見上げた空のパラドックス 24 ―side Shun― 7月23日 汚れたままのベッドで目覚めた。誰もいない部屋に息をついて、身なりを整えて外に出る。まだ誰も起きていない早朝、灰色の廊下をそっと行く。高崎支部は中規模のオフィスビルだった。 夏場とはいえ朝の河原はまだ清涼で息がしやすい。 水の音に従って遊歩道を歩く。別に何か用事があるわけじゃない。汚れた部屋にいるのが嫌だっただけだ。 「よっ、ひさしぶり!」 ふらついていたら見たことのない顔をした少年が街角で手を振った。もうさすがに突っ込まないし、訝ることもない。僕はただ軽く会釈をして神学者に応える。 「早いね。どうしたの」 「調子悪いって聞いたからさー。死なれちゃやだし様子見に来たんだ」 いつも同年代の少年の器を借りている。神出鬼没の彼はたびたび僕の行き先に助言をして去っていく。そのすべてが華麗に的中するが、僕にとって良いことが起きるとも限らなかった。良くも悪くも“観察”されているわけだけど,はっきり妨害されているわけでもどうやらないから、特別に不快と思うほどのことでもまたなかった。 だからずっと放っておいている。手を借りている、と言っていいのかどうかはよくわからない。 「調子悪い……? 僕が?」 「おーよ」 「誰がそんなこと」 「さてな?」 彼はころころと笑ってはぐらかした。僕にさしたる情報を渡す素振りはなく、本当にただ様子を見に来たといった風に視線ばかり鋭くしていた。 調子、悪いだろうか。言われて初めて考える僕は自らの体に耳を澄ませる。当然のように健康で、痛みも違和感もいくら生まれど祈ればすぐに消える。 そんな僕を彼は揶揄うような見下すような憐れむような、善意はないだろう笑みを浮かべて眺めた。 「なー、おまえって神さまにそっくりだよ」 「は」 「いや、戯れ言だぜ? 気に入られただけあるなって。そうだよなー、お前ほどの疫病神でも,やっぱ人間なんだな」 相変わらず何を言っているのかが半分くらいしかわからない。真理を告げるようでいて口調は変わらず羽根より軽い。 「ずっとひとりでいられるわけじゃないってこったな。ひとりでやり遂げる力があっても」 意味深なことばかり言う。 僕は旧びた休憩所の木の感触を思い起こした。あっさりと屈辱でそれなりに感傷的で、圧倒的に退屈な、なんでもない逢瀬だった。 藤崎。 あまり冷静でない拒絶をしてしまったけど、あとから冷静に考えても拒んで正解だった。僕を労り守ろうとするまなざしが5分後には劣情に染まるほど、気の迷いが服を着て歩いているような奴なのだから。普段の行いがゴミクズなくせに都合よく優しさだけ通ると思うなよ。人間扱いする気があるなら軽んじるなという話だ。 そのあたり、目の前の少年,の中にいる彼にはブレというものが無い。観察は貫かれている。 「……ねえ……君は? ひとりでやっているの? その、神学って」 「えー、おれ? まーここまで遥々まわってんのはおれだけかもな? でもま、ひとりだと思ったことはないね」 肩をすくめる彼の笑みはその時だけわずかに純真なやわらかさを秘めた。 そうか。根本に支えのある人間は,強いな。 当たり前のことを当たり前に確認すると思わずため息がこぼれた。 「おいおいー、元気出せってー。死なない程度にはおれも支えてやるからさあ。他は知らねーけどな!」 「君が励ましてくれるってことは、裏を返せば、僕が悩んでるようだと“予定よりも”早死にするって意味だ」 「おっと。滑った口は忘れてくれよなー」 「……僕はこれからどうするんだ」 「立て直しに友たちでも作ればいいんじゃね?」 やっぱり半分くらいしかわからないことをあっけらかんとのたまって彼はじゃーな! と駆け去っていく。 早朝の河原に立ち尽くした。お見通しと顔に書いてある素振りで話す彼の言葉を、ひとつひとつ反芻する。調子悪い。やっぱ人間なんだな。友達でも作れば。そこまで言われるほど、今の僕は寂寥に取り憑かれているのだろうか。実感はない。持てるはずがない。友人なんて御伽噺より遠い概念だ。それがないからと言って何を感じることもできまい。 ないといずれ失敗するのだろうか? たぶんまだ道を違えたことはないはずだけれど。 一緒に,と言われたあのとき爆発的に生じた名前のない焦燥の正体を探している。 ぐだぐだ考えながら土手を降り,水の近くへ寄った。自然は物言わないから少し安心する。意味もなく水流を見つめる。無作為にも思える流れの渦をとりとめもなく目に留めると、戸惑いはあっけなく鎮まっていった。 「……なに、してるの?」 「……?」 草を踏む音がしてそちらに目を向ける。 話しかけられた,と認識したのはそれよりも後だった。何をしているか問われたことはわかるのに、声が聞こえない,そんな不思議な感覚があった。水流の音に紛れてしまうようなさらさらとした中音。 見知らぬ少年が立っていた。いいや、少年の形をしているが人間なのかどうかは疑問だ。僕の目ならば見えるはずの「命」が、そこには無いようだった。 ――幽霊? 今日は不思議な客人が多いな。 「……何もしてないよ。水を見るくらい暇だっただけ」 「そっか。あのさ、俺、貴方によく似た女の子を探してるんだ。青い目の……。何か知らないか」 「おんなのこ……? 悪いけど、知らない」 「そっかー……。ありがとう」 残念そうに言ってそれは土手を登っていった。なんだったんだろう、と思いながら見送るが、坂を登り切る前にそれはみたび視線をこちらに向ける。 「ごめん、暇ならもう一ついいか? この辺に寝泊まりできそうな場所ってないかな」 「……」 幽霊も寝泊まりするのか。と思った。 「残念だけど僕もここの人じゃなくて」 「え? そうなのか。見たところなんも持ってないみたいだけど……家出とか?」 僕は少し身を引く。口を閉ざす。目を逸らす。 軽々と踏み込まれるとちょっと困る。話を適当に切り上げて逃げよう。決意して顔を上げる。 「……ううん、ちょっと知り合いのとこに泊めてもらってる最中で。だから、ごめんね」 さよなら、と呟いてそれから離れるように川沿いに足を向ける。幽霊が追ってくることもなく、僕は軽い散歩を終えてみたび支部へ向かう。 2021年8月6日 ▲ ▼ [戻る] |