見上げた空のパラドックス
26 ―side Sora―
「殺すのは難しくない。最終的に首か、目を狙えば良い」
抑えた声で篠さんが言った。
「で、首か目を狙うなら、動きを止めなきゃ厳しい。大抵の一般人はどこでも一箇所が深く傷ついたら痛みでろくに動けなくなる。だから基本は、二撃だ」
こなしているが、やりたくなさそうだった。私に人殺しの技術を教えるという仕事をだ。
この会社に拾われた異能者というのは、基本的に仕事をこなせるようになるまではマンツーマンで、担当者でない他の社員とは関わらないように取り計らわれる。セキュリティ的にその方が都合が良いらしい。
私のこれまで受けた訓練のほとんどには篠さんが付き添ったし、この先、殺しの師も篠さんということになる。
「担当なのはええんやけどなあ……」
片手でこめかみを押さえながらそう呟いた彼は、本社ビルへ入ると居ずまいを正して、着実に仕事を始めた。
座学、ただし事例の検討から始まる。殺されるという極限に陥った人間がどんな反応を起こすか。相手の立場や体格、人数による対応の差。いつ異能を用いる判断をするか。最初の不慣れなうちはきれいにはいかないこと。動揺しないこと。
「もし相手が本気で応戦してきたらまず敵わん。迷わず、力を使え」
「はい」
「ただ、倒れないこと。これがいちばん重要。しんどいと思ったら応援を呼べ」
休憩を挟みつつ、助言なしで事例にコメントができるようになるまで机を囲んであれやこれやと言い合った。殺し屋の思考に慣れる。
篠さんは三つのことを繰り返した。殺すのは難しくない。戦うのは難しいから極力避けろ。倒れるな。
「ほとんどのことはやってみなきゃわからない。とにかく確実に殺せるまでは冷静でいること。最終的に殺せたらそれで達成だから、あんたが倒れなければ、あとはどうでも問題にはならん」
「はい」
そうして最後にナイフを選べと言われた。持ちやすいと思うものを。鍵付きの箱にずらりと調理用でもない武骨なナイフの並ぶ光景はなかなか異様で、ああ本当に物騒だなんて今さら思う。
いちばん持ち手の細いものを選んだ。柄まで銀色の両刃ナイフは、見た目の細身さに反してずっしりと重みがあった。これが、私の凶器。罪の伴侶。
「重いの選ぶなあ……一応聞くけど、体力に自信は?」
「あります」
「即答できるなら十分やな」
刃を手にした私を一瞥して、篠さんは何かが寂しそうに笑った。
「あとは最低限の護身術だけ教える。殺しは、現場で慣れてくれ」
「わかりました」
「……帰ろうか」
ナイフを畳み、自分のポケットに仕舞った。重みを全身で感じる。凶器を持ったというだけで、見据える罪にはっきりと近づいた気がして、いよいよなのだと背筋が伸びる。人を殺すのは嫌だ、けど、やはり無理ではない。私にはできるのだろう。抵抗感よりも諦めの方がよほど胸を満たしているから。
(……倖貴)
ごめん。こんな私になってしまって。
なぜかそう言いたくなった。彼を死なせただけですべて失ったつもりでいたくせに、さらに新たな、引き戻せない重罪を負うのだと、頭よりも心が先に理解している。
けれど安堵もあるのだから仕様もなかった。倖貴と笑いあった頃の自分から、離れれば離れるほど、倖貴のことを考えなくて済む。倖貴への恋と罪悪感に飼い慣らされるだけの、卑屈に閉塞した私ではいられなくなっていく。
私は罪を借りて私になる。誰の目も届かない孤独のどん底へ辿り着いて初めて、たった一人の、私だけの自責に気がつけるだろう。そうしないと、ただ願いを口にすることすら、傷に涙することすら、あの日の記憶が塞いでいちいち苦しくなるから。
