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見上げた空のパラドックス
12 ―side Ryoku―

 雨の日のプラットホームに立つと今でも幻視する。
 二十年も前になるらしい。俺がまだ何も知らない幼い少年だった頃。
 赤い、冗談のような光景を、一人見下ろしたことがある。
 初夏、梅雨の夕刻だった。およそ百名もの命が散った、凄惨な虐殺事件があった。
 俺はホームへ下る階段の踊り場からその光景を見た。遠く雨の音がしていた。立ちのぼる生ぬるい熱気と鉄のにおいに喉が痛んだ。逃亡に失敗した足をくじいて座り込んでいた。両手が、震えていた。俺が逃げるための囮に両親を突き飛ばしたからだった。もう何もかも、あきらめるしかないと思った。どうせ俺も殺されてしまうだろう、それでもう、いいや。

 その日に出逢った友人がいた。二人。どちらともそんなに仲が良くはなかったけれど。
 今でも幻視する。
 俺たちは違っていた。立場も、罪も、何を知って、誰といたかも。幸せだったかどうかも。全部が違ったけれど、確かにその時、三人でいたはずだ。
 14年前の夏、二人は死んだ。
 俺に、あとはよろしくとささやいて、死んだ。

 傍らに佇む少女は、ちょうどその日に生まれたらしい。

「やば、けっこう強くなってきましたよ、雨」

 秋晴れを切り裂いた雨は冷たい。少女は肩にかかる黒髪が湿気にばさつくのを片手で押さえながらぼやいた。俯いた視線の先で、線路の砂利を水の弾丸がいくつも打っている。
 美山碧。
 いつの間に居たんだっけ、こいつは。
 俺が黙っていると彼女はヘーゼルアイをぱちくりとして不思議そうに見上げてくる。

「鹿俣さん、夜まで弱まらなかったらうちまで送ってくれますか?」
「……来なければいいんじゃないか?」
「今帰るのも嫌ですよ。ずぶ濡れになるじゃないですか」

 電車がホームに滑り込む。何事もなく座席獲得闘争に負けて戸口に立つ。秋霖に曇る窓ガラスの傍ら、駅で購入したばかりの新聞を開く。湿気を吸ってくたくたになった紙面には今日も物騒で煩雑な情報があふれる。今日もあくびをかみ殺している。少女はポールにじっとつかまりながら俺のそんな仕草をまじまじと覗き込んでくる。

「よく読みますねえ、毎日。つまんなそうなのに」
「んな楽しそうに殺人報道読んでたら怖いだろ」
「確かに? でも今日は輪にかけてぼーっとしてますよ、鹿俣さん」
「雨だからな……」

 言いながらも活字に目を通し、紙面をめくる。雨だろうが眠かろうが世情の移ろいは待ってくれない。新聞に限らず情報は常に仕入れておきたかった。
 少女はまじめですねえと言って笑った。

「ていうか、私行って大丈夫でした? 今回」
「確認する前に電車に乗るんじゃない」
「しましたよ、さっき。でも聞こえてなかったみたいで」
「そうか。帰ったほうがいい」
「じゃあ行きます」

 即答。この少女は見ていて嫌気がさすほどいつでも決然とふるまう。
 最初はその頑固さに言葉を失ったものだった。彼女は深夜に一人で路地裏を歩いていた。この国の夜は、14年前のあの日から、とても子どもが一人で歩けるような治安ではなくなっている。子どもだとしてもそれなりに専門的な訓練を受けていればまだいいが、彼女は明らかに素人の動きで、足音を鳴らして、手ぶらで、何かを探すように彷徨い歩いていた。そうしてあまつさえ、俺がたまたま近道で通りかかったとき、呼び止めたのだ。
 彼女は目的があると言った。調べたいことがあるんです。家と命以外ならあげるから協力してください。
 黙ってすぐに殺すべきだったのかもしれない。俺は早く帰れと言い返して足早にその場を離れた。彼女はどこまでもついてきた。走ってもついてきた。撒くことは可能だが、撒いたところで彼女が帰るとは思えず、俺は立ち止まった。

