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見上げた空のパラドックス
23 ―side Sora―

 ――死人の目が苦手だ。
 異能の訓練も死体慣れも滞りなく終わって、とうとう殺しの予定が言い渡された朝。緩やかな目覚めと共に、誰にも言わないけれど胸のうちにだけ思った。訓練中は顔にも震えにも出さなかったけど、死人と目が合う瞬間というのはわけもなくぞっとする。倖貴の死はしばらく記憶から消し飛ぶほど凄惨なものだったけど、顔が原型を留めなかったぶん目が合ったという体験はしなかった。私が初めて死体と目を合わせたのは、篠さんと出会う直前のことだったろうか。
 目さえ見なければ死体はとことんモノでしかないのに。黒々と濁った光のないまなこからだけは、命の残滓だろうか、なにか底知れないものを感じる。自然な悪寒が走る。見たくないのに目を背けてはならないような気がして、どうにか目を背けると、しばらく全身が重たくなるように感じられた。
 罪か、祈りか。そういうものの重さなのだと思う。

「……いやだなあ……」

 初任務は数日後だけど、実際に仕事を言い渡されてみると今から気が滅入る。気が滅入ることを考えながら目覚めてしまったことを思えば、二度寝を決め込んだら嫌な夢でも見そうで、私は気だるさを押しきって身を起こす。
 目を閉じる。窓から差し込む朝陽を見ないようにする。手探りで寝間着を脱いで、寝床の脇に並べてあるワンピースを手探りで掴み、手探りで着て、立ち上がる。窓に背を向けるように立っていれば光の色が見えることはないから、自分の影を眺めながら布団を畳む。習慣づいた動作だ。
 洗面所は一階へ降りてすぐのところにあり、シャワールームと隣接している。寝癖を見られるのも嫌なので誰とも鉢合わせないよう少し緊張しながら移動し、手早く身なりを整える。髪はいつも左耳の上あたりで縛っている。リボン結びが綺麗にできるようになるまで実はひと月ほどかかったなんて記憶もあるが、今となっては数秒だ。鏡には至って普段通りの私が映る。褪せたような色の茶髪。表情の乏しい碧眼。中1のゴールデンウィークにわけもなく断髪した髪は、リボンが結べるように長いところを残してある。

「……おはよ、高瀬」
「桧さん。おはようございます」

 リビングへ出るとテレビ前のソファで桧さんが新聞を広げている。すっかり見慣れた光景だった。

「高瀬。悪いけど……メシ頼んでいいか。篠、逃げたっぽくて」
「え。はい、構いませんけど。逃げたって……?」
「たまにあるんだよあいつ。急に連絡無しでどっかいくの。仕事の時間には戻ってくるから」
「篠さん、昨晩もお仕事だったんじゃ」
「寝てねーんだろ。今日もお前の付き添いあんのに。ほんっと、寝ないのだけはやめとけって言ってんだけどさあ」

 キッチンに立ちながら桧さんの訝しげな声を聞く。
 そうか寝てないのか、篠さん。
 理由に心当たりがなくはないので、どうとも返しづらかった。ただもやもやとした申し訳なさを感じてうつむき、黙って食事の支度をする。
 昨日の記憶がよみがえってきた。死体処理を手伝った帰り、ちょっとお互いにやらかしたのだ。
 あのとき。流れ込んできた感情。感覚。たぶん下手に言葉にしようとすると間違えるから、あまり考えないようにしているけれど。単純な形容ひとつが許されるなら、……苦しかった。
 篠さんの能力は、言葉の秘める意を聞く人や読む人の体感に直接届けるというもので。私の名を呼んだとき起こったのだから、篠さんの私に対する見え方なのだろうけれど。
 相当、気に病ませてしまっている。
 どうすれば安心してくれるんだろう。

「で。……何か、あったろ?」

 手早くこしらえたサンドイッチを運び席につくと桧さんが切り出した。夜を濃縮したような紫紺の目が面倒そうにこちらを見ている。私は目を逸らす。

「……言いにくいです」
「篠に聞いたら答えると思うか?」
「どうでしょうね……わかりません、私には」
「……そうか」

 私に言っていいことはきっと無い。
 朝食は黙々と終えられた。もしテレビが点いていなかったら耐え難い沈黙だったろう。

「……あー……悪い。念のため、聞くけど」
「はい?」
「高瀬、なんかその、セクハラされてないよな?」

 皿を片付けに立ったところで、そんな問いが飛んだ。
 想定外だったので理解が遅れる。皿を手に立ったまま数秒。……え、篠さんが私にか?

