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見上げた空のパラドックス
15 ―side Tatsumi―

 篠が東京へ連れてこられてから数週間。俺がまだボロい和室の1Kに暮らしていた頃。
 俺は初めて倒れた。

 サウンズレスト創業から一年目の話だ。俺は多忙な義母の帰りをぼーっとテレビを眺めて待っていた。本来なら、異能に最も通ずる立場である俺も母に伴って働いた方がよかったし、美山兄妹が現れるまでは実際そうしていた。が、兄妹のことがあってからは、家で休んでいろと言いつけられて。ひとりでぼんやりと退屈をしのいでいた。そんな夜のことだった。
 ふと鍵を回す音がしたから立ち上がって、畳を踏みしめた足から力が抜けた。その場につぶれるみたいに身体が落ちた。古びた井草に両手をついた。自分がなぜ転んだのかとっさにはわからなくて、何度かまばたきをした。そしてすぐに合点がいった。これは異能の使いすぎによる代償だ。

「辰巳! 一日見ててあげられなくてごめんね、すぐ病院行こうか」

 玄関扉を開いたばかりの義母が、うずくまる俺に駆け寄って言った。似合わない高級スーツを身につけた彼女の、焦りと疲労に追い詰められた顔をよく覚えている。
 ――代償に治療なんて無駄だろ。
 俺はそう思った。思っただけで声を出さずとも義母には読み取れるから不自由しなかった。
 母さんだって、ぜんぜん眠れてない。俺も母さんもとにかく早く寝たほうがいいよ。
 義母は一瞬で読み取って、一瞬で納得してくれた。翡翠の目が悲しげに揺れて、一秒して彼女はてきぱきと寝る支度を始めた。俺は促されるまま布団に潜り込んだ。

「辰巳さ、もっと早く寝てないとだめだよ。調子悪くなくたって、まだ10歳でしょ。私の帰りなんて待たなくていい」

 照明が消えてしばらくして、隣の布団からとがめるような声がした。
 いや、待つだろ。
 二度と帰ってこないかもしれないんだから。
 どんな不安も義母に隠すことは不可能だった。彼女は暗闇のなかで俺の手を握りしめて、確かめるように言った。

「帰ってくるよ。信じて」

 無理な話だった。

 ――十年前。
 色々と限界の時期だったと思う。
 とつぜん社長となった義母との二人暮らし。あるいは、埋まらない空白との三人暮らしだったかもしれない。
 俺はずっと声を出さずにいた。義母以外と交流を図ることもなかったし、義母のことだってそう信じてはいなかった。どうせいつか彼女も俺を捨てるだろう。だって多忙で大変そうだから。この国の裏社会のすべてを任され、毎日早朝から深夜までスーツを着て小脇に銃を隠して、それでも傍らに去った人の動向を追い続けて。そんな彼女にとっては俺のような子どもの世話なんて余計で煩わしいことに違いないのだろうから。いっそ早く捨てればいいのにとすら思っていた。
 誰も信じない。
 みんなどうせいなくなる。
 別にそう頑固に拗ねていた訳ではない。信用に値すると思える人がいなかっただけだ。

「おはよー! ひのきちゃん! 起きてた?」

 朝方、明るい声がしてインターホンが連打される。義母が出掛けて数時間もすると、彼が食料を抱えてやって来た。
 美山篠。
 俺が倒れてから顔を出すようになったこいつは、どうやら義母から昼間の俺の様子を見ておくよう言われたらしかった。『元凶』なのだから、責任を取るという意味では当然なのかもしれないが。
 篠は出逢って一月後にはもう腰にナイフを隠すようになっていた。毎日俺のもとを訪ねてくるが、軽くその日の食事を用意すると、すぐにそのまま殺しの仕事へ出るのだ。

