空が白み始める前に背の低い四角いビルへ帰宅した。
 彼女は、慣れ親しんだリビングへ一歩踏み出すなり、唐突に意識を落とした。あまりに急だったので支えきれず、グレーの絨毯に二人してずるずると倒れ込んだ。

「そらちゃん」

 何度か呼び掛けても、閉ざされた目蓋が震えることすらなく。少女の身体は完全に脱力していた。平気そうに振る舞っていたが、きっと今夜に限ってはまったく大丈夫ではなかったのだろう。無理もないことだった。彼女は、その手で刃を振るって、確かに人を殺したのだ。
 ――もう戻れない。が、どうやって考えてみても、死体の前で俺と出逢ってしまった最初から、彼女が殺しを避ける術など無かったように思えた。粛々と進行する、まるで運命みたいに、罪そのものと惹かれ合うように、彼女は殺戮者となった。

「……おつかれ……」

 俺は精一杯ふんばって彼女を寝室に運んだ。硬い上着を脱がせ、布団に横たえ、少し考えてからリボンをほどいた。彼女のトレードマークともいえる、青いリボンの髪飾り。仕事中はつけていなかったが、血を洗ってからはいつもの位置に結わいてあったものだ。以前リボンを取り上げた時は一秒と待たずに取り返されたが、今回の彼女は目を覚ましもしなかった。俺はリボンをそっと少女の枕元に置いて、自室に帰った。
 明くる日は休日だ。俺も彼女も丸一日空く。担当者なら管轄する部下のストレスをなんとかしてやれ、そういう意味の、休日だ。
 俺は眠れなかった。死を前に、嗚咽するでもなくさらさらと涙を流す彼女の赤く塗れた顔が、忘れられなかった。俺は何も声をかけることができなくて、ただ血を拭ってやって、隣に座っていた。彼女も何も言わなかった。死体が運ばれていくまで、静かな涙はとめどなく流れ続けた。
 『手は出さないで』。仕事中に彼女が言った、その声のことを想う。彼女の話し方は普段から淡白だが、いつにも増して人間味のない、冷然とした声だった。鮮やかに敵を制した少女のそれはつまり邪魔するなという意味だ。
 突き放すことばかり言われている気がした。
 大丈夫。手は出さないで。
 その言葉のどれもが、おそらくは正しいのだ。彼女は強い。一人で戦える。
 自分の寝床にうずくまって、彼女の示したひとつひとつをひたすら反芻して、じっとおのれの心臓を痛め付けていた。眠気を感じられる精神状態ではなかった。休日の有効活用が本当に下手くそになっていけない。
 朝。
 どうしても耐え難くて寝床を出た。ギターケースを引っ掴んだ。そのとき。
 ノックの音がした。
 こん、こん。控えめな音だった。桧なら容赦なく入ってくるので、彼女だということはすぐにわかった。心臓が震えた。ケースから手を離して、深呼吸をして、扉を開けた。

「……おはようございます。篠さん」

 桧も起きていない早朝だからか、ごく小さな声で彼女が言った。服は変わっている。リボンは外されたままの姿だ。

「そらちゃん。おはよう。眠れたか?」
「はい……。あの。篠さん」
「うん」

 少女は俯いて黙った。何かを言いにくそうに。

「……とりあえず入るか?」
「……そうします」

 何もない部屋に無意味に置かれたソファに、最近は客人が多いようだ。並んで腰を下ろす。朝方の空気の冷たさと、静寂だけを共有する。

「篠さん、……寝てないでしょう」
「まだ帰って数時間しか経っとらんし」
「そうでしたっけ」

 栗色の短い髪が表情を隠している。
 並んでいるとわかる。彼女は本当に小さい。俺も別に大柄な方ではないが、それでも少女の目は俺の肩くらいにある。俯かれるとこちらからは何も見えない。

「……返しに来ました」
「え」
「プレーヤー。返しても、いいですか。……もうだいたい歌えると思うし」

 目が合わない。
 プレーヤーは俺が勝手に押し付けたものだ。返したければ返されるのはまったく構わないが、何が言いたいのだろう。
 あなたの歌、私は好きです。彼女は以前そう言った。もうだいたい歌えるということは、けっこう聴いてくれたのだろうと思う。複雑な心境になる。やっぱりもし俺を重ねて聴かれていたら嫌だ。でも、彼女が気に入ってくれたならそれはいい。歌ってくれるのなら、なおうれしい。