「ありません。どうしてそうなるんですか」
「ならいいんだ」
「篠さんのことなんだと思ってるんですか?」
「念のためだから。悪かったよ、変なこと聞いて」

 なんの念だそれは。
 もやっとしながら皿を軽く洗った。

「……高瀬さあ」
「……はい?」
「篠のことなら怒れるんだな」

 蛇口を閉めると一瞬の静寂が耳に刺さった。遅れてつけっぱなしのテレビの音が聞こえてくる。
 桧さんは机上に投げ出された紙面を退屈そうに眺めたまま、「お前が怒ったの、初めて見た」と付け足した。
 ……確かにそうかもしれない。ちょっと納得してしまった。馴染んできたのだろうか。この場所に。この人たちに。それならうれしいと思ってしまうけれど。

「……だって、根も葉もないこと言うから」
「わかってるって。ただ……いや。俺が悪い、ちょっと心配しすぎた」
「…………」
「この話やめようか」
「はい」

 よくわからないが悪意は無いようなので、これ以上は考えないことにした。

「……桧さんが悪く言われても怒りますよ、私」

 私はソファに座り直してそう付け足した。私が篠さんのことでしか怒れないような言い方をされたのが少し引っ掛かったからだ。
 桧さんは紙面から目を上げて、すぐに下げる。

「俺、お前に信用されるようなことしてないだろ」
「……そうですか?」
「いっつも寝てるかここに座ってるだけだろ、俺は。家のこともあんましないし。話したこともほぼ無い」
「私が普通に暮らせているのは桧さんのお陰です。大切にしていただいてると思っています」
「あー」

 相変わらずの溜め息ひとつ。

「感覚鈍ってんだよ、お前。普通の人間は、人間を人間扱いするんだ。感謝するようなことじゃない。前提だよ」

 言って、彼は退屈そうな動作で紙面を畳む。
 私は少し驚いた。虚を突かれて言葉に詰まった。
 ――人間。
 そうか。そうだ。私を人間扱いしてくれるのは篠さんと桧さんの二人だけだろう。私も自分を人間扱いはしていない。あの牢での記憶が脳裏を伝った。自らの不死をひたすらに確かめた暗く冷たい336時間。心臓のあたりが冷えていく心地になる。あれから私は一人のときだとなにも食べていないし、眠りにも消極的だ。どうせ身体は良くも悪くも変わらないのだから。

「……私のことをひとだと思うの、きっと、お二人だけです」

 口に出した。

「だから、感謝します。本当にありがとうございます」
「は」
「自分が化け物なのはわかっているんです。そう扱ってもらって構わないと思ってます。管理して、有用なら使い捨ててもらうくらいで。……でも、そう、うれしいですね。ひとだと思ってもらえているのは」

 自然と顔が綻んでいる。
 本当にうれしいと思った。
 やっと気がついた。私はどうやら人間でありたいと思っていたみたいだ。どんな傷もふさがる、首が飛んでもつながる、内臓が抉れても痛みを感じないこの身体を思い知ってからずっと。ふつうのいきものに、人間に、憧れた。痛まないという違和に感覚を焼き尽くされながら、心だけが痛かった。冷たいコンクリートの暗がりの隅で、うずくまって、私は焦がれた。ああ、どうか今すぐ、次の瞬間に痛みを感じることができたら。死ぬことができたら。それがよかった。願った。願った。無理だった。
 人間でありたい。
 気がついてしまうとその願いは途方もなく胸を焼いた。突然、すべてが鮮やかになった気がした。どこか遠くふわふわとして現実感を伴わなかったあらゆることに血が通っていく。私には願いがある。意思をもってここにいる。そんな実感が急激に追い付いてくる。そうか、私は。そうだったんだ。
 不可能な渇望に自嘲したくもなる。それでも願いは私を繋ぎ止めた。

「……んなことで嬉しそうにするな」

 桧さんはこちらを見ないで言った。抑えた声だった。

「うれしいですから」
「はぁ……。お前がずっと妙に距離感あることしか言わねえの、それのせいか。やめなよ。お前を見て化け物だと思うやつなんか、いないから」
「はい。ありがとうございます」
「やめて。その顔。なんでお前、初めてちゃんと笑うのが、こんなことなんだよ……」

 彼はおもむろにリモコンをつかみ、テレビを消す。無音が鮮やかに耳をつらぬく。

「出掛ける」

 彼は投げやりに言うと、紙面の上にリモコンを放り出した。
 私はさすがに反省して、この話はもう口にすまいと思って、けれどどうしてもうれしいままで、たぶん笑顔のままでいた。


2022年4月20日

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