見上げた空のパラドックス
10 ―side Sora―
息が苦しい。
息が苦しい。ふらふらするほど深刻ではないけど、なんとなく喉の奥がずっとつかえたみたいで、微かに、確かに苦しいのだ。
桧さんの家の物置部屋でまた夜を明かした。眠るという感覚を思い出すのには少し苦労した。部屋を暗くして、布団に身を沈めて。結局はうまく眠ることができなかった。
差し込む朝陽から目を背け、色を認識してしまう前に立ち上がる。どんなことがあっても、眠らなくても食べなくても、どうしても身体は健康でふらつきもしない。
早朝、起きだしてきたことに理由なんて無かった。眠れなかったから。私は暇なのが嫌いなタイプだから。なんとなく。それだけ。
一階に降り、洗面所で身なりを整えて、ぼんやりとソファの片隅に座った。
(ひまだなあ)
ああ、暇なときって、私、昔はどうしていたかな。あの星が割れんばかりの地震で滅んだ故郷を思ってみるけど、倖貴を殺して以降のことはうまく思い出せない。できごとの大枠は辿れるのだけど、そのとき自分が何を感じて何を考えていたのか、靄がかかったみたいに実感がなかった。
倖貴を殺すよりも前……は、趣味がたくさんあったなあと思う。
体を動かすことはだいたいぜんぶが好きだ。どこへ行くにも走り回って、かけっこはクラスで一番早かった。それから、お母さんの見ていたドラマをよく隣に座って見ていた。話の内容は小学生の私にはよくわからなかったけど、主題歌や挿入歌なんかの音楽を好きになることが多くて、よくカラオケに連れて行ってもらった。あとは、かわいいものが好きだった。毎朝その日に着る服を考えるのが楽しかったし、自室にはぬいぐるみがいくつもあった。勉強は得意でもないけど、学校には一緒に騒ぐ友達がたくさんいて、おしゃべりするのも遊ぶのも楽しかった。
そんな、幸せな、子どもだった。
戻りたくはない。思い返せば思い返すほど、明るいだけの記憶は遠くなるみたいで、白々しいな、と感じるだけだ。
だって、私は。
私も、人殺しだ。
この世界へ、ここへやって来てしまったのは、ある種の運命なのかもしれなかった。
「……」
ほら、暇だと無駄な思考ばかり増えてよくない。
きょろきょろとあたりを見回す。何か暇をつぶせるものはないか。目についたのは新聞が詰められたラックとテレビくらいで、他にはめぼしいものがない。しかしそれらはどう見ても桧さんのものだから、勝手に使うのはちょっと気が引けた。桧さんとはゆうべ怒らせてしまったきり話せていないのだ。
そうだ、ゆうべのこと。
篠さんには経緯をだいたい話した。火を生み出したり物質をあやつる力があること、それによって友人を死なせたこと、焔や似た色のものへの恐怖症があること。故郷では巨大な地震があって、私はそれで死んだと思うのだけど、気がついたら一面真っ青の蒼穹に塗りつぶされた空間にいて、さらに気がついたら篠さんと初めて出会った路地裏にひとりでいたのだと。そんな突拍子もない話を聞かされた篠さんは、まるきり信じこそしないようだったが、「そうかあ」とひとつ頷いた。
「よくいるよ、幼い頃に異能の暴発で家族とか殺っちゃった奴」
「そう、なんですか」
「そう。ま、俺に言えることはない。とにかく、あんたにもこれから働いてもらうらしいから……、うれしくないけど、よろしくな。あんたの扱いは俺が管轄していいことにしてもらえた」
「……よろしくお願いします」
「あと、異能は使えと言われないときは使わないこと。これだけは頼む」
「はい」
「まあでも、万一暴発しても俺の責任やから、安心して」
「それは、安心できませんけど」
篠さんは私の今後の扱いについてを説明すると、俺も寝るわと言って自室に去った。そのまま夜が来て、朝が来て、今に至る。
私はきょうは休日をもらっている、らしい。どうせ身体は元気なのだからさっさとこき使ってくれたらいいのにと思う。
