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見上げた空のパラドックス
19 ―side Sora―

 筋がいいねと篠さんが言った。力の扱いについてだ。
 目を閉じていれば焔を扱える、とわかってからの飲み込みは自分でも早かったと思う。燃焼という現象のことが客観的に「見える」ようになったからかもしれない。それなりに身近な物質であれば、目の届く範囲でなら好きなように動かせる。うまく説明するのは難しいけれど、一週間も訓練が続くとそういう感じになった。
 私の力をざっくりと言うなら、原子レベルのサイコキネシス。
 ……と、自分で結論付けた。

「自分の力の定義がキッチリ理解できたら、おしまい」
「そうなんですか」
「わかってれば制御しやすくなる。そういうもんらしい。ひのきちゃんの受け売りなんだけど」

 本社地下の演習場は今日もひんやりとして薄暗い。
 ここ最近はまいにち篠さんと二人で出社して、私は黙々とその辺に漂う窒素や酸素や埃なんかと戯れた。
 昨日までに自分の力の性質はほとんどわかっていて、今日はその確認、定義を自分なりに確信するための日だった。私は、幾日かかけて、この力をひとまず自分の認知の内へ定めることに成功した。
 不思議だなあと思うのだけど、自分で定義がわかるのとわからないのとでは、力の使いやすさが明らかに変わった。篠さんに向かって「たぶん、原子が動かせます」と言ってから、能力使用時の疲労がましになった気がするのだ。桧さんが確か思い込みが大事と言っていたっけ。
 どう見ても数式に基づいた現実の物質を相手にしているのに、まるで空想を現実にしているみたいだ。

「おつかれ。うまいこといったな」
「はい。お疲れさまでした」
「で繰り返しとくと、これ、力を『使わない』ための演習だからな。使おうとするなよ、指示がなければ」
「わかってます」

 終わりと言われるとどっと力が抜けて、冷たい壁にもたれかかる。必死で開拓した自分の異能だけど、使えと言われてもあまり使いたいとは思わなかった。楽になったとは言ってもこんなに疲れるのでは。一つ深呼吸をすると背中に冷たい汗が伝った。たぶんもっと理解度をあげれば使いやすくなるのだと思うが。使わなければいい話だ。

「休憩室まで送る。俺はいったん報告に行くから、待ってて」
「ありがとうございます……」

 一歩踏ん張って体勢を立て直し、エレベータへ乗り込む。本当は気を抜けば座り込んでしまいそうだったけど、心配をかけるのも嫌でなるべく素振りに出さないようにした。心配されたところでどうせ死なないので意味がない。死なないくせに疲れはする損なこの身体が悪いだけだ。
 休憩室のベンチに腰を下ろすと篠さんがホットミルクティーを買ってよこしてくれた。ありがとうございます、と言う頃には彼は出口に向かっていて、おー、と軽い声を返される。
 一人になった瞬間に気が抜けた。缶の温みを両手でありがたがりながら、背もたれに深く身を預ける。ひどく眠いと思ったが眠ってしまうのも気が引けて、プルタブを開く。甘くさらさらとした液体が喉を通って腹の底を温めてゆく。
 片手間にイヤホンを装着した。音楽プレイヤーがすっかり手放せなくなっていけない。
 篠さんの曲。
 泣かずに聴けるようになるまで数日かかったことは内緒だ。泣かずに聴けるようになった頃には抜け出せなくなっていた。恥ずかしいので本人の前では聴かないのだけど。一曲だけ、いいだろう。
 彼の歌声は徹底して優しい。
 別れを歌う詩が多かった。あるいは罪や、寂寥そのもの、自暴自棄な痛み、むき出しの感情を素朴な言葉で歌う。詩だけを見るならいっそ暴力的なのかもしれない。私は昔もっと控えめでやさしい言葉選びの曲を好んで聴いていた。きっと、だからこそ、見知らぬ音楽に驚いて、受け入れてしまった。
 冷めてしまう前にミルクティーを飲み干す。なめらかな液体の甘さで心の痛みを誤魔化している。
 聴き終えてイヤホンを仕舞い直したところで篠さんが戻ってくる。

「帰ろ。立てるか?」
「はい」

 空き缶をゴミ箱に放り込んで彼の背に続く。
 大丈夫。足取りがふらついてはいない。

「次はほかの部署との擦り合わせもあるやつだから、あんたはちょっと待つかも」
「篠さんは?」
「俺はまあ、ずっと仕事かな」
「……篠さん、いつも大変そうです。私にできることがあったら言ってください。家事は代われますし」
「あーあー、なんで自分の心配せんのやろ、あんたらは」

 苦笑を返された。呆れたような懐かしむような、どこかあたたかさを含んだ苦笑だ。彼は頻繁に私には意図の汲めない顔をする。
 ……ら?

