見上げた空のパラドックス
14 ―side Shino―
音楽のことなんていちいち考えたことはない。
考えないようにしているのか、考える余裕がないだけなのか、そんな区別もついていないし、つける必要もなかった。ただ慣れ親しんだボディの重み、ネックの握り心地、それだけあればあとは俺がボサッとしていても何とかなる。ふと気がつけばコードが鳴っていて、己の指先からあふれる響きをどこか他人事みたいにぼんやりと聴いて、そうしているうちになんとなく鼻歌を歌っていて、いつの間にかそこに詞がついている。作曲はいつだってそういう感じだ。曲が形になった後、練習して綺麗に演れるようにする段階の方がよほど苦労する。
だから好きか嫌いかと問われると正直困る。無意識にやっているというのが本音であって、音楽が好きだから積極的にやっているというのとは違うと思う。人の曲も自分の曲も俺はあまり聴かないのだ。
でも、ただ、確かに音や言葉に敏感な方ではある。
耳を澄ませて生きている。
「……」
ネックを握る自分の手を見下ろしている。今日は少しだけ考えている。あれから、ずっと、柄にもなく考えている。
高瀬青空。
彼女の歌についてだ。
少女に趣味を問うたのは本当にただ部下の心を開く手段としてのことで、仕事だからという理由が大きかった。が、その答えが「音楽が好き」だったことに、なぜだろう、俺は素朴な喜びのようなものを感じたのだ。硬い愛想笑い、ぎこちない絶望ばかりを見せるあの少女にも、かつては好きなものがあったらしい。そしてそれが、音楽、であったと。
今も好きでいてくれたらいいな。
わけもなくそう思って、気づけば彼女に歌を強請っていた。つくづく音楽のことになると行動が感情や認識を置いて先走る。後から思い返しても自分でもよくわからない感覚だ。
歌えと言われた少女は、立って、部屋を見回した。その予備動作だけで、思わず俺は背筋を正してしまった。彼女は音が空間に根差すことを無意識に直感的に理解ったうえで歌っている。たった一秒でそれが伝わって、有り体に言えば、ただ者ではないと思ったのだ。
その細くやわらかい喉から歌声があふれたとき。
幼く澄んだ声が、少女の唇を通りすぎ、慣れたモノトーンの壁に反響し、絨毯に染み込み、鼓膜を震わせたとき。俺は目を見張って、歌う彼女の横顔を呆然と見上げた。穏やかなメロディに反して心臓がどくどくと早まった。吸い込む息の重さがたちまちほどけていって、まるきり無抵抗のつるりとした空気が、肺を透明に満たしていく気がした。息が楽になって、だけど苦しくなった。名のつかない感傷が心臓を伝って淡いままに去った。
言葉は見つからない。
あれから。
彼女の歌声がいつでも脳裏を占めている。いつも通りに寝て起きて仕事をしてギターを握っている、なにも変わらないのだからいちいち気にすることでもないのかもしれないけれど。何を考えていても、何も考えていなくても、頭の片隅に少女の声が。
音楽を、吐き出したいでなく、こんなにも聴きたいと思ったのは初めてだった。
雨の音がしている。
気まぐれに寄り添った窓辺、小さく分厚い二重窓だが、背を預け頭をつけているから伝わってくる。細やかで、けれど圧倒的な物量を持つ、機械的な自然現象の音だ。本来はなんら情感を含まない、ただのノイズ。
先ほどから強まってきている。最近は前線が東京に近づいてきて、雨が多い。
陰鬱に感じてしまうのは人間の性なのだろうか。
「……っし、行くかあ」
ギターを無造作にケースへ突っ込み、自室を出る。時刻は遅い午前だ。出社まで時間はあったが、考えすぎて手が止まるくらいなら弾かない方がいいだろう。
身なりを整えてリビングへ出ると少女が一人で退屈そうにテレビを眺めていた。玄関をちらりと見るが靴は揃っていて、桧はどうやら部屋で寝ているらしい。
「おはよ。そらちゃん」
「おはようございます篠さん。早いですね?」