「……、妹、の、調子は?」
「うん! もーちょいで起き上がれるようになるって看護師さんが言うてた! うれしーなあ」
「……」

 彼は『例の件』についてありがとうともごめんなさいとも言わなかった。ただへらへらと挨拶をして、好きな食べ物を聞いてきて、ろくに声が出ず答えられない俺に「適当にやるからな!」と飯を作っては仕事へ出掛けていった。俺に起き上がれない日があれば当然のように介助した。俺が動ける日は外へ引っ張り出して、歩かんと体に悪いぞと言って買い物に付き合わせた。ときおり異能の使い方を聞いてきた。
 俺が声を発する相手は、長いこと篠だけだった。
 仲が良かったとは思えない。
 だって、彼が俺の家へ通うようになって俺が最初に彼へ伝えた言葉は、「なれなれしいんだけど……」だったし。

「え! でもさー、なんて呼んだらええの? 俺あんたの苗字知らんよ?」
「……、…………、」

 いや呼び方とかの話じゃなくて。たつみちゃんと呼ばれるのが嫌とか、そんな細かいところの問題ではなくて。と、反論するほどの余裕はその時の俺にはなかった。
 ……苗字。
 問われてみると考え込んでしまったのだ。俺自身の本当の苗字なんて忘れたし、それに。
 色んな感情がごちゃっと渦巻いた。篠は薄い色のヘーゼルアイをぱちくりとして俯く俺を見ていた。いつもへらへらよく喋るくせに、俺が考えているときは黙って待つ、彼はそういう奴だった。
 俺は考えた。
 義父の姓を名乗れたらよかったのに――――
 もういないんだ。
 自然、義母の姓を名乗るしかない。

「……桧、だよ。……桧辰巳」
「ひのき? 理子さんとはきょうだいなん?」
「おやこだよ」
「おやこかあ〜。社長令息やなあ」

 わかった、ひのきちゃんって呼ぶな。と、なんのことはない声で返して、篠はへらへらと笑った。そういう問題じゃないんだけどな、と言い返す機会はそのまま逃した。
 不調の元凶でもあり俺の介助者でもある篠は、そうして仕事をこなしていくうち、なんだかんだで俺よりもよほど頻繁に倒れた。彼の異能は使い勝手こそいいが消耗が激しく、大きな仕事のあった直後となると彼は毎度トイレにも行けないほど弱るのだ。仕方がないのでそういう時は俺が食料を買って彼のもとを訪ねてやった。彼には頼れる家族がいない。就学前の、しかも入院中の妹など頼れるはずもなかったのだから。
 俺たちは互いに調子を崩しやすくて、互いに世話をしあって暮らした。

「篠。生きてるか」
「おー……」
「あんまでかい力使うなって、いつも言ってるだろ。そのうちほんと死ぬぞ」
「そろそろしぬかもなー、へへ」
「お前が死んだら妹どうすんだよ」
「碧はもう大丈夫やって、理子さんもひのきちゃんもおるもん」
「はぁ……」

 こいつは、マジで何も考えていない。
 ということは出逢って一年もすればわかった。
 自分の命のことも、身体のことも、生活のことも、罪のことも、心のことも考えない。命令には律儀に従う。その場の空気や目の前の相手にとにかく合わせて動く。彼が何かをしっかり考えるとすれば妹のことだけだ。それはある種の才能だった。なぜならこいつは怯えないし臆しないから。
 最初の一年だけだって、いくつの違法組織が彼の功績によって狩られたか。何人が死んだか。そして、そんな仕事の中で彼がどれほど危険な目にあわされてきたか。俺は知っている。大量殺人を課された時もぼろぼろにされて帰ってきた時も、彼はいつも同じ澄んだ目をしていた。

「体温は?」
「さんじゅうごどにぶー」
「今日なんか食った?」
「まだ」
「いいかまだ寝んなよ。今なんか温まるもん準備する」
「はーい……」

 自分の体調が悪い時にすら不安げな表情一つ見せない。へらへら笑ってばかりいる。
 マイナスをまったく感じないのなら、感じられない欠陥だというのなら、まあ、それでもいいのだろうが。本当は感じていて、意識に上がらないようにしているだけなのだとしたら。俺はよくそんなことを考えては彼の笑顔に辟易してため息をついた。
 鬱屈を口にしないやつほど、あるとき突然すべてが嫌になってしまう。大切だったものを急に突き放して、どこか遠くへ行ってしまう。
 だが俺が何を問うても無駄だった。彼はいたって本気だというようなまっさらな表情をして、しんどいことなんて何も思いつかん、と答えるだけだった。

