見上げた空のパラドックス After//1※ 料理を始めた。なにもしないでぼんやりと彼女を虐げながら生きるのもいい加減飽きてきて、近場のスーパーで買える既製品の味にも飽きてきて、かといって少女の作った料理を美味しく頂けるほどには吹っ切れていないし、自分で作ったらいいじゃないかと初めて思った。思えばずっと生活に必要なことを人任せにして生きていた。誰もいなくなってからだって義母の遺産でなんとかやっているだけで、俺はずっとずっと何もしていなかったのだ。 見よう見まねでどうにかしてみた食事は不格好だが案外悪くはなかった。慎重に味見を繰り返しながら作るから時間がかかるが、暇なのだから時間なんてかかればかかるほどよかった。少女はというと最初こそ驚いた顔をしてそわそわとキッチンを覗きに来たものだが、うざいんだけどと一言告げれば大人しくソファに座った。彼女は俺の作ったなんとも形容しがたい煮物をあっけらかんと美味しそうに食べて、へらへら笑顔でごちそうさまでしたと手を合わせた。後始末は全部任せた。 少女との閉ざされた生活はそうしてじんわりと変化を重ねながら続いた。悪夢を見る日は減らなくて、泣いて目覚めることも度々あった。かならず俺の隣にくっつかされて寝ている少女は、俺がうなされていると控えめに揺さぶって起こす。俺は少女を抱き締めて寝直すこともあれば、目覚めの絶望に任せて組み敷くこともある。彼女は気絶しなければ行為が終わった頃に「大丈夫ですか」と俺の頭を撫でる。そうしてまた不規則な眠りに落ちて目覚めて、日々がめぐる。 買い物をして、料理をして、だらだらとつまらないテレビを眺めて、眠って。単調なサイクルはぼんやりしている間にどんどんと時を進めていって。カレンダーなど持っていないが季節がめぐっていることはわかった。俺は少しずつ少しずつ、どうしようもなく、憎悪の熱から冷めていった。 一年もすればもはや彼女を抱くことが彼女の心を痛めつけるかどうかなんてどうでもいいような気がしてしまった。嫌だと泣かせたいのはただ興奮するからで、他の理由なんてない。復讐なんて薄っぺらな名目でしかない。俺の苛つきや鬱憤がとりあえず晴れればいい。 碧のための命だった自分のことが、あまりにも遠く、霞んで思えた。 「……高瀬」 「はい」 ベッドの上、もう名を呼ぶだけで用件が伝わる。少女がもぞもぞと仰向けになって、俺が上に乗る。 「お前もさ、慣れたよな」 「まあ……あなたには慣れました」 「どういう意味」 「したそうなの、わかるんです。出すだけなのか、私をいじめるのかも」 「はあ、気分悪……」 ほとんど着たきりの寝巻き一枚をたくしあげればいつもの裸体だ。泣いてほしいときはできるだけ優しくする。じっと目を見つめたまま緩やかに下腹をさするとそれだけで少女の息が上がることを知っている。今となってはちょっと不服だ。なにも覚えていないくせに。俺の身体しか知らないくせに。俺でしか達せないくせに。この身体は俺と誰を重ねて反応しているんだか。わざわざ彼女のすべてがほしいわけじゃないが、抱くからにはずっと俺以外の影がよぎり続けるのも勘弁してほしかった。もうどうでもいいんだよ、彼女の喪失や哀しみなんて。 「なあ、なんかさ、少しは嫌がってくんないか」 「別にいやじゃない、です」 「嫌だったのをお前が忘れただけだ」 「……」 「だいたいさ、感覚ないんだろ」 「ない、のかな。からだは反応する、んです、けど……」 「知ってる……」 少女の身体はよく知ってしまえば単純で、触れかたに迷うことはない。だいたい何をどうしても彼女は痛がりも嫌がりもしないし。事前にほぐそうがほぐすまいが濡れやすいからどうせすぐ入るし。あとはその肌が熱くなるのを待って、目を見てやればいいだけだった。どこまで追い詰めたら泣くかも気絶するかもわかりきってしまえば、叩けば鳴るおもちゃと同じだ。温かくて柔らかくて無防備で、ずっと結局じぶんを大切にはしてくれない、おもちゃみたいに振る舞う女だ。 柔い髪を手のひらに、脳天を押さえつけて身を沈めるとうまいこと奥まで入る。俺の下にすっぽり収まった少女が全身を拍動させて、息も粘膜も熱くて、あとは余計なことを言わない。 「あー、俺、なんでまだお前を抱かなきゃいけないんだろ。もう嫌がってもくんないし。好きでもないし。……お前が感じてんの、結局、俺じゃないんだし。まいど気分悪くなるわ……」 「……別室で寝ましょうか?」 「やだよ。