[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
17 ―side Aoi―

 鹿俣さんは最初、雑居ビルの一室に私を連れ出して、開口一番こう言った。

「美山篠について教えろ」

 生真面目そうに整った姿勢で、閉めきった部屋の出口に背をつけて。赤みがかった目が私を見下ろした。机と椅子だけがある、誰もいない灰色の部屋だった。本当にきな臭いな。そう肌身に感じるには十分な状況で、だから私はうれしくなって微笑んだ。同時に悲しくもなった。この状況で兄の名前を聞いたとなったら、いよいよ突きつけられてしまう。兄が裏社会の者だという事実を。

「……お兄ちゃん、有名なんですね?」
「やっぱり血縁か」
「鎌をかけたんですか」
「ああ。お前が美山篠と無関係なら問答無用で今すぐに放り出したんだがな」

 鹿俣さんは至極嫌そうに言って続けた。

「個人的なことでもいい。洗いざらい吐け。それが、俺がお前に構ってやる条件だ。わかったな。飲めないんなら、これ以上余計なことを漏らす前に、本当に帰れ」
「私が答えることでお兄ちゃんが危ない目に遇う可能性はありますか?」
「お前の想定通りだろうさ」
「……」

 私はただ目の前に立つ青年の目を見据えていた。彼のことをよく知りはしないにしろ、私をさっさと殺さない時点である程度の信頼感は覚えている。でもこの流れでは兄とこの人は敵対していると考えるのが自然だろう。私がここで口を滑らせることによってすべてが崩れ去る可能性は? あるに決まっていた。
 私は数十秒だけ考えて、答えた。

「わかりました。私の知っていることならお話しします。って言うてもお兄ちゃんのお仕事のことは私、なんにも知りませんけど」

 そもそも兄にとって最も重大な情報はもう伝わってしまっている。すなわち私の存在が。敵からすれば最高の人質に違いなかった。それなら、もう他の些細なことがどれだけ伝わろうが、リスクの大きさがそんなに変わるとは思えない。それよりも私が何かを知ることで状況を改善できる可能性に賭けたかった。
 いざとなったら力を使えばいい。
 そうするとたぶん私は死んでしまうのだけど。
 兄のためなら命くらいはなげうてる。兄が人生の全部をなげうって私を守ってくれていることを理解しているから。覚悟ならあるつもりだ。
 鹿俣さんは浅く息をついて、整えられた赤毛を片手ががしがしと掻いた。呆れを隠そうともしない素振りだった。

「お前きっと長生きしないよ。お前の兄もな」
「そう、かもしれません」
「情報を流したなんて知れたら、お前がサウンズから消されるかもしれない。そうでなくても俺がどこかに話を漏らしたら、お前もあちこちから身柄を狙われるぞ。二度と穏やかには暮らせなくなる。本当に帰らないつもりか。兄に悪いと思わないのか」
「お兄ちゃんには心底悪いと思ってますよ、しつこいですね。もうあなたは私を知っちゃったじゃないですか。この状況で今さら帰ってどうします」
「まだ見逃してやれるって言ってるんだ。帰れ」
「帰りません。へんなひと。どうしてそんなに心配してくれるんですか?」
「当然だろ。目の前で無実の子どもが考えなしに自殺行為してんだ。止めるのが大人の仕事だよ」

 私は思わず声をあげて笑った。路地裏の闇を深く彷徨い続けた先で、まさかこんな人に出会うとは、数奇なことがあるものだ。私はまだ裏社会の人間を三人しか知らないけれど、案外、篤実な人ばかりなのだろうか。そんなわけはない。

「帰りませんよ。どうしても、このままじゃいけないんだから」

 私は室内の椅子を勝手に引いて腰をかけた。話が長くなるのならこんなところにずっと立っているのも嫌だし。ぎしり、と古びたパイプ椅子のフレームが音を立てた。埃臭い。
 鹿俣さんは数秒だけうつむいて、何かを考えて、わかった、と言って私の向かいに座った。不機嫌さを圧し殺して平静な顔をしていた。
 聴取が始まる。

