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見上げた空のパラドックス
11 ―side Sora―

 桧さんの言った通り篠さんは昼過ぎに起きてきた。身なりを整えてからリビングに顔を出した彼は、朝食があると聞くと目を丸くしてありがとうと言った。やっぱり、見た目よりうまい、と言われた。

「ひのきちゃんひのきちゃん、買い出しいくぞ、付き合え」
「また急だな。断る」
「そらちゃんの生活用品そろえな。あと食材とー、ごみ袋とー」
「さんきゅーたすかる行ってこい。今日は俺は寝る日なんだ」
「俺より早く起きてたくせにー」

 そんなこんなで連れ出される。ぼんやりとテレビを眺めて潰した午前が嘘のように活動的でなんだか安心した。桧さんはソファの定位置に腰を沈めたままでひらひらと片手を振った。
 そろそろ道を覚えてきた灰色の街を行く。天気が悪くて、湿った寒風が裸の街路樹に吹き付けている。

「篠さん、昨日は疲れてたみたいですけど」
「ああ。寝不足だっただけ。もう平気だよ」
「よかったです」

 彼は傘のなかに立って正面を向いたままだ。横断歩道に立ち止まる。

「ひのきちゃんとは話せたか?」
「あんまり。でも、もう怒ってはいないみたいでした」
「そうかい」

 微笑みを含んだ柔い声が言う。道路を渡る。水滴が路面に光を散らしている。私はビニール傘の取っ手を悴んだ両手で握りしめて歩いた。服の裾が湿っていく。
 店に入ってしまえば食料と日用品の買い出しは滞りなかった。

「でもま、ずっとひのきちゃんとこにいられるわけでもない。俺もだけど」
「……そういえば、居候、なんでしたっけ」
「そ。もともと仕事しに通ってたんだけど。最近家族と喧嘩してなー。収まったら帰るつもり」

 スーパーの日用品売り場の片隅で、彼はずっと事も無げに話した。
 そうかと思う。彼にも家族がいるのか。殺し屋にも。当たり前のことだけれど。
 少しだけ想像した。今の私にも家族がいたら。……嫌だな、と思う。とても顔向けできない。どうせひどい目に遭うのだったら、失えるものや大切なものは、なければない方がきっと楽だ。
 単にすごいなと思った。彼は背負うものを持ちながら、罪と共に生きている。
 私は何気ないばかりの雑談を耳に神妙な心持ちで歩いた。二人で買ったものを二袋に分けて、軽いほうを持たせてもらって、帰路につく。
 帰宅すると桧さんは出掛けているようだった。篠さんがあいつ逃げたな、とつぶやく。非難する口調の割に表情は穏やかだ。

「ま、いいか。どうすっかな。そらちゃん暇だろ? なんかやりたいこととか聞きたいこととかある?」
「……ええと」
「たぶんさ、今日、『お前らこれから一緒に仕事するから、ちょっと仲良くなっとけ』って意味の休日やん。ひのきちゃんは逃げたけど」

 桧さんがいないならその方が助かりますとは、思ったところで言いにくかった。私はずっと生返事で話題を流している。
 篠さんは買ったものを手際よく冷蔵庫に詰めながら、ひのきちゃんもそのうち人見知りしなくなるから、と言った。私は自分用に買ってもらえた櫛やなんかを洗面所や私の寝床に持っていって、それらが済むととりあえずまたリビングに集まる。
 L字に置かれたソファ、自然と桧さんの定位置を避けて、私たちは隣り合って座った。

「そらちゃんさ、なんか、趣味とかなかったん。昔」

 何気ない口調のままで篠さんが切り出した。

「どうしてですか?」
「退屈そうだから」
「……たくさんありました。でも、今もそれが好きかは、正直よくわかりません」
「そんじゃあ確かめよう、今も好きか。どうせ暇なら」

 穏やかな声がすらすらとそんなことを言うから、やっぱりどうしてと言いたくなって、飲み込んだ。どうしてそんなに私のことを気にかけてくれるんですか。そんなこと言っても、仕事だから、で説明がついてしまうのはわかっていた。
 考える。私は、何が好きだったっけ。昔。