何も考えなくて済む方がいい。暇潰しの内容がどんなにつまらなくても、つらいことでも。取り戻せないものを想ってしまうよりはきっとましだ。
怒られたら謝ろう、と決めて机上に放置されていた昨日の朝刊を手に取った。三度、四度、あくびを噛み殺した。そのころになって、階段の方から気配がした。
「……、早いな」
顔を出したのは桧さんだった。短い焦げ茶色の髪が寝癖ですごいことになっていたので、直視しないようにした。
「おはようございます」
「ん」
彼はもっさりした動作でテレビをつけるとそのままUターンしてシャワールームに入った。私は退屈な新聞を机に置いてぼうとテレビを眺めることにする。平日の早朝だ、どこもニュースと天気予報を繰り返している。
少しして桧さんが戻って来て定位置に座った。意外と態度は普通だ。
「桧さん。ゆうべはすみませんでした」
「ああ、いい。わざわざあのとき言うことじゃなかった。わかんなくて普通だ。悪いな」
彼はやはりどこか優しいようでいて突き放すことを言う。
朝のニュースは気の重くなる事件報道ばかりしている。桧さんもひどく退屈そうにソファに身を沈めている。
「あの、」
「……ん」
「どうして、そんなに熱心にニュースを見るんですか。桧さん、つまらなそうに見えるのに」
彼は眠たげな表情を変えずに黙って腕を組んだ。アナウンサーの抑揚の少ない声がバックに流れている。
「……聞いてどうするんだ?」
「すみません、純粋に気になって……私、ニュースよりも桧さんのことが知りたいです」
あくび混じりに聞いていた桧さんは、私がそう言うとぴたりと眠たげな態度をおさめて、戸惑ったように眉値を寄せた。
急に失礼だったかな。謝るべきか。そう考え始めたあたりで、彼が返答する。
「確かに、つまんねーよ。別に、知らない奴らがどうしてるとか、興味ないし」
話に応じてくれたから安堵した。彼はゆっくりと言葉を選んでいるようだった。
私は待つ。
「……お前と同じ質問、したことあるんだ。すんげーニュース見てた奴に。そしたら、『世界を知らないと正しい考えができないから』、って言われた」
「……」
「それってどうなの? って。見れば見るほどわかんないし、信用できる情報もないし、あれって何だったんだろうって、思いながら……とりあえず見てるんだ。これでいいか、答え」
……ひねくれてるなあ。
率直な感想は胸の中でだけつぶやいておく。
「よかった。急に変なこと聞いちゃったのに、答えてもらえてうれしいです」
「……」
「まじめ、ですね。桧さん」
彼はどうやらニュースに熱心なのではないらしい。何か納得できなくて、納得する方法を考えるのに熱心なのだった。聞かれたことには答えようとしてくれたし、根がまじめなのだなと思う。
会話できそうかな。少しばかり安心した。どうも彼が神経質なだけで、私が嫌われているわけではないようだ。
「好きな番組とか、ないんですか?」
「ない」
「そっか」
「お前、楽しいの。こんな話聞いて」
「楽しいですよ。遠い知らない人のことより、目の前の人のことがわかる方が」
「……」
「話せるようになりたいですから。あなたの言う通り」
「昨日のことは気にしなくていいって」
「気にします。あなたは私のために怒ってくれた。それは、うれしいことですから」
桧さんは目線をどこでもない机上に置いて、癖付いた溜め息をついた。
「じゃあつまんねえ話聞いてないで、自分のこと言いなよ」
「……私のこと?」
「眠れないのか」
私は彼の顔を見返した。私は少し驚く。なかなか目は合わないけど、思ったよりも気にかけてくれているみたいだった。篠さんが彼を怖い奴じゃないと言った意味がわかってくる。
天気予報が流れている。前線は東京付近にはかかっていない。無味のバックミュージックは続く。
「……眠る機能は、これでもそなわってるんですけどね」