……やだよ……」 「いやなら、しょうがないです」 思い出せなくてごめんなさい。少女は疲れた顔で微笑んで言った。どっとひりつく気分がして俺はその唇に噛みついた。勝ちたい。彼女にばかり翻弄されていたくない。行為中にだけそれが叶うから結局また手を出すのだろう。 冷めていく。 どん底にいる時の選択肢は二つだ。そのまま這いずるか、上に昇るか。俺たちの生活は今どちらなのだろうか。 暇潰しに、自分で行う家事は少しずつ増えた。テレビの向こうに見る世情は荒れる一方で、銃の整備も欠かさなかった。漠然と身体が弱ってしまうのが怖くてトレーニングも続けている。買い物にはだいたい毎日出る。なんだかんだで健康で安全な日々だ。憎かった少女を性奴隷のように飼い慣らしているだけの。 ある夜のことだった。その日はいつもと逆のことが起きた。 ようは、悪夢にうなされていたのが少女の方だった。苦しげに息を浅くして、もがくようにシーツを握って、彼女は眠りながら涙していた。俺はまあどうでもいいかと思ってしばらくぼんやりと隣で苦しむ彼女を眺めていた。横たわれば目の前にある薄白いうなじがじっとりと冷や汗で湿っているのがわかった。 結局、彼女は自分で目覚めた。軽くむせ込んでから静かになって、細い肩が入れすぎた力をほどくのが背中を見ているだけでもわかった。俺の着古しのトレーナーの袖で涙を拭って、そして少女はこちらに顔を向けた。つけっぱの弱いベッドランプに照らされた薄闇のなか、目が合った。 「……、起こしてすみません」 蚊の鳴くような声で言った、彼女の目はまだ濡れていた。 「たまたまだよ。お前静かだったし」 「……それなら、よかったですけど」 「なんか思い出せた? 夢で」 「いいえ……」 「つまんね」 なんとなく。暇だから。手が空いていたから。俺は少女を胸元に抱き寄せて目を閉じた。柔く細やかな髪をふわふわと撫でるのは心地がよくて嫌いじゃなかった。そのまま眠ろうと息をついた。いつも冷たい少女の身体はいつもより増して冷えていた。小さな手のひらが探るように俺の背に回る。寝巻きの布をぎゅっと握る。 「桧さん」 「……、ん」 「ありがとう、ございます……」 胸元に濡れた感触がしたが、意識を落としつつある俺には気にならなかった。 そういうことは長く共に暮らしていれば度々起きた。不安定になることは俺の方が圧倒的に多かったが、彼女とて本当はただの人間で、まったく揺れ動かないわけではないのだ。ときおりわけもなく物思いをするような、寂しげな目をすることがあって、けれど俺が料理を運んでやったり、買い物につきあわせたりしているうちに、そんな素振りも消えている。何か思い出せた? と聞けば決まって答えは否だった。本当に何も無い奴だな。俺以外のぜんぶを失って久しく。 いつからかはわからない。行為中に、彼女は俺の名を呼ぶようになった。上ずって濡れたちいさな声で、途切れ途切れに、ひのきさん、と言う。俺はそれが好きだった。その声を耳にするとたまらなく身体が熱くなって、欲が満たされた気がした。その時だけは俺を通した誰かではなく俺によがってくれているのだ、と。どうせ薄れてしまって痛まない傷のことならいっそ少しも気にしないで済めばいい。憎しみも絶望も疲弊して磨り減っていく。確かに残ったのはやっぱり身体に刷り込まれた快楽の記憶だけ。 ただただ、俺と彼女だけが、今もここで生きている。 「桧さん、最近、なんか、優しくなりました?」 「なってない」 「……そうですね、桧さんは最初から優しいです」 「心外な……」 かつては俺が触れればぴたりと黙って目を背け身を固めていた少女は、いつからかすっかり安心しきったように力を抜いて、わざわざ言わなくても俺の目を見るようになった。明るく笑うようになった。俺はそんな時でさえ碧のことを思い出さなくなっていて、それにふと気がつく瞬間ほど恐怖と困惑に染まった。このまま失って終わるのか。このまま失って終わるんだ。命より大切だった碧への想いも、碧を殺してへらへら生きている少女への憎悪も、少女への憎悪によって生かされてしまった俺のどうしようもない暴虐も、この恐怖それ自体も、何もかも――。 俺がパニックで倒れるようになるまでにはまたひとつ季節を跨いだ。減らない悪夢に眠りを阻まれ荒んだ頭でぐるぐると、何かを考えようとしては何も浮かばずに息をした。常に隣にいる少女は当然すぐに気がついて、心配そうに目を揺らして俺を見た。 「桧さん」 彼女が俺の胸に手を置くと呼吸だけはたちまち楽になった。