なんのことはない挨拶。可も不可もない淡々とした声色。それだけで少し満たされた気がしてしまうから不思議だった。耳の奥にまわる雨の日の憂鬱が、俺も預かり知らぬうちに彼女の声を待ち望んでやまない。
何故か、なんて考えそうになって即座にやめた。余計なことを考えすぎないために自室を出てきたのだし。
「暇そうやな」
「あはは、まあ……」
「なんか食べた?」
「いえ、まだ」
「作るよ、時間あるし」
「……、ありがとうございます」
少女は一瞬だけ沈黙して、それから取り繕うように礼を言った。必要ないのに、とでも思っているのだろう。
異能の訓練が始まって数日するが、この少女の振る舞いというのは変わらず、徹底して淡白だ。泣きもせず、笑いもせず、俺たちのことばかりを慮り、言われたことには従順で、ただただ慎ましく大人しくしている。
(――あ、)
……ふと、彼女が片手に何か隠していることに気がつく。
心臓が跳ねた。
俺は素知らぬふりを決め込んで悠然とキッチンへ逃げ込む。彼女の片手に隠されたものが十中八九あのプレイヤーだろうと判ったからだ。
聴いてくれている。
期待と後ろめたさとが胸を焼いた。どうしよう。どうしたらいいんだろう。もう聴かせてしまっているのだから思ったところでどうにもならないが。
殺し屋が同僚に表の活動を見せるなんて、本来はタブーなのだ。
うっかり越えてしまった境界。自らが何故そうしてしまったのかさえわからないまま見て見ぬふりをしている。俺はただプレイヤーを渡しただけで別に一言も俺の音楽だとは伝えていないし。せめて彼女が何も言わないうちは。手遅れの言い訳ばかりが脳裏をよぎった。苦し紛れだ。目が回りそうになる。
考えるな。
考えてはいけない気がする。
冷蔵庫から食材を適当に抜き出し、三人前の感覚で切り分ける。手元にだけ意識をやれば自然と心臓も元に戻っていっ
た。
「あの、篠さん。桧さんは今日は……?」
退屈に弱い少女は沈黙が続くとよく話しかけてくる。俺は努めて無心に、軽い反射だけで会話に応じる。
「ん? たぶんまだ寝てるよ」
「いつもは朝のうちに出てくるのに」
「ああ。けっこう頑張ってるよな」
「頑張ってる?」
「あー……、ほら、雨やし。あいつもこのところ気い張ってるだろうし。今日は起きてこないかもな」
まあ確かに、桧が昼前になっても出てこないのはこの少女が来てからだと初めてかもしれない。
雨だとか、暑いとか、出掛けて疲れた後だとか。桧にはたまにほとんどベッドから出てこられない日がある。まだ動ける日の方が多いくらいに留まれてはいるが、動けない日もそう珍しくない程度には、身体が弱い。『弱っていくことになっている』。
そういえば当たり前になりすぎていてろくに説明していなかったと気がつく。桧も普段は元気そうに見えるから傍目からはわからないだろうし。
「ひのきちゃんはもともとけっこう寝坊助なんよ。心配はいらない。無理に起こさんようにな」
「ええと。はい、そうします」
「でも、そやなあ。なんか食いやすい柔らかいもんでも作っとくかあ」
「……ほんとに大丈夫なんですか?」
「まあ軽ーい病人ではあるけどな」
キッチンから顔を出して見やれば、彼女は心底心配そうに青い目を揺らして二階へ続く階段を見上げていた。俺は目をしばたたいて、なんだか言葉に迷ってしまって、それから黙って調理を続けた。
彼女がはっきりと感情を顔に出すのは珍しいことだ。それも明確に誰かへ向いた感情となると。
ざわり。胸のあたりに嫌な感触がする。
きっと罪悪感だろう。
幾年とかけてじわじわと進行する桧の衰弱は、――俺が引き起こしているものだから。
(……桧)
考えてしまうと気分が重くなる。深呼吸ひとつ、清潔な包丁を握る手元にだけ意識を追いやった。
ずっとそうやって生きている。
大切なことほど、己の心の動いたことほど、できるだけ何も考えないように。
2023年6月4日
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