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見上げた空のパラドックス
18 ―side Riko―
 見える。
 目を開けていても、閉じていても、眠っていても起きていても、私の意思とは関係なく、見えている。

「朸くん」

 口の中でだけ呟いた。
 鹿俣朸。かのまたりょく。私の愛する人の名前だ。
 きっともうすぐ会える。

 社長なんて呼ばれるようになってからも、なんとなく暮らす場所を変えようとは思わなかった。
 職場から電車で小一時間、東京郊外のベッドタウン。川沿いの誘蛾灯に沿って歩いて、閑静な住宅街の奥へ入って。私はこぢんまりとしたアパートに帰宅する。六畳の和室に板張りのキッチンが引っ付いたようなワンルームに、もう二十年くらいは暮らしているだろうか。おんぼろになって取り壊しが考え出された時に私が大家から買い上げた建物は、一度改修を入れたけど、質素さはそのままだ。
 朸くんがここを去ってから、私は取り急ぎ辰巳との暮らしを立て直すためあちこちを飛び回った。朸くんを組織の追手から匿っていたころ以上に、後ろ暗い取引と綱渡りを重ねる日々だった。子どもだけで肩を縮めて暮らしていた異能者の私たちが、あの時代を生き抜くには、そうするしかなかった。
 ぎりぎりで殺されないように生活をして、朸くんの動向を探り続けて――そうしていたらいつの間にか周りに人が集まっていた。或るテロ組織と共に異能者の存在が社会へ告発された直後だ、動乱の数年だった。私はそこでどういうわけか裏社会の頂点に登り詰めていた。ただの捨てられた小娘だった私が、都心の高級住宅に呼ばれてスーツのお爺さんと契約をして。今思い返しても不思議でしかたがないけれど。

「つかれたなあ……」

 口癖のようにこぼした。
 夕食を作る気力もなく、レトルトパックを電子レンジに押し込む。畳に横になってしまいたいけれど我慢して部屋着に着替えた。雑に扱えないから高い服は好きじゃない。
 レトルトのお弁当をつつきながら考える。
 最近の動向。
 美山碧が朸くんに接触した。
 まだなにも起きていないけれど、少なくとも朸くんの心情には変化がある。
 私には見えている。それは灯火のようなかたちで、光って、揺れて、さまざまに色や温度を変える。可視化されたひとの感情のすがただ。大抵は、無理な感知を行わなければ、実際に近くにいる人のだけが見える。ただ、朸くんは特別。
 いつから彼の心がどんなに離れていてもあたりまえに見えるようになったのか、はっきりとした時期はわからない。私と辰巳を置いていなくなってしまった彼を追うため無理な感知を続けているうちにこうなっていた。異能は無茶をすると上達したりもするらしい。
 ゆらり、ゆらりと。
 彼の心はいつも繊細に揺れる。悲しみも憎しみもそっと抱えて、かといって感情に全てを明け渡すことはなく、合理と正しさにだけひたむきで。
 ずっとそうだった。路地裏でナイフを握る彼に初めて出逢ったときから。殺し屋が嫌になって逃亡した彼をうちで匿っていたころも。ふたりでお国の異能研究所に忍び込んで辰巳を助け出したときも。
 赤い髪の、小柄な少年だった。
 何年会っていないんだっけ。
 空になったプラスチック容器を洗ってゴミ袋に押し込む。すぐ寝たいから布団を敷いておいて、シャワールームに入る。味気ない夜のルーチンだ。
 寂しいなとは、思うよ。辰巳もとっくに出ていってしまったし。
 今にでも会おうと思えば朸くんに会いに行くことは可能だ。でもそんなことはしない。今の立場で彼と会おうとすると、殺し合わなくてはいけなくなる。お互いに、それは嫌だ。

 大丈夫。もうすぐ終わる。
 駒なら私の手元にある。

 美山碧と鹿俣朸の接触によってわかったことがひとつだけあった。
 彼の心はまだ14年前にある。命をもって世界を変えた「あの子」の存在に、痛烈に囚われたままでいる。
 そして、彼には、あの子の「生まれ変わり」を、殺すことができない。
 それがわかった矢先に、有り得ないことだけれど、とつぜん、「もうひとり」が現れたのだ。私の目には見えていた。まったく同じかたちをしていた。完全な一致だった。魂をかたどる灯火が、美山碧の持つそれと、なにより14年前に朸くんを遺して自決したあの子のそれと、寸分違わず。
 高瀬青空。
 彼女がきっと私の切る最後のカードだ。

 全身をきれいにして浴室を出て、さあ眠ろうというときになってインターフォンが鳴った。扉に目を向けても何も見えなかったから驚く。そこに人がいるなら灯火が見えるはずだからだ。いたずらかと思って、けれどもう一度インターフォンは鳴る。私は思い出す。
 たった一回だけ、一人だけ、この目にも『見えない』ひとに出逢ったことがあった。朸くんを匿っていたころだったと思う。路傍で急に話しかけてきて、或る決まりを口にして、そそくさと去っていった。
 扉を開けるとどしゃ降りの宵闇に見知らぬ少年が笑顔を見せる。やっぱり灯火が見えない。ひとの魂を持たない、からっぽの、何かが立っている。

「よう。掟は守ってるか?」

 少年は朗らかな口調で、開口一番そう言った。

「……覚えてないわ。なんだっけ?」
「人に未来を教えないこと、解明されていない世界の真理を吹聴しないこと。神さまに手を出さないこと」
「たぶんだいたい守れてるわ。何の用? 15年ぶりね」
「ビックリニュースだよ。この世界にもともと無かった可能性が異物混入でこじ開けられた。修復不能の特大エラーさ」
「……青空ちゃんのことね」
「うん。すげえことが起きてるからさ。何かおもしれーことあったらぜひおれに教えて。ってお願いしに来たんだ。夜分遅くにごめんな!」
「彼女について調べたいってこと?」
「厳密にいうとソレによる世界の壊れかたを調べたいかな。だから本人じゃなくておまえのとこに来た。おまえくらいの力じゃあ世界規模の感知はできないかもしれねーけど、おまえ以外に適任もいなくてさー」

 力が弱い。前に会ったときもそんなことを言われた気がする。私はこれでもこの国の異能者の頂点にいるのに不思議だ。憶測を言えば、青空ちゃんの記憶を信じるのなら、世界というものが他にいくつもあるようだから、そういうのと比べているのかもしれない。

「あなたは、何者?」
「神学者さ。おれはジュン。しらべものを手伝ってくれんならおれも何か手を貸すから、用があったら呼んでいいぜ」

 それだけ、じゃあな、と言って少年はまたせわしく雨の宵に消えた。意外と何の変哲もない名前なんだ、と思った。
 きしむ玄関扉を閉じ、布団に潜り込む。秋も深まって夜は寒くなったから毛布を一枚増やした。不可思議なことや切実なことがどれだけあろうとなかろうと、どんな特殊な異能者だろうと一般人だろうと、日常は日常のままでめぐっていく。


2022年4月11日

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