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見上げた空のパラドックス
21 ―side Shino―

 大丈夫と言って少女が笑う。
 澄んだ声が、脆く優しすぎる旋律が、いつまでも耳に残っている。

 高瀬青空。
 彼女にはどうも不安や不調を隠す癖がある。ところがそれがけっこううまいものだから、本当に大丈夫な場合と区別がつかなくて困った。
 彼女は表情に乏しい。こわばった幼い頬を動かすのは恐怖か動揺か丁寧な愛想笑いだけで、喜ぶとか悲しむとか怒るとか、そういう姿を見せたことがほとんどない。生活に慣れれば堅さこそ抜けてくるが、それでも彼女のふるまいは常に淡白だ。あるいは、頑固で気丈、なのかもしれない。

「……本当に大丈夫ですよ。たぶん、あなたが思っているよりも」

 目を伏せた少女が言う。高く澄んだやわらかな声で。
 人の遺体を前にしてのことだ。
 おかしいなと思う。だって俺が彼女を白昼の路地裏で初めて見かけたとき、彼女は死体を前にひどく取り乱していた。最初から平気な奴もいるのはわかるが、彼女に関してはそうではなかったはずだ。
 死体慣れ。
 この段階で落ちた奴は事務なんかの別部署に割り振られる。それでいい、彼女には特にそれがいいだろうなと思っていた。ところが彼女は画面越しには眉ひとつ動かさず、まして実物を前にしても平然としている。
 薄白い金属質の室内。換気扇がごうごうと鳴って死臭を逃がしている。サウンズレスト社が提携している死体専門の掃除屋の事務所だった。ここはエコーズ社と呼ばれている。死体慣れの最終訓練では、ここでの仕事を手伝うということになっている。そういうわけでこなした一連の作業のことは、言いたくないので省略するとして。

「帰りましょうか」

 土気色の肉塊を冷然と一瞥して彼女が言った。

「……なあ。あんた最初は無理そうじゃなかったか?」
「今は、記憶がありますから」

 霊安室と銘打たれたごみ捨て場を出た。セキュリティを抜け、受付に会釈をして、今日の任務を終える。
 正直、彼女の監視および監督の仕事が入っている日は楽でいい。人を傷つけずに済み、嘘をつかずに済み、力を使わなくて済む。別に普段の仕事にいちいち疲労を感じていたわけでもないが、彼女がこの分ならもう俺が付き添うことはそう多くないのだろうと思うと、少しげんなりした。

「昔に見たのが、かなり惨いものだったので――。まだ形があるなら、平気だなあって。それに、焔を見るほうが、ずっとずっと怖いし」
「……そうかい」
「前もきっと惨たらしさがだめだったわけじゃないと思うんです。……ただ、思い出したくなかった。景色が、幼馴染の死んだときに似ていたので。それから……死ぬのが怖かった」

 ビルの隙間を通り抜ける乾いた秋風に、彼女はリボンを押さえた。短い髪を毎日かならず結わいている青色の髪飾り。無意識にだろう、たびたび触れている。表情よりもその癖にこそ感情が出ているのかもしれない。

「でも、結局は平気でした。全部ぐちゃぐちゃになった幼馴染を、ちゃんと思い出しても、もう何も思わないんです。だから、あのくらいはなんてことない」

 風が止み、小さな手が青を離れた。
 俺は何も言わないことにして前を見て歩いた。いつも灰色の街が俺たちを包んでいる。かすかに死臭が残っている。早く帰ってシャワーを浴びなくては。

 このまま今日もゆるやかに終わると思った。
 そうはいかなかった。

「……あ、の。篠さん」

 灰色が黒に落ち込んでゆく日没のころ。いつの間にか彼女が深く俯いていることに気がついて、俺は足を止める。いつもの最寄り駅から背の低い四角いビルへ帰る道中、大通りの往来が遠く小さく聞こえている。
 少女は俯いたままでいる。冷え込む秋の夕刻、その首筋に冷や汗が浮いて見えた。

「どした?」
「……すみません、……西日を、その、うっかり見てしまって……」
「……ああ」

 そうだったな。
 彼女の手を取る。ひんやりとしていた。俺も体温が低い方だと自負しているけど、それでも冷たく感じる。できる限りそっと引く。

「目、閉じてな」

 焔のいろに対する恐怖症。何が起きても頑なに大丈夫と言い続ける彼女が、なお無理だと明言せざるを得ない、たったひとつの絶望だ。
 だからもっと言えばいいのにと思う。苦しい。怖い。ストレスが言葉にできるなら、わざわざこんな病となって表出されることもないだろうに。
 殺しの任につくなら病はいつか必ず問題になる。どうしたものかと思う。理子さんが目を閉じろと教えたようだが、それにしたってひとたび恐怖にすくんでしまった身体はすぐに動くわけでもない。今もほら、彼女の呼吸は浅く、どこか切羽詰まっている。

「すみません……。見ないように、気をつけていたんですけど」
「……少し休むか?」
「とりあえず、帰らせてください」
「うん」

 少女の歩調を見ながら、短い家路をゆっくりと進む。一歩進むたび、なぜだろう、胸の辺りがひりつく。
 ぞっとするほどやわらかくて小さな、日々に当たり前に降る西日ひとつで震えてしまうような、この手が、いずれ人を殺めるのか。……俺の管轄下で。
 奥歯を噛み締める。
 彼女が死体を前に恐怖してくれたら、この子に殺しはできません、と報告ができたのに。
 なんて一々たらればを思う自分が阿保らしかった。彼女は彼女だ。俺が勝手に何を思おうと変わりはしない。そんな当然の線引きが、なぜかできない。割り切れ、いつものように。

