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見上げた空のパラドックス
16 ―side Sora―
 家には誰もいないようだった。何日か訓練をして、いったん休めと言い渡された日だった。
 リビングのテーブルに使用感の無いまっさらな携帯端末と鍵束だけ置いてあった。出かけたければ持って出かけろということらしい。私は適当に自分用の食事を用意しようとしてやめて、携帯と鍵束とを上着のポケットに押し込み、外へ出た。イヤホンを耳に押し込んだ。
 先週は雨が降ったけど、しばらく秋晴れが続いている。乾いた空気に排気のにおいが混じって、いつも通りわずかに息が苦しい。子ども一人で都心を歩くのも気が引けて、少しだけ郊外へ出ることにする。電車賃はだいぶ前に支給されたICカードに入っている。
 別にやりたいことはない。一人でじっとしているのがつらいだけだ。じっとしているとうつろな気分になる。適当に知らない町を散歩でもして帰ろうと思った。
 イヤホンからはギターの音と柔い声がする。

 ふと考える。篠さんはどうして自分の曲を私に聴かせたんだろう。
 結局、私はあのとき以外に彼が音楽の話をしたところは見ていない。部屋にギターケースがあって、仕事の行き帰りにも持ち歩いていることがあるけど、弾いている姿も知らない。篠さんは桧さんと顔を合わせると他愛のない軽口をよく叩くけれど、そういうときでも音楽の話は出ない。ただ私にプレーヤーを渡した。「歌ってほしい曲がある」と。それが自分の曲だとは、やはり彼は一言も言わなかった。
 ……自分の曲をこっそり歌わせたくなるって、どういう気持ちだろう? まったくピンと来ない。
 慣れた声を両耳に、電車に揺られ、景色から高層ビルがなくなった辺りで降りた。ビル風のきつくない駅前ではロータリーがバスを憩って、コンビニと小さな飲食店が軒を連ねている。私の住んでいた町よりは都会だけど、しばらく都心にいたからひどく長閑に感じた。
 駅前通りをまっすぐ歩きだす。なんの変哲もない、特別なことは何もない町の景色をなんとなく眺めて足を進める。音楽を聴きながら散歩だなんておしゃれな暇の潰しかたは初めてで、それなりに淡白で、それなりに楽しい。
 見知らぬ中学校の脇を通った。同世代の子どもたちの笑い声がイヤホン越しにも聞こえて、何も感じなかった。
 ごくゆっくりとした歩調で、気ままに町を一周してまた電車に乗る。本当に何もない暇潰し。何もないままいつもの街へ戻る。ふと空虚に感じて、でも電車賃を確認しているうちに忘れた。やっぱり家にいるよりは動いていた方がましだ。
 夕陽がさすより前に背の低い四角いビルへ帰ると、桧さんがリビングの定位置でおかえりと言った。

「……ただいま」
「あれ。お前それ」

 いないと思っていたからイヤホンを片付けないまま扉を開けてしまった。とりあえず慌てて音楽を止め、両耳を空ける。

「篠さんが貸してくれました」
「中身見せてくれ」
「……はい」

 篠さんのだけどいいのかな、と思いつつも従って小さな機械を桧さんに渡した。私はとりあえず手を洗って戻ってきて、難しい顔で音楽プレイヤーの液晶をにらむ桧さんと対面する。

「高瀬」
「はい」
「篠となんかあった?」
「なにかって」
「だって、……隠すだろ? 殺し屋の美山篠を知ってる奴に表の顔は見せない。逆もまた然りだが。あいつそこんとこしっかりしてたと思うんだけど……」

 ……やっぱりそうだよね?
 私がソファに腰を掛けるとプレーヤーがそっと目の前のテーブルに置かれた。返すという意味だろうから受け取るが、私の手のひらに収まる機械を改めて眺めてみると、やはり不思議だ、と思う。

「いちおう隠されてると思います。篠さんは一度も私に音楽の話、してませんから」
「どういう経緯で借りた?」
「歌ってほしいって、言われて」
「……はぁ……?」

 溜め息混じりの声は今まででいちばんの困惑を示した。桧さんは眉根を寄せて組んだ両手に額をつけている。テレビから小音量でアナウンサーの声がして、長い沈黙を繋いだ。

「えぇ……? そんなにかあ……?」
「……何がですか?」
「別にいいけどな。篠ならたぶん……大丈夫だと……思うんだが、いや、だめかもなあ……音楽だし……」
「あの」
「わかるだろ? あいつがどんだけ真面目に殺し屋やって、真剣に音楽やってるか。あの篠がだよ? 別にルールじゃないがそれなりに必要な隠し事を、破ってまで、お前に曲を聴かせたんだ。つーかさ、」
「……」
「篠は俺にも音楽の話しねえよ。建前上は俺がマネージャーなのにだ。あんま人に触れられたくなさそうなんだよな。曲聴けば理由はわかるけど……それを、会ったばっかの奴に……」

 桧さんがそこまで言って、ようやく私も事の異常性がわかってくる。私の思っていたより、篠さんは徹底的に音楽のことを人に隠しているらしかった。それじゃあどうして私にだけ? 桧さんにもはっきりとはわからないようで、はぁ、とみたび困惑を含む溜め息が聞こえる。

「……とりあえず、篠の音楽のことはお前も知らぬ存ぜぬで頼む」
「わかりました」
「ただまあ……歌えと言われたんなら、歌ってやってくれ。マジ珍しいよ、篠がそういうこと言うの」

 彼はそう言うとテレビの音量を上げた。話はおしまい、ということらしい。私は軽く会釈をして、自分の部屋に戻ることにする。
 私に与えられている部屋は北向きの四畳半だった。半分は物置なので私の使えるスペースは布団一枚分だ。畳んだ布団の傍らにちんまりと腰を下ろす。手にしたままの機械を見つめる。

「……、」

 おもむろに息を吸った。歌えと言われたのだから歌おうと思った。幾日も耳にしてきた言葉のひとつひとつを思い浮かべる。喉を震わせて旋律を確かめる。ごく小さな声のままで、口に馴染むまで詞をなぞる。うまくいかない呼吸とわたりあう。そうしていると何も考えなくて済んで、ふと楽しいと感じた。ぴたりと重なる瞬間があった。言葉と、音と、声と、心象と。
 ああ、これだから嫌になるな。胸が痛い。言葉が痛い。膿を絞り出すように歌っている。ここに私がいる。この歌に私の心がある。だからきっと明日も立っていられる。泥の底から縋りつけるような音楽だった。救われたいわけじゃないのに、旋律は抗いようもなく声をみちびく。救われてしまう。嫌だな。ゆるせない。それすら詞になっていく。
 あまねく歌は過去への指向性を持っている。詞が産み出されたその瞬間の、あるいは聴き手が聴いていた頃の景色に宿った感情を、いつまでも秘める。懐かしさという名前の毒を持つ。うまく言えないけれどそういうことを思う。だからこそ、今の私が好いた歌は、今の私を映すようだった。
 訥々と痛みを吸って吐く。
 これが篠さんの望んだ歌なのか、私にはわからないけれど、今の私にはこれしか歌えない、これが私に歌える全部だ、そういう確信があった。


2022年4月15日

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