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見上げた空のパラドックス
After//2
 鍵を開ける前に、帰ったぞー、と、明るい声がした。食事中のことで、俺たちはふたりしてぴたりと手を止めて顔を見合わせた。互いの目が揺れて、同じタイミングで立ち上がった。玄関に駆け寄って立ち尽くした。鍵が回っていく音を茫然と耳にして息を飲んだ。
 柔い声は開口一番言った。

「いやー、扉ひどいことになっとるな。直さんの?」

 篠は、以前に会ったときとほとんど変わらない姿でいた。伸ばした髪を無造作に結い、薄いヘーゼルアイはまっすぐにこちらを見る。心底うれしそうに綻んで煌めく。

「生きててよかったあ。ひのきちゃん。青空も、逢えたな」
「……こっちの、台詞だよ」
「せやなー。最近はけっこうどこも荒れててさ、ちょっと死ぬかと思ったね。幸い、死んだのは、俺以外やったけど」

 彼は飄々と明朗と話すが、それでも本当に疲弊しているのだろうとは察せられた。俺も立っているのもやっとの心地でいた。心が揺れていることだけはわかるが、溢れているのがどんな感情なのか、判断できるほど冷静ではなかった。気がつけば手を伸ばし、彼の両肩を掴んで言った。

「ありがとう……帰ってきてくれて……篠……」
「えー? うん。ひのきちゃんなんか素直になった?」
「篠さん、お腹空いてますか。ご飯よそってきましょうか」
「ありがと青空。頼もっかな。ご飯中に失礼したわ」
「桧さんがお料理とかお掃除とか、するようになったんですよ。私、暇になっちゃって」
「えまじ?」

 一気に賑やかになった部屋の隅、俺はまだ茫然としている。ぎりぎり立っているが、身体に力が入らない。少女が篠をソファに座らせて戻ってきて俺の手を握る。

「桧さん」

 青い目が俺を見上げた。きらきらとして、喜びと安堵の混じった色だ。

「……、…………うん」

 生活は続く。
 何があっても何を思ってもつつがなく。食事をして片付けて、かつての篠の部屋を掃除する。篠は自分でやるよと言ったが高瀬と一緒に下にいろと言いつけると礼を言って引き下がった。とはいえ篠の部屋はものが少ないから掃除に手間取りはしない。マットレスに乾燥機をセットし、待つ間にソファの埃を叩いて床を拭き、マットレスの乾燥が終わったら清潔なシーツをかける。……シーツは無駄に何枚もあるので助かった。罪悪感はある。
 ひと通りを終えて一階へ戻ると、篠と少女の会話が漏れ聞こえた。何を話しているかと思えば、彼女の忘れたサウンズレストでの出来事についてらしい。篠は淡々と訥々と語り、少女はじっと聞いてたまに質問を返した。音楽のこと。異能のこと。殺しの仕事のこと。――碧が殺された日のこと。

「篠」
「おーひのきちゃん。ありがとな」
「俺にも話せ」
「ん? うん、ええよ」

 あの時のかなしみや憎しみを思い出したかった。もう一度憎悪に身を焦がされたいわけでは決してない。身を焦がしたほどの感情を、願いを思い出せなくなることが寂しいだけだ。
 自然と、みなが昔の定位置に座っていた。俺と少女は隣り合わない。かすかになつかしさが心臓を過った。