「ついたよ」
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしました」

 彼女がやっと顔を上げて、青ざめた頬で微笑って礼を言った。その手は震えたままだった。

 瞬間、堰を切った。
 ――ああ。
 線が引けない。

「なあ」

 握ったままの手に力を込める。少女と視線を合わせるため膝を曲げる。雑居ビルのエントランス、二枚扉の隙間の空間に立ち尽くしている。

「そらちゃん。あんたはもうすぐ人を殺すけど、」
「……」
「何があっても、あんたは、あんたのままでいいからな。怖いものは怖くていいし、好きなものは好きでいい。悲しいなら泣いてもいいし、楽しい思いをしてもいい。俺に気を遣う必要もない」

 何故、線が引けないのか。しつこくこんな小言を垂れてしまうのか。
 わかりきってはいる。ひとつは妹を重ねているから。ひとつは、……なによりも、歌を聴いてしまったから。
 あれからずっと耳について消えない。ひりついて眠れないとき、人を殺すとき、朝方の寒風に血の匂いと吹かれるとき、ギターを膝に乗せる瞬間、詞を紡ぐために息を吸うとき、どうしたって思い出した。たった一回、ありふれた部屋の隅で耳にしただけの拙い歌声が。ほしくなってたまらなかった。互いになにも言わぬまま、そっと、じっと、互いの音楽に耳や心を傾けていた。

「ごめんな、無理に感情出せなんて言えんよ。でも無理に黙らんでもええやん。……怖い思いしたんなら、そんな、頑張って礼儀正しくせんでも……」
「……んよ」
「え」

 目が合った。
 澄んだ青。

「別に黙ってません。無理に気持ちを殺してるつもりも、今はもう、ありません」

 強い目だった。碧と同じ。しかし違う。底知れない昏さを秘めている。それは諦念と絶望の示す静謐だ。俺は自分が息をのんだことに数秒遅れて気がつく。

「お陰さまで、最近はちゃんと、泣いてます。傷ついてます。死体に触るのも嫌です。人を殺すのも嫌です。でも、嫌と無理はちがうから。仕事はできます。あなたに気を遣うのは、気を遣いたいからですよ。助けてくれたひとを大切にしたいから。それじゃ、いけませんか?」
「……、」

 当惑する。
 助けた? 俺が彼女をか?
 俺は何もしていないだろ。無慈悲な上の命令にただ従っているだけで。異能者は見過ごせないから保護した。命令だから彼女を本社に送り届けて、命令だから迎えに行って、命令だから育てている。そこには冷たい必然性しかない。命令外でした覚えがあるのも、勝手に音楽を押し付けたこと程度だ。
 彼女がもし本当に回復しているのなら、それは彼女自身の力によるものだ。

「ごめんなさい。今日は本当に私の不注意でした……。ちゃんと気をつけます。夕陽も朝焼けも、なるべく見ないように。見ても、いつか平気になれるように。それでもまだ、ご迷惑をおかけすることはあるかもしれません。そのときは、お願いします」

 丁寧な会釈。薄栗色の前髪に一秒、青が隠れた。
 夕陽も朝焼けも見られないくせに、人の死体だけ平気な顔をして見つめるのか。その青は。
 咄嗟には言葉が出なかった。何かに打ちひしがれた気がするばかりで、それが何かがはっきりしない。

「……篠さん。どうか、そんな顔しないでください。本当に大丈夫ですよ。たぶん、あなたが思っているよりも」

 少女が笑う。端正な、俺を安心させるためだけの笑顔で。
 手のひらは冷たいまま。
 痛切に思う。ちがうんだ。俺だってあんたにそんな顔をさせたいわけじゃない。
 彼女は闇の中を迷いもせずにまっすぐ歩いていく。俺はその背を追いかけて走る。灯らない電灯を届けたくて、がらくたを抱えて走る。追いつけない。なぜだかそんな想像をする。

「そらちゃん、」

 何かを言おうとして名を呼んだ。
 刹那。
 繋いだままの手がびく、と強張る。
 独特の寒気と倦怠が全身にまわって、しまったと思った。

「――ッ」
「あ」

 慌てて手を離した。目を逸らした。
 力が漏れた。

「悪い。ごめん。痛くないか?」
「……びっくりしました。痛くはない、です」

 やらかした。
 言葉の含む意味や感情を、具体的な体制感覚に変換し、聞く人の神経に無理やり干渉することで伝える。俺のはそういう異能だ。
 こんなことで力が制御できないほど動揺してしまった己の情けなさに驚く。自分のことはもっと冷淡な人間だと思っていた。なにより、今、何がどう伝わってしまったのかと思うと。とてもではないが顔が見られない。

「篠さん、」
「ごめん」
「全然大丈夫ですから」
「ごめん」
「……あの。言っても、いいですか? 聞かなかったことにしてもらって構いませんから、ひとつだけ」

 鍵束を抜き出す音がする。あと一歩の帰路を辿って、彼女が玄関扉の前に立つ。

「あなたの歌、私は好きです」

 鍵がまわる。息を詰まらせたまま、俺たちは日常に戻っていく。


2022年4月17日

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