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見上げた空のパラドックス
27 ―side Shino―

「篠、入るぞ」

 ノックと扉の開閉で目を覚ました。桧の家の自室に置いた簡易的な折り畳みマットレスの上。眠気に霞む視界が像を結ぶまで数秒、部屋の照明が点って、見慣れた上司の顔に目を擦った。

「……おはよお、ひのきちゃん」
「起こして悪いな」
「なんかあった?」
「いや。大したことでもないんだが……お前最近クソ忙しいから、朝しか話せないと思って」
「んー」

 身を起こす。寝癖を片手で押さえる。時計を見上げれば遅い朝だ。だいぶ早起きしたなと感じる。最近の俺はたいてい少女の付き添いを昼に、殺しの仕事か音楽かを深夜にやるので、午前中は寝て過ごすのが基本だ。
 桧が起こしに来るなんて珍しい。緊急ではないにせよ重要度は高そうで、とりあえず布団を畳んだ。できれば真面目な話を聞くなら身なりを整えたかったが、まあいい。

「どしたん」
「……あー、単刀直入でいいか?」
「どうぞ?」

 身構えた。話下手な桧にワンクッション置かれるなんてそうそうないぞ。
 部屋に置かせてもらっているソファに並び、二人して何もない部屋を見る。

「篠さあ」
「うん」
「高瀬のこと好きだよな?」

 思わず隣を見た。桧はどこでもない床に視線を落としたままだ。
 動揺や当惑よりも疑念が勝る。急な恋話以前に、何故、桧がそんなことをわざわざ確認しなきゃならないのか。寝起きの頭が回り始める。

「……なんで?」
「あー、最初に言うと俺はお前の気持ち優先で考えたいと思ってる、から、怒らないで聞いてほしい」
「うん」

 どうやら朝っぱらから気の重い話のようだ。暗に仕事にかかわるぞと言われているのはこの時点でわかった。

「……考えてみろ。篠、お前は、優秀だったんだ。これまで仕事関係で不合理な行動とったこと無かったろ。高瀬のこと以外じゃ」
「……」
「まず最初から変だ。人を拾うのなんて珍しくもないが、お前、あいつのことだけちょっと甘やかしすぎっていうかさ。似てるからだろうとは思ったけど」

 俺は軽くうなづく。
 高瀬青空。彼女を本社に引き渡すまで、少しの間しか関わらないかもしれなかったのに余計な口出しもしてしまった覚えがあるし、甘やかしすぎと言われたらそうだとしか言えない。

「母さんがお前に出張させたのも、後から思えば高瀬を助けさせないためだったろ」
「まあ、そやろなぁ」
「わかるか? 逆に言えば、お前は組織に背いてでも高瀬を助けるだろうって、母さんが判断したってことだ。あの最初の時点で。……いいか、お前がだよ?」

 苦笑が出てしまう。桧には俺が相当な木偶の坊に見えるようだ。そんなに言うほど組織の言いなりだったろうか。理子さんにはまあ逆らえないが、理子さん以外には人並みに反抗的なつもりなのだが。

「でだ。……曲、聴かせたよな、高瀬に」
「うん」
「別に駄目じゃないんだけどさ。だって。……今まで無かったじゃん。お前、自分の曲、人に勧めたりしないじゃん。ずーっと一人で籠ってギター弾いてさ。音楽の話、仕事で必要な時以外は誰かにしたことないじゃん。触れられたくないんだと思ってた」
「まあ、そうやな」

 桧から音楽に突っ込まれるのはだいぶ恥ずかしい。いや別に、いいんだけど。
 曲は、俺を知っている人より見知らぬ誰かに届いた方がいいと思うし、その見知らぬ誰かにもずっと見知らぬままでいてほしい。歌を通して俺自身を想像されるのが嫌だった。わざわざ作品化して切り離した感情を、みたび俺のものだと思われてしまうのは。切り離した意味がなくなる。
 じゃあ、あの少女にプレーヤーを渡したのは? ――本当にあのとき言った通り、彼女の歌が聴きたかったからだ。それ以外の理由は無い。それだけで余計なことはぜんぶ吹き飛ぶほど、彼女の歌がいいと思っただけだ。
 決定的だった。歌声を聴いてしまったとき。妹に対する感情の複写ではない、彼女だけに対する認識が始まった。ことあるごとに、たった一回聴いただけの歌声が脳裏をなぞるようになった。

