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見上げた空のパラドックス
13 ―side Sora―

 まずは異能の扱いを覚えるように。そんな指令が下った。
 サウンズレスト本社ビル地下。一日ぶりに拝むコンクリートとフットライトに何を思うでもなく冷えた空気を吸う。今日は牢に入りに来たのではない。このフロアの大半は演習場と云われているそうだ。

「何とかしなくちゃならないよね」

 甘やかな声が言った。一週間ぶりに会う、サウンズレストエンターテイメント社長、理子さんだった。篠さんと二人で本社に辿り着くなり私たちを出迎えた彼女は、あっさりと私たちを地下に案内して直々に命を下した。篠さんはやはり理子さんの前だと緊張した面持ちになって、黙って後ろを歩いている。

「青空ちゃん。あなたが現状あなたの意図で操れるのは、焔だけ。そうね?」
「えっと……はい。そうだと、思います」
「やってみてもらってもいいかしら」
「……はい」

 呼吸を整える。どうせ逆らえないのだからさっさと言われたことをこなしてやり過ごそう、と思った時点で内心では拒絶が勝った。冷や汗が噴き出している。膝が震えないように踏ん張る。あのあかいろを脳裏に浮かべるだけでこれなのだから、実際に目の前になんて、できるわけが。
 理子さんは黙って固まる私をじっと見つめている。強者の視線には圧力がある。逃げられはしない。
 息をする。やっぱり苦しい気がしながら、でも、やるしかない。

「……………………………………、できません」

 耐えがたい沈黙を経て、肩が震えて、私は絞り出すように答えた。結局、恐怖に逆らえはしなかった。
 そうして冒頭に戻る。

「なんとかしなくちゃならないよね。その恐怖症」
「すみません」
「謝ることではないわ。ただね、力が使えないっていうことは、制御できてないってこと。暴発する恐れがあるっていうこと」
「……、教えて、ください。どうすればいいですか。私は、」

 どうすればもう誰かを傷つけなくて済みますか。
 殺し屋になろうというのにそんな言葉を続けそうになって口をつぐんだ。
 理子さんはにっこりと整った顔で笑って答える。存外に明るい声で。

「色が怖いなら、見なければいいのよ。今日はそれを教えに来たの」

 むき出しのコンクリートに上品なパンプスの足音が響く。理子さんはゆっくりと私の背後にまわって、しっとりとした手のひらで私の両眼をふさいだ。

「やってみて。きっとできるから」

 ――吐き気がした。
 整えたばかりの息が詰まった。頭痛と呼ぶより圧迫感に近い感覚があって、暗闇に閉ざされた視界に何か、きらきらざらざらと、複雑な粒のようなものが無数に光って見えた。輝き、うねり、うごめいている。反射的に彼女の手をはねのけようとして、想像以上の力で抑え込まれる。

「大丈夫、大丈夫。受け入れたら平気になるわ」

 耳元に囁かれる声は響きばかり優しげだった。
 受け入れたら? 何を。自分の喉の奥から情けない喘鳴が聞こえる。閉じた目の裏に粒子が揺らめく。これを、か? 受け入れるってなに。見れば見るほど頭痛に似た圧迫感は増していく。ああ、そうだ、あれに似ている。難解すぎる数学の問題を解いているときの頭の熱さと思考停止感。そう思うと粒子は数式の群れのようにも映った。熱い。あたまが。

「美山くん」
「はい」
「ちょっと落ち着かせてもらっていい?」

 ……はあ、とほんの小さな嘆息が聞こえる。そろそろ耳慣れてきた静かな足音が近づいて、普段よりもいくらか堅い声で、篠さんが言う。言葉を紡ぐ。

「”大丈夫”」

 不思議なことが起きた。
 目の内側にまざまざと泳いでいた数字が急速に様相を変える。強制的な何かの力で、世界のかたちが置き換わる。私は茫然とその変革を見て、遅れて自分の喘鳴が止んだことに気がつく。さっきよりは明らかに呼吸が楽になっている。感覚的に言うなら、安堵、のようなものが胸の真ん中に生じている。
 唐突に理解する。私が見ているものがなにか。
 頭痛が引いていく。何事もなかったような穏やかさで回帰する。何かが作り替わっている。私は、ああ、言われた通り。
 「大丈夫」だ。
 見える。
 理子さんが手を離した。意味ありげな強者の微笑みが淡いフットライトに照らし出される。篠さんは一歩離れたところで硬い表情のままそっぽを向いた。
 きらめく粒子の輪郭は、目を開いても奇妙に視覚と同居して残存している。

