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見上げた空のパラドックス
9 ―sode Shino―

 上野駅の白い喧騒をふらふらと歩いた。肩にかかるギターケースの重みがいつにも増して気につく。たぶん俺は、いや間違いなく、疲れている。
 二週間の出張を終えたところだった。山間の町であの小さな隔離病棟に通勤する看護師に目星をつけて声をかけて、そのあとのことはあまり思い出したくないが、まあ何というか、胸糞悪い仕事だったなあと思う。今回も。前回も、前々回も。期限の短さもあって、普段よりはるかに手荒にするしかなかった。ああやめよういろいろ考えるのは。とりあえず仕事はできたのだから、もういい。目についた売店で焼き立ての菓子を買って、胃に放り込み、また電車に乗った。さっさと本社に出向いて報告を済ませよう、今はそれだけ考える。桧から碧はとりあえず元気そうだったと連絡を受け取っているし、もう今日や明日は、俺のすべきことはそんなに多くないはずだ。
 ところがそうもいかなかったから、どうも災難が続くなあと思う。本社に顔を出す前に駅で桧と落ち合ったのだが、開口一番「お疲れ」、そして「まだ疲れてもらうぞ」と、彼は心底不本意そうに顔をしかめて言った。地下にお姫様を迎えに行けってさ。なるほどな。俺はとりあえず本社の受付にギターケースを預けた。

「ったく、母さんは……」

 エレベータの下層行きボタンを押した桧が溜息まじりにぼやいた。俺に言えることはないので黙っておく。

「実力があるからって部下を振り回していいと思ってるんだからさ。お前も嫌なら言えよ、ちゃんと」
「……」
「篠……大丈夫か? さすがに顔色悪いぞ」
「ここ数日あんまし寝る暇なくて」
「明日はなにがなんでも休めよ」
「さんきゅ」

 地下階への扉が開く。最下層は壁が整備されていなくて、コンクリートがむき出しになった物々しい空間だ。なぜかというと、ここは異能の演習場だから。壁を整備したところで頻繁に壊れるので予算の無駄というわけだ。
 簡易的に灯されるフットライトに従って歩く。太い柱が等間隔に並び、柱に貼られた張り紙が区画を示している。フロアの大半は演習場だが、もっと奥へ行けば牢屋がある。鉄条網に囲まれた、冗談みたいな、本当の牢屋だ。
 俺は細く息を吸って吐いた。努めて自分の出せるいちばんやわらかい声を出す。

「そらちゃん」

 彼女は牢の壁際にうずくまっていた。拘束は外され、服も軽く整えられているが、目を閉じたきり動こうとしない。

「そらちゃん、わかるか。俺、篠だけど、覚えてるかな。終わったよ、迎えに来た」

 俺のいない二週間の間、牢屋に繋がれた彼女が具体的にどんな目に遭っていたのか、想像がつくだけに彼女の頑なな無反応は正しいと思えた。とはいえ仕事もあるから戻ってきてもらわなくてはいけない。少しためらってから、細い肩をゆすってみるが、やっぱり反応がない。しっかり座っているから意識がないわけではないと思うのだが。

「ひのきちゃん、この子、力で起こしても?」
「……そのためにお前が呼ばれたんだろ」
「あっち行ってて」
「へいへい」

 桧は鉄条網の手前で背を向けたまま答え、そそくさと歩き去る。彼はこういうものを見るのがあまり得意ではない。
 俺は彼の足音が聞こえなくなったことを確認してから、うずくまる少女にみたび振り返る。
 力の使用に予備動作はいらなかった。ただ息を吸って口を開いて、言葉を紡ぐだけで。

「”おはよう”」

 彼女がぴくりと肩を震わせた。ちゃんと聞こえたようで安堵する。
 重たげにその瞼が持ち上がる。こんな暗い場所には不釣り合いな澄んだ色の目が、ゆっくりと焦点を結んで、俺を見上げた。

「よかった。そらちゃん。帰ろう。俺のことわかるかな」
「……し、のさん」
「おう。二週間ぶり」
「篠さん。なんか……顔色、悪いみたいですけど」
「あー、自分の心配しな? 歩けるか?」
「平気ですよ。どうせ傷がつかないんですから」