異能で感情は癒せないから、しばらく動けないまま、せめて涙を流せる瞬間を待った。いつまでも来なかった。彼女は黙って俺の背を撫でていた。うれしいともありがとうともまったく思わないが、ひとつだけわかることがある。本当に、きっと、俺は彼女がいなければ生きていられない。死にたいはずだったのに怖くなる。彼女はいつかかならずいなくなる。 「ずっとここにいてくれ」 絞り出した言葉に彼女はきっぱりと首を横に振った。 「ずっとは、いられません」 「……」 「大丈夫ですよ。あなたは回復してきてます。生きていけます。私がいなくても」 「うそ」 「ほんとうです」 それから。 俺は、彼女を抱かなくなった。 一緒に寝てはいる。手が出かかることもある。だが彼女を下にすると身体が動かなくなった。土壇場になって恐怖に心が冷えた。このままいつまでも性に依存し続けたら俺は本当に壊れてしまう。とっくに壊れた後になって未だにそんなことを思って。浅いキスを落として眠った。 「大丈夫ですか、桧さん」 「……大丈夫だろ、前よりは。踏みとどまれるようになったんだから……」 寂しい。 寂しい。寂しい。寂しい。 まだ失っていない。彼女はいつでも触れられる距離で俺の名を呼んでくれる。どれほど大切な何を誰をどこまでも失い尽くして壊れきった最果てで、俺たちはまだふたりでいて、孤独ではない。寂しい。眠りたくない。眠くて仕方がない。決まった時間に起きる。決まった生活をする。寂しい。どうして。どうして俺の愛した人は、俺を愛してくれた人は、誰もここに生きていてくれないんだろう。とっくに何もないんだ。やりたいことも好きなこともうれしいこともないんだ。過去への痛烈な執着も後悔も憎しみも絶望もなくなってしまいそうだ。これ以上奪わないでくれ。怖い。 毎日はそれでもつつがなく。 近所のスーパーで強盗との銃撃戦があったらしいが、数日後には穴の空いた壁をそのままに通常営業をしていた。俺もきな臭い輩に絡まれることが増えた気はしたが、対処できないことはどうせ無かった。家の外ではなんか気がついたら俺の顔を見ると慌てて避けるような奴がちらほら目につくようになった。どうでもいい。幸い外で発作が出ることはなかった。帰って玄関を施錠した瞬間に崩れ落ちることはままあった。落ち着いたら食事を作って、食べて、皿を洗って、部屋と身体を清潔にして就寝する。 ふと彼女が消えてしまうことがないか、ふと玄関の鍵が開けられることがないか、意識の片隅で常に気にしている。 「ちょっと出かけんのもやばくなってきたな、最近」 「そうですねえ」 「ま、ここも一応都心だしな」 「守れますか。この家」 「そこは心配してねえよ。……帰ってきづらいんじゃないかって」 篠は今どこにいるだろう。 生きているのだろうか。 あいつは強いから戦って負けることも弱みにつけ込まれることもないだろうが、己の意志で勝手に突っ走って死にそうなところはある。 「……帰ってきますよ」 「どうだか」 「あなたを孤独にすることを許せる人ではないでしょう」 「ほざけ、何も覚えてねえくせに」 どうか、どうか、どうか篠には彼女が消えてしまう前に帰ってきてほしい。あいつだってまた彼女に逢いたいに違いないのだろうから。 「本当に、回復しましたね。桧さん」 「は。何、急に」 「前は篠さんといるのどうしても耐えられないって感じだったのに。今は会いたくて待っているんですね。もう、大丈夫ですね」 「余計なことだけ覚えてんな……」 「桧さん。これは、提案なんですけど」 少女は青く澄んだ目を微笑ませて俺を見上げていた。 「私を、捨てませんか?」 「……」 ひゅ、と、喉が鳴った。 「自分で捨てた方が楽だと思うんです。急に理不尽に、世界に奪われてしまうよりも」 「……、…………高瀬は、」 こいつはつくづく、未だに俺のことしか考えてないんだな。だからそんな提案ができるんだ。と、手に取るようにわかった。 「高瀬は寂しくないのか」 問い返せば、彼女はわずかに目を見開いて、笑みはそのままで困ったように眉尻を下げる。徹底して穏やかでいるのは、自分を律するためか、俺を刺激しないためか、両方か。 「お前にだって、ないだろ。誰もいないだろ。やりたいことも好きなこともうれしいことも、好きだった奴の記憶ももうないんだろ。それで一人で放り出されたとして、いいのかよ、お前は。平気なのか」 「……いいですよ。今、だけのことですから」 「……」 「百年後には忘れます。