「この前なんかあったっぽいし。高瀬に聞いたら言いにくいって言われたけど」
「……あー……」
「心配、なんだよな。お前、最近疲れてんだろうし、高瀬とずっと一緒にいるし、なんかさ、今のお前ってすげえ不安定なんじゃないかって思って」

 なるほど。

「百理あるな」
「篠……」
「うん、報告する。俺、力漏らしたんよ。そらちゃんに」
「は」
「大事にはならんかったけど、ビビったな。マジで無意識やった。あるんやな、こんだけ慣れてても、無意識で出ること……」
「……」
「確かにこの状態で仕事すんのは危ないわ。必要なら引き離してくれ」

 行動動機の不規則な揺れ。転機。情緒不安定。感性で世界を操ろうとするわれわれ異能者にとって、心象や集中を乱すものというのは大敵だ。桧に改めて言われてみると自分の不安定さが身に染みた。上司として心配されて当然だ。

「伝えてくれて、ありがとな。桧」

 俺が避けてしまう分、俺の気持ちや状態のことなんかは、いつもこうして桧が気づいて考えていてくれる。これは俺の甘えでも桧への信頼でもあり、実際必要な分担でもあった。
 桧はただ重々しく息をつき、首を横に振る。

「……悪いが担当者は変更できない。高瀬は特別なんだ。母さん、奴のことなるべく隠してるっぽくてな。諜報なしで殺しだけやらされるのもそういう意図だろうよ。顔がどこにも知れないようにしてんだ。たぶん、つーか絶対、『とっておきの最終兵器』なんだろうさ。高瀬は」
「……」
「わかるだろ? 高瀬については全部、母さんが直々に指示を出してる。なにか急ぎすぎてるし、どう考えてもあいつは、……人間扱い、されてないんだ。いいことには使われないだろうし、それも、遠くないだろう」
「…………、うん」
「俺が言いたいのはさ、篠。……失う覚悟はしておけ、ってことだ」

 悲痛な警告だった。お前の愛するものはきっと酷く壊れるぞ、という。
 苦笑で返す以外にどうすればいいのかわからなかった。失う覚悟、できるだろうか。普段なら造作もないが。俺にも今の俺は信用ならない。
 ……大丈夫と言って少女が笑う。脳裏に印象がよみがえる。彼女はどうせ、どこまで堕ちても、あるいは堕ちれば堕ちるほど、透き通った目をして微笑むだろう。ぎこちなかった笑顔は、闇の底を見れば見るほど、絶望に触れれば触れるほど、やわらかく自然なものになってきている。圧倒的な空虚とあきらめを含んで。そして、彼女は、それでもすべてを慈しむように大切に歌を紡ぐだろう。
 胸が痛む。
 好きと呼ぶのか、これは。桧が言うならそうなのかもしれない。

「警告は受け取ったよ、ひのきちゃん」
「……あぁ」
「でも俺、わからんわ。好きとかもさっき言われて初めて考えたもん。どうすんの、こういうのって」

 仮に、これが彼の言う通り恋だとして。
 俺は十歳からこの十年ひたすら妹の世話と仕事に忙殺されてきたわけで、成人した今となっても、自分の感情的な問題に取り組むということはあまり経験した覚えがない。仕事上、人といわゆる恋愛的な関係を持つことはままあるが、どうせ最後には殺すし、いちいち情を湧かせていたらきりがない。……あるいは、何か想ったらすぐ音楽にして処理してしまうから残らないというだけかもしれないが。

「……篠、……お前、……」
「……」
「あー。そう、だよな。悪い。ごめん。言うべきじゃなかった。お前には気持ちをどうにかする時間、無いよな。無かったよなあ……」

 桧は相変わらず何かを思い詰めたような顔をして、少しの沈黙を経て、ソファから腰を上げた。視線を合わせると当然見上げる形になる。黒に近い紫紺の目だ。彼は癖のまま溜め息をついて、俺を見下ろして、声を堅くした。

「こういう言い方にするよ。――仕事はしろ。自分の状態がよくないってことは把握しておけ。取り返しのつかないミスは、してもいいが、そのときは俺が責任取る。いいな?」

 俺は居ずまいを正して微笑む。

「了解」


2022年4月24日

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