「あのな。誰でも危ないってわかるだろう。早く帰るんだ」
「わかってます。最初にお会いしたのがあなたでよかった。人に見つかったらすぐに危ない目に遭うのかなって思っていました」
「正しい想定だよ。……お前、帰る家はあるか」
「あります」
「じゃあとにかく帰れ」
「嫌です。お願いします。エラーならあります。必要なら使っていただいて構いません。私弱いのですぐ死ぬかもしれないけど」
「聞かなかったことにするから、頼むから帰ってくれ」

 押し問答がしばらく続いた。彼女は本当に頑なだった。
 俺は観念して、仕事用のいくらでも替えのきく電話番号を彼女に教えた。これでいいだろう、もう帰れ。彼女は満面の笑みでありがとうと言って、宵闇に去っていった。尾行した。彼女は無事に自宅と思しきアパートに入っていった。電気がついたところまで確認して、もう二度と関わるまいと思って、俺はようやく踵を返した。番号を教えはしたが、連絡があったとて出る気なんてさらさらなかった。
 それがどうしてこうなっているのやら。
 彼女は俺に連絡がつかないとわかるとまた路地裏をうろついた。俺はまたそこにかち合って、いい加減にしろと彼女を諭した。その行為は自殺と同義だ。何の意味もない。悲しみなら生むかもしれない。なんにせよ不毛なだけだ。

「じゃあ、どうすればいいですか」
「おとなしく帰れ。何も見なかったことにするんだ。目的も忘れろ」
「それができたらこんなところにいません」
「暮らす家があるんだろう。幸せな奴は危ない目に遭わなくていいんだ」
「……そういうのが、嫌なんです」

 乾いた声だった。少女にしてはやけに落ち着いた口調で。
 ――俺はそのヘーゼルアイに青を見紛った。一瞬のことだった。指先が震えた。ふと唐突に、圧倒的に、似ていると思った。耳の奥で雨音の錯覚が起こった。
 あの日、なにもかも破壊して逝った友人が、姿を変えてそこにいるような気がした。

「どうして私だけが平穏に暮らしてもいいことになっているんですか。私も異能者です。虐げられるのが普通のはずです」

 あきらめたような、恨んだような、昏い目をして、少女は街灯の下に佇んでいた。清潔で整った服を着ていた。
 俺は何も言えなくなった。あるいは、彼女の訴えが身に覚えのあるものだったからかもしれない。
 たった一人、俺だけが守られていた。少年だった頃。徹底的に平穏を許されていた。他の誰もが暴虐の渦中で震えていたのに。お前だけはこっちにくるな、お前は良い奴だから、と。俺はそれを受け入れていた。信頼する隣人が口を揃えてそう言うのだから、甘んじて受け入れるのが礼節だろうと思ったから。
 その果てで、置き去られて、宵闇の路地裏に辿り着いて。
 今もナイフを握っているのに。

「殺されるなら、殺されてもいいです。それがきっと正しいんです」

 そんなことを言いきった彼女が、俺は許せなくなった。
 ごっちゃになっているのは自分でわかっている。ごっちゃになるほど似ているからどうしようもない。彼女は俺の友人ではない。彼は14年前に自ら砥いだ刃を呑んで死んだ。ただ、だから、これ以上、勝手に死なれてはたまらない。

「お前、名前は」
「美山碧です」
「美山? ……ああ……、わかった。ついてきてくれ」

 そう言ってしまった。
 打算もあった。敵陣の最も警戒している刺客と同じ苗字だった。
 それにしても、ぼやくだけは許せ。どうしてこんなことになったのやら。

「鹿俣さん、次ですよ、駅」
「……ああ。うん」
「今日はぼんやりしてますね」
「雨が得意じゃないんだ」

 俺の仕事は殺し屋だ。
 二十年前からずっと、今も変わらない。もう二度と、無理に守られたかりそめの平穏には戻らない。
 彼女はさいきん急に現れて、ただ何をするでもなく俺の仕事についてくるようになった。意味が解らないが、まあ、邪魔にはなっていないので、構わないことにしている。


2022年4月9日

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