 あの日。
 少女がまた行方不明になったから俺達は心配して義母に問い合わせた。しかし珍しいことに連絡がつかなかった。いつもはこちらが連絡を取ろうとした時点で義母が察して向こうから連絡が入るものだったが。ならば直接聞こうと、俺は本社に向かった。篠は仕事があるからついてはこなかった。俺が電車に揺られていた時、少女の携帯から、篠に電話が入った。そして篠から俺に電話が来て、俺は咄嗟に電車を降りた。いますぐ来てくれ、俺の家だ。篠は聞いたことのない弱く震えた声で言った。俺はタクシーを拾ってまっすぐ篠の家に向かった。篠もだいたい同じくらいに到着した。青ざめた顔で今にも倒れそうな彼に、どうした。何があったんだと、問えば篠は黙って通話履歴を再生した。透き通った少女の声がした。凍てつくように淡白な。「篠さん、きこえますか。高瀬です。もう会えません。さようなら。愛しています。あなたの家にすぐ向かってください。私が言っていいことではないかもしれないけど、どうか、生きていてください」。俺は篠の震える手を引いた。わかってしまった。篠はそのとき少女の魂について知らなくて、ただ直感で察していただけなのだと思うが。俺は義母から聞いて見て知っていた。少女と碧の魂が相反する存在で、出逢ってしまえばどちらかが消えなければならないという掟のことを。何が起こったのかを。どうしようもなく理解していた。受け入れられない信じたくない気持ちよりも、その瞬間は一周回って冷静に、淡い後悔だけが浮かんだ。――高瀬のことを、どう想ってやれたら、互いに絶望しなくて済んだのだろう? 高瀬は何も知らないただの子どもで、最初からぼろぼろに傷ついていた。俺達は事実上、彼女の庇護者で、治療者だった。だからきっと俺達が間違えたんだ。淡い後悔はアパートの階段を登る間だけ思考を埋めていた。篠の手が冷たくて震えていた。薄っぺらい玄関扉の向こうから、確かに、……確かに、血の匂いがした。
 死体を前にしたとき、心のひしゃげる音がした。
 ああ、……青空の殺しかただ、と、篠が力ない声でこぼした。
 そして悲劇は終わらなかった。
 碧を守り損ない、最後の望みであった高瀬も同時に失った義母が、何を考えたのかは知らないが、サウンズの社長室で自殺していた。
 あーあ。どうすんだよこの国。
 そこからはひたすら連鎖する。
 篠は「青空を探す」と言って出ていった。遠くで義父も死んだと噂を聞いた。
 何もなくなって。
 誰もいなくなって。
 たまたま俺が、篠よりも先に高瀬を見つけた。

「……ありがとうございました」

 少女は話を聞き終えると、やはり微笑みをたたえて言った。俺も、篠も、黙って彼女の二の句を待った。何を言うかはわかっていた。わかったうえで待っていた。

「生きていて、くれたんですね」

 あの日の彼女のわがまま通り。

「……そう。あんたのせいでな」

 篠はあっけらかんと言って笑い返した。どいつもこいつもへらへらしやがって。お前たちのそういうところが昔から本当に嫌いだ。俺はため息をつく。
 碧のこと。篠が話してくれたから、少しだけ思い出せた気がした。胸が痛んだ気がした。それがうれしかった。

「で、篠。……ここにいてくれるんだな?」
「はー? 俺はそのつもりなのにひのきちゃんが無理って泣いたから、仕方なくしばらく出てってあげたんやけど?」
「本当にごめん。ありがとう。もう、どこにもいかないでくれ」
「すげーことスラッスラ言うやん。どしたのひのきちゃん。安心しな、俺の方があんたよりだいぶ頑固やからな。いるって言ったらマジでいるよ、ここに」

 からからと笑った篠の声は乾いていた。ぎりぎり萎れていない弔花が揺れた。
 失わずに済むものが、やっと、たったひとつ手に入った。大きな、大きなたったひとつだった。思えば最初から俺にとっての篠はそういう存在だが、俺はそんなことさえこの数年で忘れてしまっていた。忘れてしまうから怯えていた。
 思い出すことが、できた。
 よかった。
 底を抜けた。這いずっているつもりでいたが、本当は登ってきたのかもしれない、と思った。

「桧」

 篠はちらりと隣に座る少女を横目にして、声を落とし、俺に向き直った。

「ん」
「あんた、青空のこと、大丈夫なのか」

 ああ。
 登ってはきたが。まだちょっと振り返れば見える距離に、底はある。
 行っていた性暴力や拷問の数々について。問われるのは当然のことだった。俺個人はもうずいぶん彼女を辱しめていないから遠く感じていたが、彼にとってはいつまでも重たい事実だろう。俺にとっても重たい事実でなくてはいけないはずだが。

