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見上げた空のパラドックス
8 ―side Sora―

 通学路の陽だまりを駆けている。幼く快活だった私はなおも一段と浮かれていた。誕生日だったからだ。
 冬休みの最終日だった。私は小学五年生、倖貴は高専への入学が決まってのんびりとしていた頃合いだ。確か、そのころにはもう、私は倖貴のことがかなり自覚的に好きだったと思う。夏くらいの彼は面接練習だか小論文練習だかで放課後の中学校に居残ることが多くて、そのままなんとなくあまり話すことがなくなっていた。それが寂しかったことが、もしかしたら恋を自覚する発端だったのかもしれない。今となっては朧気だけれど。
 とにかくその日だ。私は通学路を途中で左に折れて少し行ったところにある公園で遊ぼうと出かけていた。晩には家族がケーキとプレゼントを用意して待っていてくれるので、それまで私は外で時間をつぶす必要があったのだ。
 学校の友達に電話をして公園に集まり、みなで鬼ごっこやらなにやらして無心に遊んだ。行きつけの公園には大きな迷路じみたジャングルジムがあって、迷路の構造を明かしてみたり登って渡ってみたり、いつまでだって遊んでいられたのを覚えている。話の流れで何となく自分が誕生日であることを明かせば、友人たちは不揃いな合唱で私を祝ってくれた。
 きっとその日は私の人生でいちばん幸せな日だった。友人と遊べるだけだって当たり前に楽しくて、凍えた息が白くなることすら面白がって笑っていられた。家族は私を祝うために早く帰ってきてくれて、祝いの席にはケーキもろうそくも揃っていて。
 そして、なにより、公園からの帰路に倖貴が立っていた。

「おかえり、青空」

 私は目を丸くして夕刻、彼の顔を見上げた。まだ覚えている、何の変哲もない、どこにでもいそうな黒髪の少年の顔だ。久しく見る顔だった。倖貴は受験が終わって以降、弛むというよりも燃え尽きるようにおとなしくなって、学校がある以外は部屋にこもりがちになっていたから。

「倖貴! どうしたの? ただいま!」
「ごめん。最近あんま遊べてなくて」
「ちょっと痩せた?」
「あー。かも」

 流れるまま二人、並んで歩いた。ただそれだけが痛むほどに鼓動を震わせたから、不自然なまでに湧き上がるうれしさを隠すのに必死でいた。
 彼は何を話すでもなく私の家の前まで一緒に歩いてくれた。大した距離でもない、通い慣れた舗道だ。道の脇には住宅と小さな畑とが身を寄せ合うようにして続いている。

「青空」
「うん」
「誕生日おめでとう」

 正月にさえ外へ出てこなかった彼が、その日ばかりはしっかりコートを着て立って、私に手のひらサイズの小包を渡した。きっとそのために出てきてくれたのだと思った。私の11歳の誕生日プレゼント。しばらく会えなかった倖貴からの。なんとなく一緒に育ってきたからいつも雑なやりとりばかりしている私たちの間では、たぶん初めての。プレゼント。
 とっさに呼吸を整えなくてはいけなかった。気を抜いたらうれしくて苦しくてどうにかなってしまいそうだった。

「あ、開けていい……!?」
「だめ」
「え!? なんで!?」
「ちょっと貸して。目閉じて」

 言われたとおりにすると寒風の感触の向こうにがさがさと紙包装のこすれる音が聞こえて、彼の手がそっと私の長かった髪に触れた。

「おっけい」
「み、見えないよっ?」
「触って確認すれば」

 運動用に頭の後ろで髪を束ねていた味気ない黒ゴムの上、つるりとした感触があった。

「……リボンだ!」
「そう」
「私も見たいよ」
「帰ったら鏡みな。じゃあ俺、帰るから、またな」
「うん。またね! ありがと倖貴!」

 せかせかした足取りで去っていく幼馴染に大きく手を振って、玄関へ駆け込んだ。私の姿を見た母は満面の笑みでお帰りなさいと言った。すぐ洗面所の鏡をのぞくと、光沢のある青のリボンで髪を結われた自分の姿が見えた。
 青、かあ……。と、たぶん口に出したと思う。私は青色がそんなに好きじゃなかった。自分の目の色だ。もっと普通の、茶色い目の方がなんとなく暖かくてかわいいと思っていたから。
 でも、だけど倖貴がくれたものだ。
 そう思うとこの色ごと愛してしまう気がした。

「ねえ、どうして青にしたの?」

 別にもらったのが嫌だって意味じゃなくて、と変な言い訳をしながらあとになって問うと、彼はさっぱりと「俺の好きな色だから」と答えた。

 ノイズが混ざる。
 幸福な記憶を満たしていた陽だまりが、じわじわと暗く燃え落ちてゆく。

 恋に起因していた胸の痛みが、ふと気がつくと別の苦痛にすり替わっている。ああ、やってしまった。と思う。『ふと気がついて』しまった。
 暗い部屋だった。真っ暗で、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれていて、冷えた空気がそこかしこに溜まった。そこに私はいる。両手足と首を縛られ繋がれた状態で、永遠にやってこない死を待っている。
 まあそんな状況だから、自我は殺したもん勝ちだ。欠陥上等、逃避万歳、欠落を得ればハッピーエンド。何があってこうなって、こうなっているからこれから何があるのかとか、そんなこと考えないほうがいいに決まっている。どうせろくなことじゃないのは、この部屋の暗さひとつで十分わかるでしょう。
 目を閉じた。もう一度この意識をどこか遠くへと祈る。幸福な記憶でもいい、凄惨な罪の記憶を反芻することになってもいい、はたまたありもしない滑稽な妄想でもいい。ここに私の心がなければ、それで解決だ。大丈夫、逃げてさえしまえばもう大丈夫だから。
 生理的な涙がにじんで落ちた。コンクリートにわずかな温度を与える程度の役割をはたして蒸発する。
 そのときちょうど牢の扉が開いた。時間のようだ。泣きも喚きもしない、覚悟するもあきらめるもない、かといって抵抗なんて論外の静止した身体で、ただじっとこうべを垂れた。幸いなのは、そうだな、着る服は理子さんに支給してもらえたことだ。汚れても破れてもいい安物の。

「高瀬さーん、起きてますか」
「起きて、ます、よ」
「おけです。そんじゃいきます」

 頑なに目を閉じている。
 刃の感触には慣れたなあ。


2022年3月22日

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