見上げた空のパラドックス
28 ―side Sora―
ネオンがまぶしい。
支給された片耳だけのヘッドセットはひんやりとしていた。小振りのそれが確実に隠れるよう髪を下ろして、目深にフードを被って歩いた。宵闇は蛍光色のきらめきに抗うように境界を鮮明にして、光の当たらない看板の下で息を潜めている。
今日はリボンを外している。万一汚れでもしたらいけないから、黒いジャケットの内ポケットに押し込んでおいた。
鼓動は静かだった。力を抜いて立って、腰に帯びた凶器の重みをたしかめて、私は前だけを見ている。
初仕事の夜。
思うことは何もない。ただ、そうだなあ、どことなく、くさい処だ。死とはまた違った異臭がする。たぶん、お酒と生ごみのにおい。生きている人間のにおい。そういうのが、濃い。誰にも守られない、この世のどん底みたいな街だ。緊張はある。怯えはない。
じっと待っている。
鼠と蟲以外には誰もいない路地裏で、殺すべき人がやってくるのを。
誘き寄せるまでは篠さんがやってくれる。本来なら私ができなくてはいけないのだけど、コミュニケーションの訓練は受けていないから、出てこないようにと言われた。その代わり片耳には向こうの音が入り、状況がわかる。会話が聞こえている。
……。
正直、意味のわかる単語は少ない。よくそんな下劣な笑い方ができるなとだけ思う。声の出し方が根本的に違っていて感心する。仕事中でなければ、うっかり篠さんのことが嫌いになっていたかもしれないが、わかっている。彼は周りに合わせているだけだ。
ポケットに手を入れたまま立っておく。ナイフを握っている。いつでも取り出せる。
時は、すぐに来た。
傍らの古びたビルの狭苦しい入り口が軋む。酔っ払いの集団は笑い話を続けながらぞろぞろとネオンのもとに影を落とした。私はじっと汚れたコンクリートの外壁に背をつけて息を潜める。
大丈夫。倒れる以外は失敗ではない。そう教わった。緊張しなくていい。
通りにたむろした集団は大声であれやこれやと話し合ったあと、まばらに解散したようだった。ゴミの散乱するこの路地に近づこうとする人はもちろんいない。
「あ、まってよ。おじさん、ちょっといい?」
篠さんの声だ。と判断するのが一瞬遅れるくらいまるきり話し方が違うのだけど。
イヤホンからはがさごそいう物音しか聞こえなかった。が、数秒して、声をかけられたと思しき人物の笑い声が耳につく。
「いいねえ! 話を聞こうか」
大きく息をした。足音が近づいたから、ヘッドセットの音量を下げる。握る銀色の柄はとっくに生温い。
柱の影に入る。
差し込むまばゆいネオンが揺れた。人影に遮られたのだとわかった。足音の静かな方が篠さん。ゴミを蹴飛ばしている方がターゲットで間違いない。
さて。
一歩。二歩。
「――OK」
静かな方の足音がふと遠ざかった。細路地の入り口を塞ぐ方に立ってくれたのだとわかる。ターゲットは自然、そちらを向く。私に背を向ける。さあ、息を吸って、止める。
行こう。
膝を折って伸ばした。三歩分もない加速度で重たい刃を振る。私のような小柄では一閃に助走と体重をかけなければ服の貫通すら厳しいわけでこうするしかない。刃の銀がネオンカラーの弧を描く。
浅く入った。マニュアル通りにはいかないものだ。痛みに飛び上がったターゲットがとっさに振り向く。目が合う前に腰を落とし膝を蹴る。半分転がるように飛び退いて、倒れ込んでくる頭を押さえ、引き下ろす。衝撃にゴミが散った。ああ。知覚がビリビリする。自分の呼吸も鼓動も聞こえないのに、戸惑いに蠢く蟲の足音やくぐもったターゲットの呻きはネオンよりも鮮やかだ。
迷わなかった。暴れ出そうとしたターゲットの手がかすったが気にすることではない。刃は、喉に。
「ッ――――」
外した。いや、入ったが、切り裂けなかった。相手はまだ生きている。鮮血がコンクリートに染みを作る。声を出せなくなったターゲットがもんどり打った。音のするほど血を流しながら、まだ立てるようだ。
戦うなって言われたんだけどな。ねえ篠さん、きれいに殺すのって本当に難しいですね。
