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見上げた空のパラドックス
20 ―side Sora―

 落葉の吹き溜まりを避けて歩いた。ただ灰色の街並みを前に宛もなく足を進めて、今日という休日もまたそうして時間をつぶして過ごす。
 ひたすらに考えていた。もうすぐ人を殺す自分のことや、乾いた顔で笑う篠さんのこと。やれと言われていることと、私のやりたいこと。耳に押し込んだ旋律と詩のこと。
 迷ってはいない。確かめているだけ。
 正しくありたいわけではない。
 難しく考えなくたって、どうせサウンズレストにとって殺すべき人がいるのなら、それが何人だろうと篠さんの仕事になる。私が躊躇わない理由なんてそれだけでいい。
 無駄な散歩をまたぐるぐると終えて夕刻よりも前に帰って、桧さんとちょっとだけつまらないニュースを眺めて。変わらない日常を淡々と遂行して、やっぱり暇だなあと部屋の掃除なんかをしてみて。それでも丸一日の休みというのはなかなか埋まらない。私に落ち着きがないので見かねた桧さんが自室から何冊か本を持ってきてくれた。ライトな雑学ばかりのセレクションは暇潰しにはちょうどよくて、私はいたく感謝した。

「桧さん、面白い本とかも持ってるんですね」
「知らない分野があったらとりあえず買っとくようにしてるだけだ」
「え、すご。やっぱり勉強熱心ですよね」
「はぁ」

 彼は机に広げた夕刊をぼうと眺めたまま突き放すようにぶっきらぼうに話す。私も深追いせず話を切り上げてページに目を落とす。ずっとそういう空気でいて、食事以外は共にしない。桧さんはまいにち気ままな時間に少しだけ外へ出て新聞を買って帰ってきて、決まった時間に規則正しく眠る。私はまいにち暇さえあれば音楽を耳に押し込み、食事を摂ることも摂らないこともあり、眠ることもあれば眠らないこともある。そうして私たちが日を暮らす間にも、篠さんはあくせく仕事に出る。帰りが何時になるかはわからない。そうも忙しいのに、いつも食事を作り置きしてくれている。なんというか頭があがらない気持ちだった。
 桧さんが寝室へ上がったあとも、私はリビングのソファに座ったままでいた。休日というのはつくづく長くて嫌になるのだけど、無理やり眠ろうという気にもなれない。ただ、ただ、私はもうすぐ人を殺すんだ、ということが頭のなかを回っていた。悲しむわけでも拒みたいわけでもなく、朝日が昇ることと同じくらいの自然な事実として、けれど大きく、脳裏を占めていた。

(強く、なりたい)

 頼らなくても平気にならなくちゃ。
 何が問題なのかはわかりきっている。
 恐怖症だ。
 そもそも、『あの時』、私は恐怖していたのだろうか?
 倖貴を死なせた日。身体の奥底からごっそりと温度が抜け出していって、私の身体の外側で暴れまわって、いくつもの命を燃やしてしまった、あの日。逃げなきゃとだけ痛切に思って走り出して、周りが見えなくなって、いちばん大切なものをうしなった。
 あの時は。怖いと、感じる余裕もなかったと思う。目まぐるしく死が流れていった。朱い焔と赤い血。頭のなかが冷たくて、心臓がどくどくと嫌な音を立てていて。
 恐怖はあの瞬間にあったのではない。
 今の私が。
 これ以上うしなうことを恐れている。
 誰もいない秋の夜、時計の針の音がうるさかった。モノトーンの部屋のなかはひんやりとした空気がじっと溜まって、呼吸のしづらさばかりが鮮明だ。
 怖がってどうするんだ。
 うしなうもなにも、はなからこうして得ていること自体が間違いだ。私はこの世界にとって異物にすぎないのだから。
 恐れるな。まだできることがあるだけ感謝して、全力を尽くせ。
 ソファの片隅からふらふらと立ち上がった。足は緩慢にキッチンへ向かい、深呼吸をして、指先がコンロのつまみに触れた。ここでなら朱い色はどうせ一秒とたたず青に呑まれるから、慣らすにはちょうどいいはずだ。ずっと呼吸を整えていた。吸って、止めて、長く吐いてを繰り返した。怖くない。恐れる必要はない。うしなうものなんて持っていない。一回だけつまみを回してすぐに止める、それでいい。それだけだから、と自分に言い聞かせた。
 指先に力がこもる。つまみが回り、カチリと音がする。
 ほとんど同時に、喉の奥から喘鳴がした。
 放射状にはじけて散った朱の残照が網膜を焼く。
 理性を保て。不必要なコンロの火なんてすぐ止めなければ危ないわけで、反対側へつまみを回すところまでは。気づけば息を止めている。目は、瞑らなかった。どっと冷や汗が吹き出して背中が湿った。ごうとかすかに鳴り出していた音は数秒で止んだ。
 ああ。
 できた。
 できたんだ。上々だろう。
 口許から軽い咳が漏れ、ぐらりと頭が揺れる。キッチンにすがりつき、床に膝をつく。だいぶ遅れた、遅らせることに成功した恐怖がぐるりと頭を回って全身を伝った。呼吸が大きくなった。キッチンマットの網目を見つめる。汗が落ちる。