「まだ抱いてるのか、青空を」
「……抱いてないよ。……俺が怖くなったから、もう抱けない」
「整理ついてるか?」
「つくわけないだろ」
「青空は、どう思ってる?」

 視線を振られた少女は、重くなった空気に居心地が悪そうに、俺の方を見て、篠の方を見て。

「なんとも思ってませんよ。桧さんがしたいならしてもいいし、したくないならしなくていいです」
「……」
「え、と。お二人ともそんなに嫌ですか」
「すんげー嫌……」
「めちゃくちゃ嫌……」
「ごめんなさい」

 まあしかし。彼女がそうなのは今に始まったことでもなく、わかりきったことだ。
 その場はそれでお開きになり、とりあえず少女を家に置いて俺と篠は日用品の買い出しに向かった。篠はいささか不機嫌そうで、帰路まではあまり会話をしたがらなかった。
 俺が篠の好きな女にさんざん暴行を振るってきた事実は消えない。不機嫌くらいで許されているのがおかしな話なのだ。彼が俺と共にいることを選んでくれるのも最悪の奇跡でしかないのだろう。黙々と篠との生活に必要だろうものを調達する。三人で暮らす。三人で、暮らせるのだろうか。とりあえず俺も少女とは別室で寝た方がいい。できるだろうか。

「ひのきちゃん、俺さ、」
「うん」
「どうしてもあんたのこと恨むし、嫉妬するよ」
「……だろうな」
「でも、俺に、あんたらを止める資格はないんよなあ……」
「は。そんなこと、」
「青空。前見たときよりずっと自然体やんか。本気であんたといるのが安心するんやろなって。本気で青空の言うとおり、抱かれても構わんのやろなって。さすがにわかるわ……」
「…………」
「あー、くそ。でも俺もあんたがいないと、もう生きるのとか無理やし。嫌でも距離置けん。どうしよー」

 篠はぶつぶつ言いながら片手に買い物袋をぶら下げて歩いた。街並みは薄汚れていてどこも埃の匂いがする。穴の空いた建物が見えても驚くことがなくなった。そんな世界で、俺達はぽつりぽつりと、好きな女とか嫉妬とかの話をしている。しょうもないことかもしれないが切実だった。

「……篠の気が済むようにしてくれ」

 俺には何も言えないよ。

「俺を殺したければ殺せばいいし」
「殺したいけど殺したらいなくなっちゃうもん、ひのきちゃんは」
「そりゃあ」
「あんたを虐めてもぜんぜん喜べんと思う。向いてないんよ、俺。青空のことだってうまく恨めんし」
「……そうだな」
「死にてえー」
「だめだよ」
「うん」

 何年ぶりだろう。俺と篠と高瀬、三人で、それぞれ別室で床についたのは。
 俺は案の定うまく眠れず、浅い傾眠と覚醒を繰り返し、目覚める度に足りない温もりを隣に意識しては息が切れた。無理だ、無理だ、寂しい、と何度も思って、思いながらも動けずにまた浅く眠ってを繰り返した。朝になってなかなか眠ってもいられなくなって、よろめく身体を起こせばまなじりからぼろぼろと涙が落ちた。思ったより重症だ。自分を嘲笑う。俺があの少女なしでも生きていけるなんて本当にうそだよ。
 一階へ降りると少女が朝食を作っていた。眠ったか、と問えば、いいえ、と簡潔に返される。不死身は寝なくても調子が崩れなくていいよな。
 ふらふらとシャワーを浴び、身なりを整え、朝食を摂る。銃の整備をして、それが終わったくらいで篠が降りてくる。おはよう。篠も篠で顔色が悪い。眠れたか。うーん、あんまり。そうか。もともと篠は薬なしで深く眠れる奴ではないので、通院できていないのならこんなものだった。医療機関を探した方がいいな。ついでに俺もかかるべきだし。

