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見上げた空のパラドックス
7 ―side Aoi―

 兄はすごい人だ。
 棄てられた異能者の私が違法組織に関わらず生きてこられたのは間違いなく兄のおかげだ。私の生まれたころ兄はたったの7歳で、大泣きする私を抱えあげて家を出て、道行く人に助けてくださいと言ってまわったという。私達は一度は施設に入った。私は乳児院に、兄は養護施設に。が、少なくとも私の物心つくころには、私達兄妹はふたりで東京へ移って暮らしていた。間になにがあったかを、兄は語ろうとしない。
 目を覚ましたのはインターホンが鳴ったからだった。別に荷物が届く宛もないから、何かの営業か、と思って無視をして目を閉じた。インターホンはもう一度鳴った。……三回、四回。
 さすがにしつこくて身体を起こす。布団を這い出て受話器を取って、はい、と応じる。

『よう』

 一言だけ聞こえて、何か考える前に受話器を置いていた。寝起きの倦怠感が急速に冷める。どうしよう、と思う。一つ息を整える。受話器を持ち直す。

「ちよ、っとまってて!」

 神速で布団を畳み、髪を整え、……ケータイの通信履歴を消して、玄関に出た。
 今日はたまたま家にいてよかった。
 アパート、ワンルーム。私と兄の家だ。玄関の内側には、兄のファーストアルバムのジャケットが飾られている。仄暗くてアーティスティックな油彩の絵。

「ごめんなさい辰巳さん、待たせたよね……」
「寝てたか?」
「寝てた」
「急に来て悪い。上がっていいか?」
「うん」

 辰巳さんは私たちが東京に越してすぐにできた兄の友人だ。というか、兄がすごく頑張って友人にした人。
 彼はミュージシャンである兄のマネージャーをしてくれている。あるいは、殺しの仕事を兄に振り分ける立場の上司、だ。今はちゃんと知っている。
 知ったからと言って怖いとか嫌だとか、そういうことは考えなかった。兄はすごい人だ。辰巳さんは、取っつくのは大変だけど仲良くなってみると素敵な人だ。今だってほら、コンビニの袋を片手に掲げて穏やかな顔をして。

「土産買ってきたんだけど食わない? 甘いやつ」
「あ、じゃあ、お茶いれるね」
「おー」

 会うのは久々なのだけど、変わらないゆるさで接してくれるから少しだけ安心する。少しだけだ。警戒を怠ってはいけなかった。
 安物のティーバッグをカップに投げ入れ、ゆっくりとお湯をそそぐ。赤茶色の揺れる水面ばかり見ている。後ろのテーブルに辰巳さんが着く気配がするが、振り返る勇気はない。
 兄にも、辰巳さんにも、いろんな意味で、合わせる顔がない。

「碧、ちゃんと食べてるか? 寝てるか?」
「うん、大丈夫」
「顔色は悪くないな」
「けっこう元気だよ。うちのこともしてる。きれいでしょ、この部屋も」

 頃合いを見てティーバッグを引き揚げる。湯気の立つカップを机に並べると穏やかな香りがワンルームを満たした。

「篠が出張で今いないんだ。それがなんかすごい急で。ちょっと変だなって言うか。で、心配になってさ。碧が。あんまいきなり話しに行くのもあれだとは、まあ思ったんだけど」
「……」
「元気ならいいんだ。顔が見れてうれしいよ」

 言えることがどうやっても思いつかない。合わせる顔が無いと思っていたのに、彼にこうやって壁を越えられてしまうと。流されるまま、抗えず、差し入れに頂いたクッキーを咀嚼する。ああ、でも、兄が急な出張というのは少し気になるかもしれない。気になるけど、聞き返すことが許されるのかとも思う。何から聞くのも、あなたは人殺しですよねと、不必要に非難してしまうような気がして、やっぱり口を閉ざす。沈黙が続く。

「碧」

 こつんと机とカップのぶつかる音がして、私は顔をあげる。辰巳さんがこちらを覗き込んでいる。表情は読めない。

「俺たちのこと、どう思った?」

 私は口の中に残っていた紅茶を嚥下した。彼の目を見る。夜を溶かしたような濃い紫の瞳だ。

「何も、変わらないよ。辰巳さんのことは大好きだし、お兄ちゃんも頑張ってる。二人とも、私を支えてくれてる。その方法が何でも、……変わらないよ」

 声が震えなくてよかったと思った。
 彼らは私のために人を殺しているんだ。私が彼らを罪人にさせているんだ。一番ひどいのは、恨むべきは、どう考えたって私だ。そう思うけど、それをそのまま言ってしまえば彼らをさらに困らせるだけに違いなかった。お前のせいじゃないと言われたいわけじゃない。だから私は、呑み込む。
 本当はきっと、見なかったふりをして、あるいは本当に少しも気にしないようにして、それまで通り兄と穏やかに暮らすのが、最も丸く収まる方法なのかもしれない。しかし私は欲深く考えてしまった。一体どうしたら、彼らが私のために人を殺さなくてもよくなるだろう。それが達成されて初めて、私は彼らに顔向けできるようになるのではないか。
 慣れた味の紅茶を飲みほした。
 彼は、少し、呆れと憐れみを含んだような息をついた。

「誰も言ってないぞ。碧のための仕事だとかは」
「そうだね。生きるための仕事だよね」
「他に生きる方法なんていくらでもあるさ。俺たちは選んでここにいる。碧がいなくても、きっとここにいるんだ。それでも、変わらないか?」
「……責めてほしいの?」
「事実を見てほしい。俺たちはちゃんと、ひどいんだ。良い奴じゃない。それでもいいか?」

 最後の一枚になったクッキーを私の方に差し出しながら彼が問うた。こんな話をしているのに、部屋は紅茶とクッキーの香りがして、彼の声音もいたって優しかった。
 よくなんかない。好きで人を殺す人なんているものか。いたとしてもそれは辰巳さんや兄ではない。だから、彼らが人を殺さなければいられないこの状況が、よくないのだ。
 私が変えなくてはいけない。

「いいよ。私は二人のこと好きだから」

 紫の目をまっすぐ見てそう返した。

「でも、」
「……でも?」
「辰巳さんの言うとおりだよ。やっぱり私まだ現実が見えていないんだと思う。ぐるぐるしてる。だから、まだ少し時間を頂戴。距離を取らせてほしいの」

 騙すようなことを言ってごめんね、と、内心では謝るばかりだ。
 気持ちの問題がないとは言わないけど、それだけの理由で彼らを遠ざけているわけではなかった。本当は、あまり会ってしまうと、悟られてしまうと困ることがあるから。

「わかった」

 誠実な彼は私の視線を真っ向から受け止めてそう答えてくれた。
 胸は痛んだ。でも仕方がない。私が責任をもって彼らの状況を変えなくてはならない。そのための隠し事だから、と自分に言い聞かせる。一つ息をするごとに罪悪感ばかりが募っていく。私は結局どんどん彼らに迷惑をかけていく。いつか終わるのだろうか。終わらせるしかない。
 私には、力があるのだ。
 異能を使うのはどうにも命にかかわるからできないけど、それ以外の使えるものは、すべて使う。

「……連絡はこまめにくれ」
「お兄ちゃんにも言われたよ」
「そりゃそうだ。でも俺にもくれ」
「……うん」

 彼はそう言い含めると手早くゴミと食器を片付けて去っていった。一人になってからふと、兄の出張の話を聞きそびれたことに気がついたが、追って連絡する気力がわくはずもなかった。


2022年3月21日

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