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見上げた空のパラドックス
24 ―side Shino―

 輸送トラックの荷台で、ひどい揺れに尻を痛めながら、徐々に冷たくなっていく妹を抱えて泣いていた。
 十年前のことだ。
 碧を世話していた乳児院の職員が、四、五人ほど亡くなったと聞いた。碧の異能によって。
 俺は学校に行っていて、授業中にとつぜん養護施設の職員が俺を迎えにやってきて、そのままトラックに乗せられた。荷台の奥の方で、毛布に包まれ昏睡した妹が、凍えたような冷たさで浅い息をしていた。
 その頃は強力な異能者の面倒を見られる場所が東京にしかなかった。かつては異能者を大量にかくまっていた、『世界隊』と呼ばれた巨大な裏組織が、ある少年の自決によって告発され瓦解してから数年。桧理子が関東圏の主要な異能者をまとめあげ組織を持ってすぐくらいの頃合いだった。
 今思えば事件後すぐに東京へ送ってもらえたのは本当にありがたいことで、さもなければ碧は間違いなく死んでいた。が、当時の俺はとにかく動揺して、意識の無いまま少しずつ冷たくなってゆく幼い妹をどうすることもできず、どうしてこんな目に、なんて思ったものだった。泣き疲れて気絶してひどい揺れで目覚めて、を数回繰り返した。妹を固い床にさらしたらよくないと思って、ただ必死で抱き上げていた。
 トラックは半日後に俺たちを下ろした。俺はへとへとで、ろくに立たない足を震わせて、でも碧を抱きとめる腕にだけは力を込めて。開かれた荷台の扉の先に人影が見えたから、一も二もなく叫んだ。

「妹を助けてください」

 涸れたと思った涙が数滴だけ頬を伝って、碧を包む毛布に染みた。俺は訴え続けた。お願いします。俺のたった一人の家族を、碧を助けてください。
 急な寒さに呼吸が震えた。力を使っていた。碧が死ぬということへの恐怖と絶望を、救いたいという願いを、言霊にして撒き散らしていた。あのとき俺の声を聞いた人はたぶん今でも彼女を助けようとするんじゃないかと思う。
 その筆頭が桧辰巳だった。
 消え行こうとする命を繋ぎ止める、なんて芸当は、彼にしかできなかったからだ。
 桧の持つ異能は「流動性の抹消」と説明される。動いているもの、流れているものを概念的にとらえ、その流れを強制的に止める。そういう力だ。彼ほど異能の及ぶ範囲を抽象化し広げるには、ふつうかなり高度な訓練を要するが、彼はそれが物心ついた頃からできたという。
 彼は、碧に生じていた「死」の進行を、止めた。
 忘れられない。桧が駆け寄ってきて、碧の頬に触れたとたん、冷えきった身体から青色の蛍光がほとばしった。うずまき、拡散して、その光はどこか遠くへ消えていった。

「まだ助かる。間に合ってよかった」
「……今のは……?」
「さあな。俺も死にさわったのは初めてだけど、光るんだな……」

 それから。碧は病院に送られ、一週間後に目を覚ました。
 十年前のあの瞬間から、桧は絶え間なく異能を使い続けている。そうでなければ碧が死ぬからだ。当然、異能の使用には代償があるわけで、彼の寿命はそう長くないだろうと理子さんが言った。事実上、美山碧は桧辰巳の命を使って生きている。二人はおそらく、同時に死ぬ。
 俺はサウンズレストから桧のぶんの労働力を奪ったわけで、さらに言うと碧を助けさせるという無駄な労力をあちこちに強いているわけで、そのぶん俺が働くという契約になるのは必至だったと思う。むしろたったそれだけで許されているだけ優しいなとも。理子さんは不気味で残酷だが良心はある。
 ともかくそうして忙殺されたまま今日に至る。碧を育てて、生活を支えて、仕事をして、仕事をして、合間に音楽をした。息をつく間なんてなかった。
 いつからだろうか。逃げる癖がついたのは。突然なにも考えたくなくなって、一人でどこかへふらっと出掛けて、ぼーっとしていたくなる。もちろん仕事を投げ出すわけにはいかないから、俺の逃避行はたびたび睡眠を犠牲にした。
 行くのは、最近は海が多い。

「……」

 晩秋の朝、凍える潮風と波の音に、ふと電子音が混ざる。自分で設定したアラームだ。仕事があるので、もう戻らなくてはならない。
 黙々と歩いた。寝不足に頭が痛むが、ピークを過ぎたか眠気はない。逃げ出したいとは思わなかった。あの少女と顔を合わせることも、昨日は無理だと思ったが、眠らずいるうちにどうでもよくなっていた。
 見慣れた都心へ乗り継ぐ。少女には本社の最寄り駅で合流しようとメールを送っておいた。

「篠さん。おはようございます」

 灰色の駅前、見慣れた安いワンピース姿の少女が片手を振った。澄んだ声を耳にすると昨日の言葉が脳裏に走る。あなたの歌、私は好きです。連鎖して彼女の歌声を思い出す。頭痛が増した。考えるのはやめよう。

「おはよ、そらちゃん」
「……眠りましたか?」
「いや」
「今晩は眠ってくださいね」

 少女が歩き出す。青のリボンがなびく。迷いのない足取りで、今日も殺し屋になるために歩いている。
 もう今日は実戦を想定した演習に入る。彼女の殺しの任は先に決まっているので、それまでに最低限は仕上げなくてはならない。
 相手と仲良くなって情報を集めるでもなく、殺すだけ、なんて仕事は多くない。しかしどうやら彼女に関してはそういう方針で行くらしい。理子さんがなにを考えているのかはわからないが、俺には従う以外なかった。

「篠さん」
「ん」
「つらかったら言ってください。私にできることがあるかは、わからないけど」

 東京の晴天よりよほど澄んだ色の目が振り向いて俺を見上げた。もうその視線を碧と重ねることはなかった。同じだが違う。決定的な差を思い知っている。
 彼女は、孤独だ。
 誰も彼女を守らない。助けない。大切にできない。彼女自身すらも。それでいて自分だけの足で確かに立っている。ひとりで泣いて、人には本当に大丈夫と言って笑ってみせる。透き通った涼やかな声で、音や言葉のすべてを愛するように、丁寧な歌を紡ぐ。
 わずかに目を背けた。今は揺さぶらないでほしかった。俺は苦笑を返す。顔が笑ってしまうのはいつもの癖だ。

「うん、ありがとな。……行こ」
「はい」

 今日も二人、灰色の街を行く。


2022年4月20日

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