「っは、……は、っ」

 でも、これでも、意外とできた方だ。
 そう思うことが大事だろう。慣らせる。大丈夫。思い込みの強さには嫌な自信がある。目を閉じるとまなじりから涙がこぼれた。震える手を膝につく。ゆっくりゆっくりと立ち上がる。まだ心臓がばくばくする。焼き付いた絶望のいろがとれない。息ができない。大丈夫だよ。暴走しなかっただけマシなんだから。
 壁づたいにキッチンを出た。全身の力を振り絞ってソファに戻って、腰を下ろした瞬間に涙が勢いを増した。
 怖くて泣けるようになっただけマシだから。
 本当に、本当に大丈夫。
 ひりひりと、心臓が何かを言おうとしている。声は聞かなかった。こうやって少しずつ、本当に大丈夫になっていくんだ。強くなりたい。この気持ちだってうそじゃないから。
 両の手のひらで涙を拭った。調子が戻るのをただ待った。
 そうして鼓動が少しずつテンポを落とした頃合い、玄関から鍵の回る音がした。

「おかえりなさい、篠さん」
「ん、……ただいま。眠れんの?」
「そろそろ寝ようかなってところです」
「ふうん」

 とっくに日付を回っているけど、篠さんの帰りとしては早い方だ。血の匂いがしない。酒の匂いはちょっとする。今日は殺しはなかったみたいだ。彼は肩から鞄を下ろしながら自然と私の隣に座った。

「飯、食った?」
「……食べました。今日もおいしかったです」
「そ。嬉しいな」
「……」
「はは、別に食えとは言ってないよ。いちいち面倒なのもわかるからな」

 思わずうつむいた。あまりに簡潔で、遠回しで、直接的な思いやりだった。疲れて帰ってきて開口一番がこれか。いつまでも気を使わせてしまっている。彼の帰る前に物置部屋へ戻るべきだったな。

「ありがとうございます。気にしていただいて」
「気にしてんのはどっちやろなあ」
「……もう寝ます。おやすみなさい」
「うそ、絶対寝ないって顔してるもん」
「どんな顔ですか」
「な、そらちゃん、なんかあった?」
「いいえ。今日も、穏やかでしたし」
「そう?」
「そうですよ。お散歩して、ちょっとお掃除して、あとは桧さんに本を借りて読んでました」
「そっかあ」

 勘が鋭いというかなんというか。薄い色のヘーゼルアイは微笑みのさなかによく鋭い光をともして人の目を見るから、観察する癖がついているのだろうなとも思う。ともあれ毎度そうも心配されると少し困ってしまう。私は苦笑してごまかそうと努めた。

「ちょっとは休めたか。……明日から、しんどくなるけど」
「大丈夫ですよ。むしろ私、休むほうが苦手で。しんどくてもやることがあったほうが全然いいです」
「ま、それもわかるけどな」
「だから、篠さん。私にできることは何でも言ってくださいね。家事でもお仕事でも、やりますから」
「ほうら、どっちが気にしてるんだか」

 やれやれと肩をすくめて彼が立ち上がる。ちゃんと寝なよ、とささやいてシャワールームへ入っていく。力の抜けた自然体だ。そう思わせるのがうまいだけの、努力と忍耐でつくられた振る舞い。
 途方もないな。
 彼ほど強くはきっとなれない。
 そう思いかけて、慌ててかぶりを振った。諦めている場合ではない。なんにせよこのままではいけないのだ。彼にばかり働かせて、気を使わせて、やさしくされているばかりではいけない。私もせめてその隣に立てるようになろう。両手を握りしめて、キッチンの脇を通り抜けてかすかに肩を震わせて、いつもの物置部屋へ上がった。今日はもう眠るふりをして音楽でも聴いていよう。明日からまた、一人の時間があれば少しだけ火を見よう。

「大丈夫」

 ほとんど息に混じって、ちいさく言葉がこぼれていった。


2023年10月8日

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