「お兄ちゃんは、――」

 兄のこと。
 改めて思えば知っていることなんて本当に少ない。答えられるのは――、いつも柔らかな笑顔で私を育ててくれたこと。料理がうまいこと。両耳にあわせて九つもピアスを空けていること。白いアコースティックギターを大切にしていること。七年前から音楽を始めて、いつの間にかプロになっていたこと。ずっと学校へは行かないくせに昼夜問わず家を空ける日が多かったこと。眠るのがどうにも下手くそで調子を崩しやすく、毎日薬を飲んでいること。だいたい年に一度くらい睡眠不足や過労がかさんで寝込んでしまうこと。兄の存在や家庭の事情は秘密にしてくれと、私によくよく言い聞かせていたこと。
 私の目線からだと、兄は昔からいわゆる荒んだ不良少年であるかのように見えていた。子どものうちから頻繁に朝帰りするわ、お酒臭いこともあったわで。しかし家に帰ってくれば兄はいつも穏やかだった。てきぱきと家事をこなし、私の軽口や相談を真摯に聴いて、どこで学んだのか勉強だってなんでも教えてくれた。私が「いつもどこへ行ってるの」と聞いたら辰巳さんの家に連れていってくれて、「こいつと仲良くなりたいから通ってる」と答えた。あれはたぶん嘘ではなかったろうな。

「お兄ちゃんは本当にすごいひとですよ。たったひとりで私をここまで育ててくれたんです。危ないことにはまったく関わらせずに……」
「両親は?」
「わかりません。詳しくは聞いたことなくて。なんか私を産んですぐいなくなったらしいです」
「親もなくどうやって暮らしてきた」
「きょうだいふたりです。ちっちゃいアパートで。お兄ちゃんは昔からしょっちゅう朝帰りしますけど。私は学校行って。その間にお兄ちゃんが家のことしてくれてて。夕方ちょっと話して、夜になったらお兄ちゃんは出掛けて、私は寝るんです」
「収入は? 家賃や生活費は」
「……あんまり聞いたことないです。お金のことはお兄ちゃんが全部やってくれてて。お買い物は私の担当だから、毎月何万か渡してもらってます」
「ふうん……」

 私は話せることのほとんどを話した。古い椅子に座り続けるとお尻が痛くなってきて、何度も座り直した。そのたび椅子が耳障りな悲鳴を上げた。蛍光灯が弱々しく白む。

「だいたい見えてきたな。美山篠の人物像が」
「……殺しちゃう、んですか? お兄ちゃんのこと」
「無理だと思うぞ。奴は十年前からこの国で一番の殺し屋だ。さんざん狙われてきている。それで誰も掠ってないんだから」
「このくにでいちばん……?」
「ま、実際に奴の姿を見た奴はもう死んでるか、生きててもほとんど口を割らないから、噂や伝説の類いだがな。たびたび一晩のうちに皆殺しが起きるんだよ。本当にそれが同一犯によるのかどうかすら、大半の組織には知る術がない。俺は知ってるけど」

 鹿俣さんはさらさらとそんなことを言った。私の知らない兄のことを彼の方がよく知っていて、なんだか複雑な気がした。
 十年前と言ったら本当に私たちが東京に越してすぐだ。兄はまだ十歳で、私は四歳で小学校に上がってすらいない。昔の私は身体が弱くて病院で過ごすことが多かった。そんな頃から、お兄ちゃんは人を殺していたのだ。それも、噂になるほどたくさん。

「伝説も思ったよりちゃんと人間なんだな。なんか、安心したよ」

 赤みがかった目がうつむいて、汚れたテーブルをにらんでいた。

「でも、それじゃああなたはどうしてお兄ちゃんのこと知ってるんですか? いるかどうかもわからないはずなのに、本名まで……?」
「俺は、」

 うつむいた彼の目は上がらないままかすかに視線を迷わせた。簡素なばかりで埃っぽいこの部屋の静寂に、一瞬だけ戸惑ったみたいに。それは不自然な間だった。ずっと肌身に感じていた空気のひりつきを忘れてしまう一瞬だった。そして、彼は小さな声で、

