見上げた空のパラドックス
past script -1
血液の滴る音がした。そこかしこから、己の身体から、目前に振り抜かれた切っ先から。
2007年8月5日夕刻。
まだあどけない、ほの青い昏い目が、何ら感情を秘めずに無数の命の終わりを見下ろしている。
冗談のような光景だと思えたらよかったのだろうか。冗談のわけがない。これは、この結末は、我々がどこまでも見慣れきった死の、順当な続きだ。
「用件は」
短く問えば、そのまま喉の奥から鉄臭いものがこみ上げてきて吐き出した。あと数分ももたないな。考える頭はひどく冷静だ。実際に温度が下がっているからだろうか。
どうしてかわざわざ即死させてくれなかった彼は、血に濡れた手で長い髪を邪魔そうに払い、静かな声で答えた。
「うなづいて」
ざらついてほのかに甘い、砂糖菓子のような、少年の声だった。
「殺したかったんだよね?」
六年前のあの雨の日のことだろうとはすぐにわかった。
なんだ、わざわざそんなことが聞きたかったのか。冷えた口許が弧を描く。わたしは素直にうなづいてやることにした。痛みも苦しみもない心地で、穏やかに、寒さだけが全身を支配していた。もう震える力もなく、流出する温度をとどめる術がないことを理解するだけだ。
「そう、よかった」
彼は無邪気に、寂しそうに笑った。
「僕と同じだ」
同じだろうか?
残りわずかの意識をもて余して、余計なことを考える。どうせもう何もできないのだから、死が訪れるまでは暇でしかたがないのだ。
わたしの憎しみはきっと正しいやり場を知らなかった。誰を憎むべきか、ずっとわからなかった。
お前はそうではないのだろう?
迷ったことなど、一度もないのだろう?
だから、こうして、ここへ帰ってきた。ナイフを握りしめて。微笑んで。憎んだすべてをその手で殺しつくすために。お前は誰を殺すか、誰を生かすか、選んでいる。いびつに残留した理性のなかで頑なで傲慢な正しさを取っている。
だからたぶん、お前はわたしとはちがうよ。
教えてやるにも声が出ない。
黒い服を纏った少年は、息をひそめ、祈るように、ただそこに佇んでいる。いつの間にか血の匂いがわからなくなっている。とうに誰の悲鳴も聞こえない。悼みだけが空間を満たす。差し込む夏の夕が、死体になろうとしているわたしを焼いている。
見下ろす視線は揺るがなかった。澄み切ってまっすぐな、殺意と悼みに塗りつぶされた目だ。出会ったその日から変わらない目。
見届けてくれるのか。
優しいな。
瞼が落ちた。脳裏に景色がほとばしって、これが走馬灯かと他人事のように思った。血なまぐさい人生だったが、後悔は無かった。妻は無事に生きているはずで、息子は無事に殺されるはずだから。
運命なのだろう。
運命を、彼のせいで、信じるようになった。
彼が初めて人を殺した日、その仕事ぶりを監修していた息子が、わざわざわたしの元へ駆けつけて言ったのだ。
彼は天才だ。罪に愛されている。人殺しのために生まれてきたにちがいない。
語る息子の目には、大きな羨望とあこがれ、そして名のつかない暗いものが揺れていた。そんな顔をする子ではなかった。彼に、青柳俊に出逢うまでは。
とうさん、あいつはやばいよ。微笑ってたんだ。人を殺したとき。かなしそうに微笑って、黙ってひざまづいて、祈ったんだよ。
その時は息子がわざわざおかしなことを報告しにきたなと思ったものだったが、結果はどうだ。この今が答えだ。彼は確かに鮮やかに多くを殺した。身一つとナイフ一本でここまでたどり着いた。
「……伝説も、刺したら死ぬもんなんだね」
声だけが聞こえる。
そろそろ寒さを感じない。
死にたくはない。
やりたいことはいくらでもある。殺したい人はいくらでもいる。だが、わかっている。わたしが今さら何をしても、しなくても――彼がたった一時この世界に現れてくれた、もうそれだけで。
死ぬべき人は、死ぬだろう。
わたしたちも。彼も。その先に続こうとする愚か者たちも。今ここで歴史に深く刻まれた狂気が、何年先でも、この国の路地裏を赤く染め続けるのだろうから――
「うらやましいな……」
きみにはいるんでしょう? 祈ってくれる人が。
最期に聞こえた言葉は、霧がかったように遠く、深く眠りの底に響いた。
事件を見て、どう思った?
6年前、2001年6月21日深夜。わたしの問いに、親を喪ったばかりの幼い彼は、まっすぐな昏い目を細めて、こう答えた。
うらやましいな、って。
死は、きれいだね。
2023年10月28日
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