私にはこっちの方が楽みたいです。
「手は出さないで」
篠さんに向かって言った。
どうせ殺せる。初撃から確信していた。相手はそう動ける人でもない。
ただ。……ただ。
目が合った。命に鉄のにおいが混じった濃密な暗がりの底で。殺されかけたターゲットが私を、見た。
瞳孔がひらく。
過集中で聞こえなかったはずの自分の心臓の音がした。どくん。禍々しい音で。急速にネオンの彩度が遠ざかる。喉が開き、不必要な空気を通す。いや。待て。何も理解するな。自分の心の声は聴くな。後でいい。今は。殺せ。
数回は殴られた気がしたが、血を流しながらで力が入るわけでもなく、衝撃すら感じなかった。空き缶を蹴って足元に押し込むと敵はあっけなく転んで。がくんとその頭が落ちた。私はナイフをかざす。見下ろした血濡れのうなじに。今度こそ一閃、振り下ろし、
た。
べしゃ。水の混ざった落下音で肉塊が沈む。真新しい死体は晩秋の深夜に負けじと生ぬるい熱気を発した。湿った死を肺に、私はナイフを握りしめたままの手を、ゆっくりと、下ろした。どろりとした液体が右手や顎を伝って落ちた。いつの間にか鼻が慣れて、においを感じなくなっている。
「…………」
もう何も見えない。
攻防は十秒かからないくらいだったと思うけど、永遠を過ごしたような虚脱感に襲われている。
温度の低いものが頬を伝って、黒ずんで、ぼたぼた垂れる返り血の後を追った。涙だと自覚するのに数秒かかった。
淡々と掃除屋に合図を出す篠さんの声が、やけに遠くくぐもる。あんなに眩しかったネオンカラーが何もかも褪せている。
数秒前の記憶が心臓をむしばむ。
目。
驚愕と当惑。突然の人生の終幕に対する動揺と悲嘆。不条理な暴力に全てを奪われる絶望。手遅れになってから初めて敵を、私を、観測した――目。視線を絡めた一瞬のうちにほとばしった、憎悪と。
……あれは。
きっとどんな言葉を尽くしても目の前にした者にしかわからないのだろうけど。
あれは。確かに。
(殺意だった)
(……死にたくない)
どく。どく。自分の身体の真ん中から嫌な音がする。美しくない。気持ち悪い。早く止めてくれ誰か。もう聴きたくない。もう人ですら生きものですらないくせにリズムを騙るな。虚ろな、無意味な、不気味な音を出すな。いやだ。どうかあの透き通った静寂に、青いだけの心象風景に、私を還してくれ。
なあ。死ぬんだよ。生きものは。生きていれば。刃ひとつで。ちゃんと、絶望できるんだよ。人間は。奪われれば。失えば。一瞬の視線のうちに、あれほどの激情を抱けるんだ。
うらやましい。
うらやましい。私だって死にたい。終わってしまうすべてに絶望したい。そうできないなら意味がない。夢のように淡く輪郭をなぞるだけでは、何もかもの価値がわからない。果てしなく終わらない人生になんて、きっと、なんの想いも刻めない。人間でありたい。ひとでいさせてよ。ほら見ろ、こんな願いだって涙だって一過性の気の迷いだ。どうせ永遠の後に忘れるだけの。
もう何も見えない。自分の鼓動だけが聞こえる。いやだ。とめてくれ。もういやなんだ。ゆるして。聴きたくない。
(死にたくない)
あの目が。目が、頭をぐるぐると巡った。
殺気。殺意。
こわい。
「そらちゃん」
「……」
「行くよ」
物腰を戻した篠さんに手を引かれるままその場を去った。全身に血を浴びた私は人に見つからぬよう闇を縫って。駆けつけたエコーズ社の車に、死体と一緒に乗った。最期の一瞬まで激情を抱いた、まだあたたかい、人間の死体と、一緒に乗った。
うらやましい。
死にたい。ちゃんと、正しく、人として死なせてくれ。どうして私だけ。この手のひらには、確かに刃を温ませるほどの温度があるのに。
そればかり考えていた。黙って泣き止まない私を前に篠さんがどうしていたのかも、どうやって帰ったのかも、全く覚えていない。
2022年4月24日
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