「ひのきちゃーん、顔色悪いぞ。疲れとる?」
「……夢見が悪くて」
「無理すんなよ。家のことなら代われるから」
「お前の方が顔色悪いだろうが」
「えー、こんなもんやろ」
「はあ」

 最悪。
 悪いことばっかりで。けれども一緒にいる。一緒に生きていく。
 花が萎れたから生ゴミと一緒に捨てた。篠の着ていた汚れた服を洗濯した。少女にもさすがにちゃんと服を着てもらうことにしたので洗濯物が増えた。ほとんど一人分だったのが三人分になったわけで、もう何枚かネットを買い足した方がよさそうだ。
 特筆すべきことは少ない。
 生活をして、病院を探して出向いて、篠と二人して睡眠薬をもらって帰った。俺は効きすぎて昼まで寝て、篠はあまり効かなくて早朝に起きた。薬で眠ると夢を見ずに済んだから俺はひどく安堵して、眠気で重たい身体を引きずりながらも機嫌よく料理をした。テレビの向こうで凶悪犯罪のニュースが毎日流れ続ける。暇やなあとぼやいて篠がギターを弾く。少女がそれをじっと聴く。
 薬で誤魔化した寂寥はやがて前ぶれなく胸を焼き、また数日で発作が出る。少女がいつも通り駆けつけて呼吸だけは治してくれる。篠が驚き戸惑った顔で覗き込んでくる。声が出ない。動けない。頭が回っているようでいて何もまとまらず言葉にできない。苦しい。息をする。寂しい。寂しい。なんでかなあ。もう一人になる心配はしなくていいはずだ。少女がいなくなっても篠がここにいてくれる。日々は順調だ。俺はいったい何が苦しくてこんなに鬱いでいるのだろう。

「桧。……言ってくれ」
「……」
「なんでも構わんよ。どんなことでもいいから、くだらないことでいいから、俺に言ってくれ」

 泣きたい時に限って涙は出なくなる。
 少女の手を握る。抱きたいなと思う。たった一瞬でも苦しくない息がしたい。満たされたい。寂しい。この穴に熱を注ぎたい。熱をもった声で名前を呼んでほしい。思うだけだった。できるわけがない。二人きりだったとしても無理だ。身体がまともに動かせるようになるまで、声が出るようになるまで、ただ胸の痛みに耐えた。二人はそっと待っていてくれな。

「あのさ、篠」
「うん」
「……、寂しい、んだ」

 言ったってどうにもならないことだ。
 だからこそ言う。俺達は暇だから。やりたいことも死ぬ予定もないで、今も淡く暮らしているから。
 途切れ途切れに息をたしかめる。

「眠れるように、なったよ。もう、高瀬には、依存してない、はずだ。できること、増えたし。毎日、起きて、動けてる、し。危険なことも、飢えることも、ないし。ひとりじゃ、ないし。なんも、問題ない、のに、俺、」

 寂しい。
 ほしいものは手に入ったよ。
 穏やかさも。悪いことをしない正しい自分自身も。共にいてくれる友人も。
 声が掠れる。俺が過呼吸を起こす度に少女が異能で治した。

「寂しい。寂しい。どう、したら。いい。こんなに、恵まれ、てるのに、お前と生きて、いけるのに、なにもない。んだ。生きたくない。何も、考えたくない。……。たすけて。くれ……」
「……桧」

 薄いヘーゼルアイが揺らいで、沈黙した。少女は黙って俺の手を握り返していた。
 幸せになる方法なんて知っているつもりで。そこに至るための梯子が見つからなかった。平穏なだけではいけない。孤独でないだけでもいけない。まずは何かを願えるようにならなければいけない。美味しいものが食べたいとか。何か人と話したいとか。寝たいとか。小さな願い事をひとつひとつ叶え続けることが必要だ。願い事のスタートラインまでたどり着けない。埋まらない穴を形容できない。なんでもいいから、ただ、苦しくなくなりたい。