そう返して誤魔化すように笑ってみせると、彼は嫌そうに眉をひそめた。
「ひとらしくしていれば眠れるんだと思います。昨晩は、ちょっとまだ慣れなくて」
「……、この二週間寝てないってことか?」
「ええ」
――たしかめた不死。
欠落は受け止めているつもりだ。
だってどうしようもない。心臓が止まっても首が離れてもこの身体は不変だ。眠らなくても食べなくても平気だ。336時間、認識をみっちり仕込まれている。受け止めるか、考えないようにするか、他にどうしろと言うのだろう。嘆いたところで死ねるようにはならない。
しかし桧さんはどうも納得いかないようで、何かが嫌そうにしたままテレビに視線を戻した。
「今日は休めよ」
「……ありがとうございます」
休めるのかな。
わからないなりに、気遣いには微笑んで返すしかない。
「お前のはだいぶ特殊だからどうだか知らないが、エラーの性質は基本的に思い込みに左右される」
「……ええと?」
「今日は寝るぞ、って、思っとけ」
簡潔な助言だった。
「わかりました……」
それで会話は途切れた。陰鬱で淡白で鳴りやまないニュースを右から左へ聞き流して、しばらくして桧さんが思い付いたように「篠はたぶん昼過ぎに起きてくるから」とだけ言った。
午前中はずっと暇、かあ。思わず天井を仰ぐ。壁掛け時計が朝を進行している。
「桧さん、何か食べないんですか」
「あー……忘れてた。メシいつも篠任せだから……。腹減ったか?」
「減ってはいないですけど。食材があれば、何か作りましょうか?」
暇なので、と付け足すと桧さんは呆れたような顔をしたが、それならと家主なりにキッチンの案内をしてくれた。桧さんは料理をしなくて、食事は買うか篠さんが作るかの二択だという。だから桧さんもキッチン用品の置き場所を知りえないなか、どうにか引き出しを開けたり閉めたりしてみて、私もキッチンを使わせてもらえることになった。本当に退屈していたのでありがたかった。
火は怖くて使えないので、炊飯器と電子レンジで済ませられる軽い朝食を、いちおう三人分作ってみる。冷蔵庫にあった食材は篠さんが出張していたということで少なかったが、軽食が作れないほどでもなかった。
そうしていると倖貴のことを思い出す。彼も料理ができなくて、私がたびたび食事を作りに出向いたものだった。今となってはあまり思い出したくないのだけど、でも、痛烈に思い出す。
――だって似ている。桧さんの、どこか力の抜けた振る舞い、何かを思い詰めた目、重くも軽くも癖のように溜め息をつくところ、隠せていない優しさ。
「できました」
「助かる」
根菜と肉を細かくして米と和えた何かを適当に盛り付けて持っていった。彼は一口かじって、「見た目よりうまい」と言った。私の料理は昔からそういう感じだ。
「お前さ」
「はい」
「なんか……昨日よりちょっと、元気だよな。篠となんか話した?」
「……、」
う、わ。
ふと、初めて、目があったから動揺してすぐに逸らした。まともに視線を受けてみると想像以上に鼓動が跳ねた。
走馬灯のように脳裏を印象が駆ける。幸福だった時代の。
これはいけない。無心にご飯をかき込む。
「……あまり、大したことは」
「そう」
篠さんには倖貴のことを話した。桧さんとよく似ている、と。恋のことは隠して。
だめかもしれない。せっかくなら歩み寄れたらいいなと思ったけれど、彼は徹底して遠めの距離感でいてくれるけど、でもやっぱりだめかもしれない。心臓が治らない古傷を引きつらせる。緩やかに、ぼろぼろと、私の守るべき何かの均衡が崩れそうになる。
それからずっと桧さんとは言葉も視線も交わさなかった。
かすかな息苦しさだけをずっと感じている。
2022年3月24日 4月28日
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