 俺はしばらくして和室の1Kを、義母の家を出た。
 家がボロすぎてリフォームが入ったのがきっかけだった。リフォーム中は近場のビジネスホテルで過ごしたのだが、嫌な記憶の染みついていない環境は暮らしていて楽だとしみじみ思ったのだ。義母は俺が帰りたくないと思ったのを読み取ってすんなりと家をくれた。彼女は俺には優しい。俺以外にはいくらでも非情になれるくせに。
 与えられたのはサウンズレスト本社に行きやすい位置の小ぢんまりとしたオフィスビルだ。買ったが余っていたのだと軽い調子で義母が言った。住めるように少しだけ改装を入れて、内側の扉には厳重に鍵をつけた。外側の扉に設置された監視カメラは本社に映像を送っている。
 ただ義母はかたくなに自分の家を離れなかった。ここを出るなら一人で暮らしてね、必要なものは揃えてあげるから、とまだ13歳の俺に告げてきた。俺はうなづいた。そもそも彼女はいつも深夜に帰って早朝に出かけるので普段から俺の暮らしは一人だ。それよりも、いなくなったひとの匂いが消えない家に居続けるのが嫌だった。
 家が変わると篠が居つくようになった。どうせひのきちゃんは料理しないしとキッチンをすっかり自分用にして、二階の空き部屋に寝床までこしらえ、毎日俺の様子を見にくるのとは別にたびたび泊まる。泊まりと言っても篠は夜明けまで仕事をしているから、朝から昼のあいだ寝に来るという意味だ。特に妹に見せられない状態のときは避難所として使われた。俺は黙ってそれを許した。

 篠の明るさがやはり無茶のもとに成り立っていたことは、数年後にわかった。
 彼が音楽を始めてから。
 明らかに彼の倒れる頻度が低くなったのだ。動乱の数年を抜けて業務量が落ち着きだしていたことも、妹が無事回復して学校へ通えていることも、もちろん理由に挙がっただろう。とにかくその頃。彼は音楽を始めて、普段の表情からしてまるきり変わった。以前よりも、そう、人間らしい顔をするようになった。

「ありがとうな、ひのきちゃん」

 一曲目が作られたあと、彼はギターケースを抱きしめるようにして改まって言った。その笑顔には確かに、以前は見えなかった痛みや苦しさがにじんでいた。
 音楽の中にだけ、篠は心を持っている。
 ギターは俺が義母に相談して買った。
 篠にばかり過酷な仕事を任せる義母のやり方にうんざりして文句を言ったら、義母はうんとうなづいて彼のメンタルを案じるようなことを言い、音楽を勧めてきたのだ。篠が殺しを始めるよりも前、俺に出会うよりも前の趣味を、取り戻させるということ。俺は賛成して、人としゃべる練習をちょっと積んで、それから楽器屋へ行って、なんとかギターを買ってきた。
 俺は篠を繋ぎとめることに成功したのだと思う。
 彼だけは、俺を置いて遠くへ行ってしまうことがない。彼は俺を捨てない。信じてもいい。その確信を得ることに、ようやく成功したのだ。彼にギターを手渡したあの瞬間に。数百を殺して路地裏の伝説になってしまった真っ白な彼を、笑って泣けるただの人間へと引きずり堕とした瞬間に。こいつはきっとこのままここにいるだろうと思った。ここにいたいと思ってくれるだろうと。
 彼の歌はいつも確かに別れを悲しんでいたから。

 あれからずっと篠は音楽をしている。
 俺は、じわじわと弱り続けるこの身体で、今もぼんやりと桧を名乗って、彼の隣にいる。


2023年7月16日

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