「桧、あのさ、……断ってええからな。俺と寝てみるか?」
「……、え」
「だいぶマシやろ。犯罪でもないし、俺は、……いなくならないからさ。依存されても困らんよ」

 びっくりして気が抜けて、それで発作が終わった。少女の方を見れば、彼女もまた目をしばたたいて篠を見ていた。それはそうなる。篠はいたって真剣な顔をして続けた。

「桧。あんたがマシになってくれるんなら俺はなんでもするよ。もちろん嫌なら断ってくれたらええ。俺男やし」
「……わ、わかんねえ」

 この少女にしか触れたことのない俺なんかより、篠が老若男女問わず経験に富んでいるのは知っている。だからそう提案されるのも不思議なことではなかった。が、俺はもうずいぶん少女を抱くこと以外の性というのがまったく頭になかったから、唖然としてしまう。考えようとして、でもやっぱりまっさらに霞んで考え付かない。性について考えようとするとどうにも彼女の身体以外に意識が向かなくて嫌になる。

「……悪い。えっと、篠が嫌なわけじゃないんだけどさ。こう、高瀬以外とするのは、なんか……」
「……」
「いや高瀬としたいって意味じゃないぞ。もういいんだ。もういいんだが、なんていうのかな……身体がこう……高瀬用にできちゃったっていうかさ……高瀬じゃないと出せな……、ダメだ。忘れてくれ」
「え」
「ばっちり聞こえたわクソ。俺に聞こえないとこで言ってくれよ……」

 どう言葉を選ぼうともこの話題は駄目だとわかった。篠の佇まいが急激に温度を下げてしまう。

「篠がなんでも言えって言ったんだろ」
「言った。言いました。聞きました。嫌やわマジで……もうまとめて抱こうかな……」
「やめろよ。お前は堕ちてくんな」
「俺は。十の頃から年下の女の子も倍年上のおっさんも犯して殺しとるわ。堕ちてきたのはそっちやんか。自分らだけ底にいると思うなよ」
「……ごめん」
「あーあ、俺も耐えられんのかな。あんたらのこと、苦しいなら支えたいけど、そのためならなんでもすると思うけど、でも嫌やわ。ひのきちゃん、俺に気を付けて暮らした方がええよ……」

 篠は舌打ちをして、そそくさと自分の部屋へこもってしまった。俺と少女とがリビングの片隅に残され、なんだかんだで手を握りあったまま顔を見合わせる。青い目はふっと柔らかく細まったが、どこか不安げに揺れてもいた。

「桧さん、落ち着きましたか」
「……まあ、うん」
「よかったです。篠さん、本当に桧さんのこと大好きなんですね」
「お前のこともな……」
「あの、桧さん」
「ん」
「ずっと射精してないんですか?」
「う……るせえな。勝手だろ。夢精はしてるよ……たまに……」
「……」
「もう抱けねえよ。暴漢に戻りたくないし、やったら絶対また依存するし……お前がいなくても平気に、ならなきゃいけないだろ」
「そう、ですね」

 少女は両手で俺の手を握ってうつむいた。細やかな栗毛がさらりと揺れて表情を隠す。その頭がゆっくりと俺の肩にもたれかかって、手に力が込められる。
 少女は言った。揺らぎのある声で。

「私も、……がんばりますね……」
「……」
「知ってるでしょうけど、私も、あなたじゃないと、」
「高瀬」

 二の句を止めた。言いたいことはわかったが、だってお前のはまちがいだ。

「俺じゃない。……俺の身体はもう、お前の、だけど。お前の身体は、俺のじゃない。たまたま俺に代わりが務まるだけで、俺じゃないんだ」
「……」
「二度とできない。やらない。それが、正しいんだよ。最初から、お前の好きな奴はお前の隣に居ないんだから」

 覚えていなくたってお前の身体は保存されていて変わることはない。お前はどうしたってどこまで忘れたって愛しいひとに見つめられるのが好きで、視線ひとつくらいで気持ちよくなってしまう奴で、そして、お前の愛しいひとは、とっくに死んだんだろ。
 俺達が交わったのは全部が間違いだった。あってはならないことだった。繰り返してはいけないことだった。俺は忘れてはいけない。お前は忘れなくてはいけない。