 苦笑ひとつ。彼女は自力で立って、俺よりもしっかりした足取りで歩く。平静げなその目にどうにも以前は見えなかった暗さがあるように思えて、俺はあきらめに微笑む。なるほど、出張で遠方に飛ばされてでもいなければ、俺はどうしても彼女を助けようとしてしまったかもしれない。つくづく社長は狡猾でデキる人だった。

「ぜんぜん、死ねなかった」

 エレベータへ向かう道のりのさなか、彼女がぽつりとこぼした。その一言が二週間のすべてを物語る。俺は少なからず怒りを覚えた。理屈はわかるよ、彼女の不死がよくわからないから『調べた』のだという名目は。しかしあまりにもひどい気がする。ここで働く誰だって不鮮明な能力を持ってやってくるが、ここまで手荒に調査を受けることはそうそうない。一体どうして彼女だけ。こんな疑念を持ったとて、社長に逆らえるわけでもないが。
 エレベータ前、薄暗いフットライトの傍らで待っていた桧が片手をあげた。

「お疲れ、高瀬」
「桧さん、でしたっけ。お久しぶりです」
「……」

 桧はそれきり黙った。俺もあまりいい気分ではなかった。

(もっと泣きわめいてもいいのに)

 やっぱり、どうしても、この少女の振る舞いが、息遣いや視線が、気丈で淡白でどこか危ういところが、碧と重なる。
 三人、黙りきりで桧の家へ帰る。背の低い四角いビル、エントランスの先で厳重な扉を抜けて、それぞれ自室に荷物を置いて、モノトーンのリビングに集まる。
 少女はL字に置かれたソファの片隅でおとなしく床を眺めていた。桧がその斜向かいの定位置に座っているので、必然的に俺は少女の隣に座ることになる。

「そらちゃん」
「はい?」

 呼びかけると彼女は素直に応じて顔をあげる。
 その平静さが俺たちは、嫌だ。たぶん桧も同じことを考えている。

「つらくないか?」

 端的に問うが、彼女の鮮明な花色の目は揺れもしない。

「大丈夫です」
「いや、そんなわけ」
「大丈夫ですよ。体は元気ですし、かわいい服はちゃんと取っておいてもらえました。何もなかった、それでいいです」
「そらちゃん」
「私は、死ねない。それがわかったってだけで。他のことは何もありません。苦しくもうれしくもない、ですよ」

 笑いも泣きもせず、乾いた声で、彼女が言った。
 舌打ちが聞こえる。桧のものだった。彼は駅の売店で買ってきた今日の朝刊をテーブルに放って立ち上がる。明らかに怒った素振りで。

「高瀬」
「……すみません。なにか失礼をしましたか?」
「ああ、したね。お前さ、しばらくうちで暮らしてもらうんだから、もうちょっと俺たちと話ができるようになれよ。話って、わかるか。嫌な時は嫌だって、疲れたときは疲れたって言うことだからな」
「……、」
「いいか? 俺たちはお前に危害を加えてないんだからさ。受け流さなくていいし、堪え凌がなくていいだろ。俺たちは確かに悪党だが、仲間からそんな風に無駄にガードされんのは、心外だ」

 気分悪い、寝る、と続けて桧がリビングを出た。少女は彼の去った後を見つめたままでいた。何を思っているのかはわからない。俺はなんだか穏やかな気がして自然と微笑んでいる。桧は不機嫌でとっつきにくいが、良い奴だ。
 しばらく沈黙が流れた。整頓されたモノトーンのリビングは温度が低い。

「……篠さん、変な話をしてもいいですか」

 時計の針の音が聞こえ始めてからどのくらい経ったころだろうか、彼女が口を割った。目の色と同じ、透き通った声は、ほんのわずかに揺れている。

「いいよ」
「私、記憶が戻ったんですけど……。桧さん、昔の知り合いにすごく似ている気がしました。ずっと何か悩んでそうなところとか、人見知りなところとか、やさしいところとか。こんなにそっくりな人いるんだ、って」
「奇遇だな、あんたも俺らの知り合いに似てるよ。すげえ似てる」
「奇遇、ですね」
「なああんた、どこから来たんだ?」

 彼女は泣くのに失敗したような顔で笑った。端的に表すなら、絶望だ。それが、14日にもわたる凄惨な拷問を経た彼女の、ようやく見せた感情だった。

「――もう滅んだ、別の世界から」


2022年3月23日

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