「私は、」

 最初に脳裏を過ったのは、母の顔と、母と二人でよく聴いた曲の旋律だった。

「……音楽が、好きでした。歌うのが」

 俯いて答えた。今の私にはこんな発言さえふさわしくないと思っていた。倖貴が死んでから、何が好きとか、何が欲しいとか、自分のための前向きな言葉は長らく口にしていなかったことに気がつく。だって思い浮かばない。
 かすかに笑ったような息遣いが聞こえて顔をあげた。篠さんはいつも通り、だけどいつもよりどこかうれしそうに微笑んでいる。私は目をしばたたく。

「聴きたい。歌って」
「……今ですか?」
「嫌か?」

 まっすぐな目をしていた。あるいは有無を言わせないような。
 私は思い返す。このところやけに昔のことばかり思い出して嫌になる。小学校、放課後の片隅で、友達と歌い笑い歩いた日々のこと。倖貴と一緒にカラオケに行くと、倖貴はほとんど歌わずドリンクバーにありつくばかりで、私にばかりもっと歌えと言ったこと。なんだかんだ楽しかった。今は、どうなのだろう。

「嫌では……でも別に、うまいわけじゃないですよ」
「全然いいよ。楽しいかもしれない」
「……わかりました」

 とりあえず、立ち上がった。几帳面に掃除の行き届いたリビングルームを見回して、視線をあげて、肩の力を抜いて、息を吸った。
 まだ覚えている。家に帰るといつもラジカセから流れていた旋律。私に気に入った曲があると母はいつも嬉々としてCDを買ってくれたものだった。ラジカセは明るい窓際に置かれていて、私は暇な休日には四角い日向に座って溢れる音を聴いた。
 詞を吐く。

かなしみが、いつか輝いていた
くらい海 かたすみの夢間に

ひとすじの 手繰りよせた糸の
向かう先は、どこまでいけるだろう

 恥ずかしいので篠さんの方は見なかった。
 穏やかな曲が好きだった。一粒ずつ音や言葉をたしかめていくようなしっとりした音楽が好きだった。そういえば友達によく言われたな。青空はいつも騒がしいけど、歌っている間は静かだよねって。笑い話だ。そのすべてが遠い。

うたかたを仰ぐたびゆらめく
水流の冷たさが身に染み
目をとじる いのちを刻むため

 息を吐ききって、照れ隠しに苦笑を交えて、座り直した。今も歌が楽しいかと問われれば微妙、でもやっぱり歌うことは好きだと思った。音が、言葉が、空気を震わすたびにきらめいて見える気がした。

「そらちゃん」
「はい」
「歌ってほしい曲があるんやけど」
「え?」
「ちょっと来て」

 二階に上がって篠さんの部屋、彼は私を入り口で待たせ、あるものを取ってきた。手のひらサイズの小さな機械。イヤホンが繋がっていて音楽プレイヤーだとわかった。

「これ貸す。好きに使って。もし気に入る曲が無かったら返してくれ」
「……ありがとうございます」

 首をかしげつつ私が機械を受け取ると、彼は見たことのない顔で笑った。いつも見せるどこか諦念を含んだ形式的な笑みではない。これが彼の本当にうれしいときの顔なんだ、と、理由はわからないけれど、ただ思った。

「大切に聴きますね」
「おー」

 私はその日、この世界に降り立ってから初めて、感情的な涙を流した。
 旋律になら心を預けても許されるような、そんなごまかしを沈黙に振りかざして、自分の寝床にうずくまって声を殺して、私は泣いた。泣かされたと言ってもたぶんいいのだろう。許せないと思った。どうして。私は。傷ついたと声に出して言えるほどいい人間ではないのに。思ってしまうじゃないか。私は確かに傷ついているんだって。どうか気づかせないで。どうして、私に歌えなんて。
 耳慣れた声だった。確かに篠さんの、やわらかな声のまま。小さな機械からか細いイヤホンの銅線を伝って、流れ出したのは彼の歌で。ちゃっかり何曲もあって、私はすべてを一晩かけて聴いた。
 サウンズレストエンターテイメントが表向きは音楽系の芸能プロダクションだということに、後になってから思い至った。
 彼は音楽家だった。


2022年4月9日

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