「……そらちゃん。言いたいことあるなら、言ってええよ。大丈夫やから」

 彼女が目を上げる。見るたびその透明度に驚く。秋晴れより深く澄んだ、明るい青色をしている。

「あれって、篠さんの歌なんですよね」
「まあ、な」
「すみません。私、……あの音楽が全部、自分の言葉に聞こえたんです。歌われていた、全部。これは私の感情だ、って思った」

 ――。
 そんなこともあるのか。

「考えないようにしていたんです。最初は、自分の傷とか。だって、苦しいって泣いてしまったら、なんか被害者面してるみたいで、気持ち悪いじゃないですか。全部、全部、悪いのは私だから、私が泣くのはおかしい、って思って」

 彼女は目を逸らして語った。俺も正面だけ見ることにした。晩秋の朝は、ただ肌寒い。

「でも、あなたの歌を聴いたら。そうか、……私は傷ついていたんだって。思って。だめだと思ったけど、思ったのに、聴いてしまって。痛いって、あなたの歌が、代わりにさけんでくれるから」

 淡白な語り口は少しずつ揺らぐ。

「えっと、つまり。なんか、救われた気がして。本当に陳腐な感想ですみません。もっと、うまく嗜みたいんですけど、……無理です。これ以上は。依存してしまったら、いけないと思うので……」

 だから返してもいいですか。彼女はそう続けて、部屋着のポケットから見慣れた小さな機械を取り出した。
 ――ああ。
 俺は笑った。彼女の「大丈夫」を孤独からの突き放しと思って震えていたのが、そうでもなかったと、しかもどうやら俺の押し付けた音楽のせいらしいと聞いて、笑わずにいられなかった。眠れない夜に焦がれた少女の孤高に寄り添えるものを、俺はもうとっくに手渡せていた。
 小さな機械をのせた小さな手を上から握った。相変わらず冷たいからたまらなくなって引き寄せた。目が合う。腕を伸ばす。抱き締めると彼女の小ささは見るよりも明らかに伝わる。体温はやっぱり高くない。

「篠さん?」
「安心した」
「……どうして?」
「こっちの台詞。どうして、わざわざ俺に聞くん? つべこべ言わんで返したらおしまいやんか。そんなの俺に聞いたら、ぜったい持ってろって言う」
「……」
「確かにな、どうせ酷い目に遭うのに、一度でも救われたら、後がつらいかもしれんよ。でも、じゃあ、後にいま逃したぶん苦しみな。罰は、その時になれば、いくらでも受けられる」

 もしも本当に俺の言葉でいいのなら、いくらでも吐ける。それが彼女に響くというなら。
 腕のなかでか細い肩が震える。

「泣けば。見てないから」
「…………っ」

 少女は嗚咽を呑み込むように息を詰まらせた。俺は、寝巻きにしているスウェットの胸元が湿っていくのを、じっと黙って感じていた。
 やっとだ。やっと届いた。絶対に届かないと思っていた。いいや違うか。最初から届いていたことに気がつけなかっただけだ。
 俺が抱えていたのは、点かない灯りではなかったようだ。
 子をあやすようにそっと肩を叩いた。しばらくそうしていて、気がついたら互いにそのまま眠っていた。狭苦しい二人掛けソファの座面で、身を寄せあって、乏しい暖をとっていた。
 昼頃になって目を覚ますと、視界の真ん中で少女が笑った。

「おはようございます」
「ごっ、めん……ごめん……寝てた……」
「あはは。篠さんはもっと寝た方がいいですよ。私はもう降りますね」
「………………」
「離してくれないと桧さんにチクります」
「やめて」
「冗談です」

 彼女はするりと抜け出して立って、年相応にあどけない笑顔を見せた。人を殺した翌日とは思えない素直な顔だ。そんな顔もできるのか。俺は呆然として目をみはっていた。

「ありがとうございました。……まだお借りします」

 透き通った声は、これまででいちばんやわらかく響いた。


2022年4月24日

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