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見上げた空のパラドックス
6 ―side Shino―

 休憩室の扉を開ける。

「ひのきちゃん」
「ああ、篠。……これ」

 彼は自販機の脇のベンチでケータイに目を落としていた。いや、今閉じた。そうして傍らの鞄からクリアファイルを引っ張り出すと、一も二もなく俺に突きつけてくる。上から見えている書面はどうやら業務メールのコピーらしい。彼宛だが、目を通すと内容は俺のことだった。
 これは、さすがに。眉をひそめる。

「……えらい急やな」
「五分前に来たメールを四分前に押しつけられたんだぞ、説明もなしに。で? 二週間だ? 馬鹿だろ、なんだと思ってるんだよ、お前のこと」
「ま、できないこたない。俺はええよ、別に」
「……高瀬はどうした?」
「さあな。ひょっとしたらもう二度と顔も見ないかもしれん。理子さんが直々に迎えにきた。やばいね」
「ハァ。母さんがねえ……」

 ……仕事が入った。
 そんなのはいつものことだが、いつもの仕事はあらゆる段階が慎重だ。対象に近づき、仲良くなって、信頼してもらって、情報を引き出して、殺す。一つの案件につき最短でも二ヶ月はみるのが普通。
 が、今回は違う。ついさっきの立案で、期限は二週間だ。仕事内容も過程をすっ飛ばして結果だけが求められている。つまるところただの殺戮任務。何もかもが不自然だが、特に場所の遠さが気になった。すぐに支度して新幹線に乗って、泊まりがけでなければできない仕事だった。俺を今ここから遠ざけなければならない理由が、本社に、桧理子にあるということ……おそらくは碧か、あの少女か。

「……しばらくいなくなる。碧を頼む」
「おい、篠。なんで呑み込むんだよ。おかしいだろ、どう考えても。時期を考えろ。母さんが今の碧の状況を知らないわけないんだ」
「勘繰ってもしゃーないよ、仕事は仕事やし」
「……それにお前、高瀬のことはいいのか」
「いいのかって?」
「気に入ってるだろ」
「ははは、どうかな。……理子さんの温情に賭けるしかない」

 あの少女は特別なのだろう。
 俺にも。理子さんにも。
 理由や理屈を窺い知ることはできないが、直感で解っている。

「さあて、行ってくるかー。ひのきちゃん、俺がいなくてもちゃんとご飯食べなよ」
「本気なのか」
「うん」

 従うことが良いか悪いかはわからないが、逆らったらろくなことにならないのはわかっていた。桧は養子だからまだ融通が効くのだろうが、俺はそんなに上の立場ではない。
 通常の二倍は働くと約束している。碧がひとまず無事に生きている以上、約束を破る理由はない。
 帰りがけに自販機のボタンを押した。がこんと鳴って落ちてきた微糖の缶コーヒーを背後の友人に投げ渡し、俺は本社ビルを後にする。
 いちおう芸能事務所の体をとっている俺たちの組織では、桧は俺のマネージャーということになっているから、出張の時はついてきてもらうことの方が多いのだが。碧の状況を見て、心配な時はこうやって託して行く。そもそもマネージメントなんて任せたことはなかった。仕事の指示は彼づてにもらうが、あとはなるべく俺一人でやる。
 手を汚すのは俺だけでいい。

 桧の家に帰って手早く荷物をまとめた。着替えと、貴重品と、ナイフと、薬と。小さめの鞄にまとめて、あとはギターケースを背負ってすぐさま出発する。北へ向かう。指定されたのは辺鄙な山間の町で、昼前の今から行ってもたどり着く頃には日が暮れた。ぎしぎし言うコインロッカーに荷物を置いて、俺は夜の田舎町へ出る。
 殺せと言われたのはここからさらに山奥へ行ったところの病院の入院患者と職員だった。情報によれば、患者がたまたまエラーを発現し、そこから異能を隠していた他の患者が次々と名乗りをあげる事態となり、何がどう転がったのやら院内が団結してよからぬことを企てているらしい。
 皆殺しを言い渡されている。
 異能の不正な濫用を、特に組織的に団結したものは重点的に、事前に防ぐ。それが俺たちサウンズレスト社の裏の、というかメインの仕事だ。
 一晩かけて下見をおこなった。建物は四角い四階建て、窓は小さく高く、格子がついている。敷地は木を適当に取り除きましたと言わんばかりで、土のでこぼこした駐車スペースが隣接している以外はなにひとつ整備されていない。かろうじて建物の正面に院名を示す看板が立っている。錆びている。玄関はそこまでするかという厳重さで閉ざされている。なんというか全体的に嫌な感じだ。
 翌朝には町へ戻って宿を取った。俺の軽い荷物を目に宿の店主が眉をひそめたが、とりあえずは泊まれたのでよしとする。店主はロビーにタバコの煙を充満させながらしわがれた声で色々と喋った。

「お兄さん、いいですか、山の方へは行くもんじゃないですよ。山の方は変な人ばっかりいるもの」
「変な人、ですか?」
「ほら、山の方は病院もあるから。治らない人が死ぬまでいるところですよ。誰も近づきません。登山家のお客にはこんなこと絶対教えませんけどね!」
「へえ」

 豪快に笑った店主は途中から噎せて咳き込んでいた。いくらなんでも吸いすぎと思いながら俺は軽く会釈をして。

「すみません。部屋でギターを弾いてもいいですか」
「あーいいんじゃない。昼はお客も出払っちゃって私しかいませんから」
「どうも」
「物好きですねえ。こんなところへ弾きに来たんですか?」
「どこへ行っても弾いてるだけですよ」

 東京だろうが田舎だろうが俺の生活は変わらない。殺しと諜報の合間に音楽をする。安宿の部屋はちょうどいい狭さの木造で、弦をはじくと柔らかい響きがした。音を紡ぐ間だけは仕事のことも妹のことも考えない。空気が震える。
 日が落ち始めると窓外から東京では考えられない大音量で秋虫の声がして、はっと気がつく。腹が減っている。長いこと寝ていないので、眠気で頭痛がしている。とりあえず一晩はゆっくり休むことにした。
 任務の期限は二週間。予定を考えながら町へ出て適当に食事を買った。隔離された場所へ入り込むには、出入りしている誰かと仲良くなるのが最も手っ取り早い。寝て起きたら通勤する職員に何人か目処をつけよう。話しかけてしまえば後はいつも通りの仕事だ。うまく騙して、殺せばいい。
 浅く息をつき、眠った。


2022年3月9日

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