「なあ。お前、桧辰巳に会ったことはあるか?」
「えっ」
「美山篠に付いてるマネージャーだよ」

 彼の視線は遅れて上がった。呆れや不機嫌の気配はすっかり消え失せ、何を秘めているのか汲めない目をしていた。私は無意識に背筋を伸ばした。
 どうして彼の口から辰巳さんの名前が出るんだ。
 私はようやく恐怖を覚え始める。いいや、どちらかといえば畏怖なのかもしれない。目の前の男はどうやら特別に多くを知っている。『上』の人なんだ、と、思った。私の目的からすればむしろ好都合かもしれないけれど、でも、本当に何者なんだろう。

「むしろ順番が逆でさ。辰巳のことを調べてたら、たまたま美山篠の存在が割れたんだ。辰巳の周辺はガードが緩かった。辰巳のことを調べたがる奴なんて、まずいないから」
「えっ、と」

 辰巳さん。
 兄の上司だとは軽く聞き及んでいる。兄の状態を見ながら殺しの仕事を振り分けてくれている、らしい。
 いつも眠たげな紫紺の目を思い出す。溜め息をつく癖。昔は口数が少なくぶっきらぼうだったけれど少しずつ優しく柔く溶けていった態度。兄の親友で私にもよくしてくれる。私はそのくらいしか知らない。

「辰巳さん……会うことはあります、けど。調べてたっていうのは、どういう」

 問うのが少し怖くなって声が震えた。兄のことだってまだ整理できていないのに。辰巳さんに、私の好きな人に何か残酷なところがあったら。それを突き付けられてしまったら、どう受け止められるだろうか。

「なんでもないさ」

 回答はしかし意に反して、あっけらかんとしていた。

「辰巳に目立った動きはこの十年で一度もない。地味な仕事を地味に引きこもってやってるだけだ。現業員でもないし、サウンズの外じゃ誰も知らないだろうさ」
「あなたは知ってるじゃないですか」
「そうだな」
「あなたは、何者なんですか」
「それはお前の知りたいこととは無関係だろう」
「……。どうしてあなただけが、辰巳さんのことを知っているんですか?」
「だからお前に言う必要はないって」
「ありますっ」

 焦った声が出てしまった。立ち上がりかけて椅子が軋んで止まった。呼吸を整える。声も視線も揺れないようにする。これは意地だ。

「……ありますよ。私、辰巳さんと結婚しますから」
「は」

 本気の驚きを見せて、彼はしばらく言葉に詰まった。

「……、…………へえ。裏社会の人間が、何も知らない表の子どもと?」
「さてはぜんぜん信じてませんね?」
「正気か? 思い込みではなく?」
「失礼ですね。いたって正気ですよ」
「へえ……あー……まあ、身内とそのうち身内になる奴からそこまで伏せられたら、無茶くらいするかもなあ……お前まだ子どもだし……」

 鹿俣さんは素朴に哀れむ声で言って、そうして仕事人の顔に戻った。

「わかった。なんにしろどうせ知るんだろうから、これだけ教えといてやる。辰巳はサウンズレスト社長の息子だよ」
「え」
「未公開の拾い子だがな。もしマジで辰巳と結婚するんなら、裏社会のドンがお前の義母ってことになるぞ」

 本当に、彼は私の知らない、私の知るべきことをよく知っていて、私に危害を加えもせずに教えてくれた。彼がどこの誰であれ、ひとまず構ってくれるのならついていくしかない、何がなんでも、と、そう思った。

「社長の名前は、桧理子だ。裏社会じゃ『神様』って呼ばれてる。下手を打つと鉄槌が下るからって。身のためくれぐれも覚えておくんだな」


2023年7月7日

▲  ▼
[戻る]