見上げた空のパラドックス
14 ―side Shun―
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 当たり前だ。
 当たり前だ。
 だって僕が悪いのだ。
 正当な理由があるならどんな悪事であれ一概に責めることはできない。そして彼らは彼らの行為を正当であると説く。だから納得をする。そっかと笑って、震えを隠して、溢れそうになる悲鳴を呑み、嵐が過ぎるのをじっと待つ。強張った四肢がたまらなく寒いような気がして、昔は涙の出ていた目はもうただ凍りついたように前だけを見る。何も聞こえない。頭に入らない。息をする喉だけ熱くて必死だった。必死だったから頭上で黒く開いた口から滝のように吐き出される話なんてちゃんと聴くことができなくて、聴いているのかと問われても答えることができなくて、それがまた嵐を強くした。
 僕のせいなら僕が粛清を受けるのは当たり前だ。僕が抱かせた怒りなら僕が受け止めなくてはいけないのだ。そう思っていた。
 狭いワンルームに住んでいた。
 母は僕の髪をまいにち丁寧に整えては綺麗だと褒めそやした。うれしげに緩んだ頬を見て最初は僕も笑っていた。僕が笑うと母は違うそうじゃないと言って烈火のように怒った。あるいは泣くなんてしたら半日は嵐が過ぎない。かと言って何も反応せずとも機嫌が悪くなる。結局なにを求められていたのかはずっとわからないままだった。
 父はよく僕を殴った。なにかたくさんの言葉を投じられたような気はするのに何を言われていたのかほとんど覚えていない。覚えているのは、いちばん殴られたのは下腹部だったことと、ひとしきり放熱が終わると決まって「どうだ痛いか」と聞いてきたこと。痛いと答えると彼は満足げにしたが、なぜか母が怒った。痛くないと答えると父は舌打ちして暴行を続け、母は何も言わなかった。
 それが当たり前だった。
 痣は一つも残っていない。
 負った傷や痛みは、落ち着いて祈りさえすればすぐ消えたからだ。
 後になって思えば、痣の一つくらい残しておいた方が、就学時に助けてもらえたのかもしれない。が、助けてもらうことに価値があるかと言ったら別に無いので、やっぱり痛ければすぐ治す方が得策だ。
 転機はそれなりにあった。
 あるとき彼らには怒りなんて無いのだと気がついた。
 通い始めた小学校でクラスメイトに長い髪をからかわれ、喧嘩になったことがきっかけだった。僕は怒り出すと手のつけられない子どもで(今もそうだ)、からかってきた当人はもちろん、その周りまで手当たり次第に殴る。大人に取り押さえられると水を打ったように縮こまって謝罪をし頭を垂れて震えた。両親は学校に呼ばれるとどこまでも丁寧で誠実な対応をした。帰ればいつも通りだった。
 何度も繰り返して、ようやく確信したのだ。
 僕の拳を固めさせるこれが本当の怒りなのだとしたら。
 ――違う。
 ずっと耐えてきた嵐、受けてきた粛清と、怒りとは、明らかに違う感情だ。
 じゃあ僕が受け止めてきたものは何だ?
 それがずっとわからなかった。
 だから問うことにした。

「どうして怒っていないのに殴るの?」

 両親は呆気にとられて静まり返った。
 なにか、まずいことを言っただろうか。彼らの話なんて露ほども聴いたことのない僕にはわからなかった。うっかり当たり前を崩してしまったのではないかと怖くなって俯いた、その頭を、ふと母が抱きしめてこう言った。

「あなたを愛しているからよ」

 悪い子でも出来損ないでも愛しているから。怒れなくても不正には粛清が必要だから。

「そっか」

 僕にはわからなかった。彼らがうきうきと買い与えた上等なワンピースを同じ顔をして手酷く汚してしまう彼らのことがわからなかった。その日の嵐は普段と色も形も違って、意味のわからない言葉の滝は降ってこなくて、いやに優しい声音をした彼らは執拗に僕の全身に触れた。変わらず息は詰まるのにどこも痛まないから気味が悪い。
 傷がなければ僕にも癒すことはできなかった。
 後になって学校でも同じことが起きて、それを性行為と言うのだと知った。
 世界はどこにいても当たり前に暴力に満ちていた。
 神さまがいたらきっと僕のことが好きだろうなと思う。
 そうして少しあと、じわりじわりと蓄積したそれは不意に閾値を越えて、明白なきっかけなどなく、僕は突然に接触恐怖症を発症した。
 それで変わったことなんて別に一つもなかった。苦しくて怖くてたまらなくなったのがマイナス、すぐに気絶できるようになったのがプラスで、プラマイゼロだ。親は変わらず気まぐれに僕を殴って喚いて抱くし、学校では暴れるか暴れられるかを繰り返して、繰り返していくうちにそれらは埋もれて見えなくなって泥の底に息を潜め這いずる。
 生きることも死ぬことも殺すことも殺されることも考えたことがなかった。痛いか痛くないか。怖いか怖くないか。日々はただそれだけで回っていた。人を殴るときだけはそれらの問いから離れることができたが、すぐさま引き戻されるのがお決まりで、いつも焔は燻ったまま燃え切らない。
 だから、僕は、だから、それでも、あの雨の日のプラットホームで、焔の燃やし尽くされるさまを目前に見て、その美しさが、この力でも癒せない手遅れの生傷から滲む赤が、雨音に冷めていく熱が、笑っても涙しても喚き出さない母が、もう僕を殴れない父の手が、究極に暴力に満たされ飽和したその愛が、胸を焦がして仕方がなかった。屍は、痛みも恐怖もなく、静謐で安らかだった。
 そうか殺せば良いんだ。
 どこにいても暴力に満ちているこの世界で、それは焔を鎮める唯一だった。
 ……。
 ……。
 どうして?
 どうしてそんなことになった?
 僕はわかっていた。気がついていた。僕のせいだと。僕の周りにだけ暴力が満ちているのは僕のせいだと。この止まない嵐の目にいるのは僕なのだと。動機なんて怒りにしろ愛にしろ大差ない。みんな狂っていた。僕に出会うなり狂っていった。それは狂いなのだと間違いなく理解していた。藤崎だって人を殴れる奴じゃなかったのは明白だ。
 僕は。
 今でもあの狭いワンルームで二人の信徒に祀られたまま、神棚を降りることができずにいる。
 当たり前だ。だって僕が悪いのだ。
 僕が起こしたことの後始末は僕がしなくてはならない。
 祈る。傷だらけの世界の痛みに触れれば触れるほど深く祈った。
 これは僕に治せるのだろうか。
 どうかすべて安らかに。


2021年3月7日

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