「大事にしろよ。じぶんの身体を。お前の身体には、お前が忘れたお前の好きな奴のことがちゃんと残ってる。他人に明け渡すな。いいか、俺みたいなクソの暴漢には、二度と暴かれるな」

 なんて言いながら、本音じゃ今もお前を抱きたいよ。俺は、お前を抱きたい。高瀬、お前以外じゃ駄目だ。
 お前が抱かれたいのは俺じゃない。
 最初から決まりきっていたそんなことを今さら言い出して、いまさら大事にしろだなんて、俺が彼女から逃げるための都合のいい言い訳でしかないのはわかっている。けれど、そうだ、俺がお前を抱かない以上は。願いとして、欲望として、お前が他の奴に抱かれたら嫌だ。俺みたいのに軽々しく抱かれてしまったら嫌でしかたがない。ちょっとくらい言わせてくれよ。駄目か。そうだな。

「……ふふ。ほんとに、回復しましたね、桧さんは」
「はぁ、上から目線だな」
「すみません」

 少女の顔が上がった。微笑んでもいなければ泣いてもいなかった。青だけが澄んでこちらを見る。

「寂しいです」
「……」
「寂しいです、桧さん」
「俺だって寂しいよ」
「うらやましいですよ。桧さんはずっとここにいられるんですから。どこにもいかなくていいなら、時間をかけていいなら、いくらでもあるじゃないですか。埋める方法なんて」
「……したいの?」
「したい、です」
「そう。ごめんな」

 手をほどいた。少女の髪をそっと撫でて、触れるだけのキスをして立ち上がった。溜め息にまぎれて言葉がこぼれていった。つい謝ってしまったがよくなかったな、俺達の間で謝罪なんていちばん禁句のはずなのに、とすぐに思い直して、だが思い直しただけだった。
 無理だよ。
 憎み続けるのも。諦め続けるのも。希望を抱き続けるのも。全部、自然に、当然に無理だ。たとえ想っていなくても大切なものは常に大切で疑えないが、想っていなければ簡単に踏み外す。彼女が碧を殺したのに、何もかも奪われたのに、俺はすっかり毒気を抜かれて愛するみたいにキスをした。自分への冷笑だけはまだ心にあるが、それでも碧のことは思い出さなかった。俺のたったひとりの恋しいひとのことを、思い出しもせずにいた。俺にとっての高瀬青空は高瀬青空でしかなく、とっくに重ならない。そんなのは愛だ、お前は碧を捨てたのかと言われてしまったら、いったいどう言い訳したらいいのだろう。
 なんでこうなったんだっけ。
 こうなるしかなかっただけなんだろう。
 嫌だな。
 いっそ彼女の全部がほしいのだと開き直ってしまえばよかった。よぎり続ける他人の影は頑なだが、それでもやろうと想えば俺にもいつか彼女の身体も心も奪えるだろうことはどこかでわかっていた。本当は手放したくない。彼女がいいと言うのなら、言わなくても、毎晩だってさんざんに抱き潰して泣かせてやりたい。彼女の熱でしか埋まらない穴があまりに大きくまざまざと空いてしまった。けれども彼女はどうしてもいなくなるから。
 いつになれば喪失の不安が薄れるほどに慣れるだろうか。

「高瀬、もうここを出なよ」

 言いたくなかった。言ってしまった。
 結局はお前の言うとおりなんだ。

 翌朝になって篠に話をした。前々から高瀬はここを去るつもりでいたこと、けれど篠を放ってそうするのも気が引けて待ってもらっていたこと。晴れて篠とも会えたし、いつまでも高瀬が俺といるのはよくないだろうから、そろそろ終わりにしたいということ。篠は神妙に頷いて聞いた。