「ちょっと荒療治でごめんね。でもこれはあなたの力だよ、青空ちゃん」
「……何かが、見えます。今も、目を開けても」
「うん。訓練すればもっと見えるようになるわ。まあ、今はそれはいいの。目を閉じて力、使えるかしら?」
「やってみます」

 もとより薄暗い演習場の景色を瞼に閉ざして、私は直感に従って粒子に手を伸ばした。闇の中でも迷うことはない。かき集める。知識があればそれを酸素と呼んだかもしれない。先ほど見た変革よりはもう少し緩慢に、視界の先で粒子がうごめく。
 かざした手の先に、はっきりと、熱源が生じた。ぼう。ばち。あまり聞きたくない音が耳をかすめる。急激な温度の変化に耐えきれなかった冷えた空気が耳元をゆるりと流れていく。

「うまくいったわね。それじゃあ私は行くわ。美山くん、あとはお願い」
「あの。……質問しても?」
「どうぞ」
「荒療治が過ぎます。なぜ彼女のことだけ、そんなに急いでいるんです」
「そのうちわかるわ」

 それじゃあねと言ってパンプスの足音が遠ざかる。私は焔を収めて彼女の背中を見た。篠さんが会釈をしたので、私もそれに倣った。エレベータの扉が閉まって、頭をあげる。

「そらちゃん、大丈夫か」
「大丈夫です。篠さん、助けてくれたんですよね。ありがとうございました」
「命令で、だけど……。苦しくないか。休まなくていいか」
「大丈夫ですよ。少し怖かったですけど、何とか」

 ぎこちなく笑って言うと篠さんは追及をやめた。ただなにか思い詰めたように閉じたエレベータの方を見やってつぶやく。

「急ぎすぎてる……感知なんて普通すぐ身に付くもんやないのに」
「今のって、何だったんですか」
「まあ……異能者はさ、自分が操れるもんに関してだけ、特別なアンテナを持ってたりするんだ。俺は言霊持ちだから、言葉にはたぶんちょっと敏感だし。あんたなら、火がどうすれば起こせるか、どこで起きてるか、が目を閉じててもわかるってことかなあ。……必要なのはわかるけどなぁ……」
「篠さん。体調、大丈夫ですか?」

 淡々と説明する彼の顔色がどうもよくない気がして、私は話を遮った。彼ははっと目をみはると取り繕うようにいつもの微笑みを戻す。きのう彼の本当の笑顔を見たから違いがよくわかる、どこかに諦念を含んだ、堅い笑みだ。

「そらちゃん、敏いよな。そう。異能は使うといろいろ代償がある。あんたも、そう……寒いと思ったことないか? 力を使った直後に」
「……、あります」

 答える声が少し濁った。倖貴の死の直後のことを思い出して。

「俺はちょっと代償が強めでな。まあ、寝れば治るよ。あんたは自分の心配しな。今日はあんたの訓練だ」
「わかりました」

 無理はしないでくださいと言いたかった。そんなことが言える立場ではなかった。だからただ目を閉じる。不可思議な粒子と数式の世界に身を浸す。私がちゃんと仕事をこなせれば、篠さんの負担も減るのかもしれないから。
 破滅の道しか見えないなりに、気を抜けば息苦しさばかりが心を満たすわりに、今はそれなりにやる気がある。

 ――篠さんに苦しんでほしくない。

 いつのまにかそう思ってしまっていた。ただ一晩かけて彼の声を、歌を聴いた、それだけのことで。


2022年4月10日

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