もう、倖貴のことばかりを、私の痛みの言い訳にしたくないから。他の傷を増やしてわからなくする。そうでもしないとこれ以上は。倖貴のことが嫌いになってしまう。だったら私が堕ちればいい。私は私だけを憎めばいい。
間違っている。
わかっている。
それでも、何もかも置いて往けるのなら、もういい。
本社を出ると霧雨が街を覆っていた。アスファルトの地面が黒く濡れて光っている。景色のコントラストを極限まで下げようとする雨雲を仰ぎ、二人して息をつく。篠さんは緊張が抜けたのか気怠げだった。
「これ、どうぞ」
折り畳み傘を差し出すと彼は苦笑して受け取った。家を出る前に桧さんから持たされたものだった。逃げるように出掛けていった桧さんは、私が家を出る頃になって思い出したように帰ってきて、「篠に傘、持ってけ」と言ったのだった。几帳面な人だ。
「ありがとう」
「お礼は桧さんに言ってください」
「うん。マジで面倒見いいよなあ、あいつ」
「そうですね。桧さんって篠さんの担当者だったんですよね?」
「まあな。お勉強とかはめっちゃ教わったよ。殺しは教わってないけど」
「そう、なんですか」
「俺が最初だったから。サウンズで、きな臭い仕事任されたの」
傘を差して歩いたところで、霧雨はお構いなしに風に乗って服を濡らした。肌寒さに自然と足を早める。それでなくても早く帰りたかった。篠さんがつらそうなので。
「……強いんよな、俺の力。おやすみって一言いったら、聞いた奴は全員寝るもん。あとは首を切るだけ。何人でもどんな相手でも変わらん。重宝されるよ、そりゃあ」
「……」
「相手も異能者なら話は別やけどな。今でもそれなりに、うっかり汚い殺し方になる。戦うのは難しいよ」
寒さのせいか彼の声は震えがちだ。
さらさらと語るから、本当に数をこなしてきたのだろうと察するけれど、それでも、今でも、彼は殺しが嫌なのだろうと伝わる。麻痺しきらない。
すごいなとだけ思う。私なら諦めて黙って服従して、文句も言わず、それで終わりだろうから。
篠さんはぎりぎりのところで保っている。――人間性を。
そうありたい。
「そらちゃん、気を付けなよ。あんたも重宝される力を持ってる。過度に期待されるし、色々任されると思う。でも、奢るな。代償がある時点で戦いには不向きだし、できることしかできんから」
「肝に銘じておきます」
「……業務時間外に。ごめん」
「いえ。愚痴だと思って聞いてたので」
「そりゃ間違いない」
駅にたどり着いて傘を畳んだ。結局は傘も私たちもまんべんなく濡れている。透けない素材の上着で良かったなと思う。ポケットにナイフがあるから。
片手でリボンに伝う水滴を払った。撥水素材だから別にいいけど、大切なものが雨に濡れてしまうと嫌な気持ちにはなる。深呼吸でごまかす。
「寒ぃ……」
「篠さん、風邪引かないでくださいね。寝てないんですから」
「風邪引いたことないから平気」
「ならいいですけど」
私も寒さは感じるが、どうせ不調は来たさないから気にはすまい。
電車に揺られた。
「そらちゃん」
「はい」
「大丈夫か?」
漠然とした言葉をもって、見慣れたヘーゼルアイが私を見つめた。昨日のことを思い出した。
「大丈夫ですよ」
笑って返す。昨日も確信をもってこう返したのだけど、今日はきっと昨日よりもうまく笑えているだろう。だって私は、やっと、耐えるだけではない、願うことを覚えたんだ。うれしいことがあった。嫌なこともある。当たり前のことでしょう、だから、私も当たり前に進めるよ。
どれだけ間違っていても。
人間らしくいこう。
「……、……」
彼はまた目を逸らした。何も言わなかった。
2022年4月22日
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