「俺には止められん。……めっっちゃくちゃ嫌そうやけどな、あんたら二人とも」
「……しょうがないだろ」
「青空。大丈夫か」
「大丈夫になりますよ。そのうち」

 少女の答えは弱々しくて、しかし決まりきっていた。篠はありとあらゆる感情が同時に渦巻いた顔で「そう」と返し、彼女に目線を合わせるように少し頭を下げた。
 薄い色のヘーゼルアイはこの期に及んでも彼女を大切そうに見つめるから俺は胸が痛んだ。篠は物怖じしない。罪に屈しない。何があっても、彼はひたすらにまっすぐにこの少女を愛している。

「すぐ出発するん?」
「はい」
「わかった。本当にお別れやな」
「はい。……篠さん。桧さんをお願いします」
「おう、任せな。あんたも気を付けなよ。もうこんなことにはならんようにさ」

 篠は荒みも悲しみも隠さない口調で言った。少女は苦笑して、

「ならないと思いますよ。この場所も、あなたの音楽も、桧さんとのことも、……ぜったいに、唯一です」

 それじゃあ、と彼女は会釈をして玄関へ向かった。俺の買った服で全身を包んで。小さな足が至極あっけなく絨毯を踏みしめて。もう握れないなめらかな指が鍵を回した。毎夜触れていた細やかな髪が揺れて、一度だけ振り向いて青が俺を見た。寂しいです、と、言った時と同じ目をしていた。ああ。くそ。拳を握りしめる。触れたい。それでも俺が手を離すんだ。俺から手を離した、そういうことにしておかなければ、きっと一生かけて彼女を探してしまう。

「さようなら」

 扉が開かれて、小柄な背が敷居を超えていった。古くなってだいぶ軋むようになってきた重たい玄関扉が完全に閉められるまで、俺たちは黙って視線をそこへ留めていた。開閉音の残響が耳の中をいつまでも回った。先に扉から視線を外したのは篠で、まっすぐな目は自然、俺に向けられた。俺はただなにも言えずに、まだなにも思えずに扉だけを見ていた。静かだった。終わりはここだと決めてしまえばあまりにも迅速に淡々と訪れて流れていった。
 証が残せればなんでもいいと、彼女は言っていた。
 どうしたって彼女の勝ちだ。
 そして俺も、たぶん勝ったのだろう。
 暴虐の限りを尽くして復讐の気は済んだ。彼女のすべてが欲しくて抱いた。遠い気がして、一緒に堕ちたくて、一緒に生きて、たぶんちゃんと手は届いた。彼女は確かにここまで堕ちてきた。触れた距離で見つめ合った。それだけ確かめて、あとは何もいらないからと、頷き合って別れた。せいぜい足りない穴を抱えて苦しめばいいんだ。彼女も、俺も、どうしようもなく罪人なのだから。

「……ひのきちゃん、とりあえず、飯作るぞ。あんたは休んでな」
「ん、……うん、ありがとう……」

 生活を続ける。
 このまま、埋まらないまま、失ったままでいる。幸い本当にひとりにはならなかった。金も力もある。恵まれたこの暮らしのあらゆる一瞬を頑なに絶望と呼ぶ。守れた約束なんてない。終わらない感傷にずっと振り回されて、今のこの心地も一年後には覚えていないし、いつか罪を放り出して誰かを好きになるのかもしれない。

「なあ、ひのきちゃん、」
「何」
「青空のこと、本気で好きやろ」
「…………いや……ぜんぜん……」
「はいはい」

 軽くあしらうように言って篠がキッチンに立った。俺はテレビもつけずにじっとうなだれている。
 好きなわけない。欲があるだけだ。
 幸せになってほしくもない。支えたいとも思わない。愛したいとも愛してほしいとも思えなかった。思えていたら、篠、お前みたいにうつむかずにいられただろうか。お前は正しさも罪も受け止めて背負ったままで、汚れてしまうことを怖がりもしないで、決めきったように視線を上げてただなすべきことを続けている。俺はいつその場所に至れるかな。
 呼吸を整えた。
 どうせ未来は続く。それだけを深く、どうしても理解していた。



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