何を思っても、何があっても」 「まあ、却下だな。もしお前がいま外に出て、篠がお前を見つけられなかったら、それは、悲しいだろ」 彼女はなおも笑った。 「ひとのことばかり考えるようになりましたね」 「お前に言われたくないよ」 抱き締めて眠る。それくらいのことは許してほしい。もうやたらと彼女を虐げるだなんていちいち面倒なことはしないから。 そうして薄れてしまった憎悪に睨まれて悪夢を見る。失われたすべての過去が俺を指差して糾弾する。お前は大切だったすべてを殺した仇をその腕に抱いているんだぞと。俺は弁明する。違うんだ。彼女を許したわけでも愛しているわけでもないよ。これ以上なにかを失うのが怖いだけなんだ。お前たちにだってよくわかるだろうさ。いま俺の手が届く距離には彼女しかいない。それだけのことなんだ。 ある日、家の玄関扉の前に構えているガラス戸が、割れた。リビングからも聞こえる破壊音に、俺は即座に銃を持って玄関に背をつけた。向こうに誰かがいることだけわかって、次に背に衝撃が伝わり。鍵が壊されようとしていた。俺は動こうとする少女に制止をかけた。こんなものは対処に一秒もいらない。 音が止んで、俺は玄関を開けた。見知らぬ男が数名、火器を抱えて死体になって転がっていた。これ俺が掃除しなきゃいけないんだろうか。げんなりと息をつく。 「私、片付けておきましょうか」 「あー……頼む。ありがとう、助かるよ」 少女は久しく外に出るため洋服を着こんで、黙々と死体を処分していった。気分が悪いので俺は現場を見なかった。彼女は全身に血の匂いをまとって帰ってきて、そそくさとシャワーを浴びた。 ガラス扉の修復は面倒だったし諦めた。破片だけ袋にまとめておいて、あとは知らん。 俺やこの家を狙う輩は、稀に現れては死んだ。俺がのそのそとスーパーで食材を袋につめていると、ぎょっとして慌てて離れていく奴がだいぶ増えてきた。あー、なんか、……さすがに噂になってるか? 電池切れのインターホンが押されたのはそんな頃合いのことだった。控えめで丁寧なノックが玄関越しに聞こえた。すみません、お話ししたいことがあって、怪しい者ではないです。そんな声がもやもやとくぐもってギリギリ聞き取れた。怪しいけどな、ただのニートの家に突然やってくる時点で十分に。 少女に服を着てもらって、ナイフを手渡した。俺はチェーンをかけたまま僅かに扉を開いた。 「桧辰巳さんですよね」 顔を見せたのはしわくちゃになった老人の男。背筋がきちんと伸びていて、上質そうなスーツを着こなして、穏やかな立ち姿をしていた。ほら、怪しい。俺の名前なんてどこにも流れるはずはない。それどころか桧は本名でもないはずだ。 「わたくしは、以前、あなたのお母様と契約をしていた者です。サウンズレストの運営について長らく支援させていただきました」 「……、はぁ」 「昔、あなたを隔離していた研究所で働いてもおりました」 「よっぽど怪しい者じゃねえか。帰りな。俺はなんの話も聞かないし、ここを出ることもないよ」 「……名刺だけ受け取っていただけますでしょうか。あなたを必要としている人々が、今、この世界には溢れています。あなたほどの力を持つ者でなければ、もう、……どうにもならないのです」 うるせえな。そんな余裕が俺にあるわけないだろ。 老人は、名刺と、ちいさな花束を差し出して帰っていった。真っ白で典型的な弔花だった。少女がコップに水を入れて花を挿した。俺は名刺を眺めて放り出した。連絡する気があるわけもない。そもそも携帯を持っていないし、電話なんてできるものか。 少女はごみ箱へ落下した名刺を拾って見つめ、それからテレビ脇のラックに押し込んだ。かつてはいつでも新しい新聞が詰め込まれていたラックは、何年も前の姿のまま放置されている。 「どうしても暇なとき、連絡してもいいんじゃないですか」 「いやだよ。俺は、滅多なことじゃ助けられない人間のためにわざわざ動けるほど、善人じゃない」 「……桧さん」 「ん」 「生きてるうちは、終わりませんよ。失うのも、奪われるのも、助けられないのも。あなたが何をしていても、どう思っていても、絶対に終わらないんです」 「……どうせだったらいいことをしろって? お前が言うことじゃないな」 「いえ。……怖がらなくても、かならず慣れるから大丈夫、って言ったんです」 「ははは」 テーブルの片隅に置かれた花が、この部屋にはひどく場違いだった。 その花が枯れるよりも前に、篠は帰ってきた。 ▲ ▼ [戻る] |