「俺はいつも通りだし平気。あんたの方が心配。これから大変だろ」
「どうなるんですか、これから」
「普通の殺し屋とおんなじ」
「……」
「まずは血を見慣れる。死体に動揺しない。そういうことからだな」

 つらくなったら言うこと、と篠さんは強調した。

「誰だって最初はつらい。続けててもつらい。そういうもんだから、無理は禁物。いいな」
「はい。ありがとうございます」
「頼むよ。管轄下の子に倒れられたらたまらん。そらちゃん、無理する癖あるし」
「そんなことは」
「帰ったらすぐ寝ること」
「……、はい」

 バレてるか。
 気まずくなってうつむく。でも、だって私の無理は別に無理ではない。どうせ健康は阻害されない。倒れることなんてない。一人だって、暮らす場所もご飯も寝床もなくたって平気なこの身体を、罪にまみれただけの心で、どうしてわざわざ大切にしなくちゃいけないんだろう?
 篠さんの歩調は変わらない。

「篠さんは、」
「ん?」
「つらいですか。お仕事」
「うん。つらいよ」

 清潔なオフィスビルの廊下を歩く。小声で言葉を交わしている。
 彼は私の問いにまた微笑んで頷いた。つくづく喜怒哀楽のすべてを微笑でしかあらわさない人だ。音楽以外では。

「俺たぶんサウンズで一番こき使われてるんだ。そういう契約だから」
「そういう?」
「妹も異能者なんだ、けど。関わらせないように」

 本社ビルの外は快晴だった。東京の秋晴れはどこまでも乾いて、青と灰色の境界を色濃くしている。何を思うでもなく、覚えた道の通りに足を進めていく。

「俺の妹、代償が命にかかわるから。何があっても、危ないとこには出せない」
「……ご家族とは喧嘩したって」
「連絡は取れるよ。大丈夫」
「そう、ですか」

 踏み込むまい。そう思って口をつぐんだ。黙って電車に乗り込む。まだ昼間なので座れる程度に空いている。座席で二人、揺られながら、窓外を流れるビル群をぼうと見る。腰を下ろしたらまた倦怠感が押し寄せたが、眠れるほどには乗らないのでこらえる。
 最寄駅からいつもの背の低い四角いビルへ、歩いている最中にふと篠さんがまた口を開く。

「――そろそろ、言うとかんとな」

 不穏な切り出しに思えた。

「何をですか?」

 立ち止まる。いつもひと気のない、冷えたアスファルトの路傍だ。一歩先にいた彼が振り向く。微笑みが示す感情は私にはわからなかった。身構える。

「あんたと俺の妹、『似てる』よ」
「……、」
「ひのきちゃんがあんたといたがらないの、そのせいだと思う。あいつ俺の妹のこと好きだから」

 ――ああ。
 おなじだ。
 理解に時間はかからない。私だって、桧さんがあまりに倖貴と重なるから、胸が痛んで目を逸らしているままだ。
 理屈はわからない。理解はした。似ている、と一言明かされただけで、稲妻のようにひらめきがほとばしって繋がった。
 私は、きっと、その子なのだろう。仰々しい言葉を使うなら、並行世界の自分。ドッペルゲンガー。無数に分岐した遠い可能性の先にいる、自分ではない、自分だったかもしれない他人。
 ふと息のしずらさを意識する。問題なく呼吸はできているのに、空気が違う、とわけもなく体感している。
 そうか。
 この世界では、私の方が異物だ。
 俯いた。
 ますます彼に頼りたくはなくなる。彼には私のほかに守るべきものがあって、なにより彼自身も傷ついている。
 私は口を閉ざそう。そう思った。いいんだ。私はもう彼に音楽をもらった。それだけでじゅうぶん立っていられる。進む理由なんて一つあればいい。まして私には失うものも命の危険もないのだから、大丈夫。

「あんま気にせんでな」
「大丈夫です」
「あんたの言う大丈夫、俺にはどうも信じにくいよ」

 帰ろう、と彼が言った。
 私はただ従って歩く。
 早く強くなろう。内心にだけつぶやく。本当にひとりでいいようにしよう。
 私はここにいるべきでない。それは、この世界で知ったどんなことよりも確かだ。息を吸うたび、無性にそう思った。


2022年4月12日

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