見上げた空のパラドックス 5 ―side Ryoku― 6月21日 「っ……?」 とつぜん切られた緊張に抗えず脱力する。うるさかった耳鳴りがふっとほどけ、感じなかった痛みが殴られた腹部にようやくあらわれた。ターゲットもぴくりとして静かになる。たった一瞬で、すべてが変わった。 理子。 別室から姿を見せた彼女は、叩き鳴らした両手を何事もなく下ろした。その背に小さな鞄がある。準備ができているのだ。 「すごいね鹿俣くん。あれ受けてすぐ動けるなんて」 「……り、こ」 「内蔵にダメージは行ってない。数日で痛みはとれるわ」 「理子、もう人がくるから」 「うん、行こうか」 「この人は」 「どのみち助からないよ、置いてく」 冷淡に告げたものだから驚くが、追及している暇はなかった。差し出された手を取り、ふたり玄関を出る。夜の隙間を縫うみたいに、さらさらと街の死角を駆けていく。 数日前もこうやって走った。不思議なほど誰にも声をかけられず視線も受けずに子ども二人が終電に乗って、郊外の四角い病院へ忍び込んだ。言葉はほとんど交わさなかった。状況を整理するのに精一杯だったからだ。 世界隊は、何もない俺に居場所と役割を与えてくれたのだと思っていた。実際、みんな本当にあたたかい人たちで。両親を突き落とし空っぽになった俺に、ひたすら親身に挨拶をして、笑顔をくれて、くだらない話をしてくれた。まっすぐに叱られたことはあっても理不尽に怒られたことなんてなかった。ただ彼らは正義を信じていた。正義には排除が含まれる。だから人を殺した。俺の両親を殺した。それならまだよかった。優しい彼らの正義の結果に俺がいたなら納得ができた。 けれども彼らは俺の両親を殺し損ねていて。それを、ずっと俺に隠していた。 正しくないだろ。それは。 隔離室の片隅、格子のついた扉の向こうでうずくまっていた母の姿が目に浮かぶ。 だからもうわからない。俺の居場所はどこなのか。 「作ればいいよ」 ひたすらうつむき考え詰めていると、ふいに理子が言った。 夜中、がら空きの電車の隅で、トンネル内の細く白い光がひとすじ俺たちを照らした。 「行く場所がないなら作ればいい」 理子が続けた。 「どこに向かってるんだ、今」 「私の家」 「家?」 「別居してたんだけど。父さんの病状がさいきん悪くなったから、お世話のためにしばらく戻ってたの。だから、私の家は別にある」 「そうだったんだ」 「しばらくいていいよ」 「……どうして?」 「そうねえ……恩、だから?」 「恩?」 「父さんを殺してくれたこと」 深夜を駆ける車内、ごく小さくて何気ない声で彼女が答えた。俺はその顔を覗き込むが表情はうつむいた前髪に隠れている。 明らかに脳に疾患のある父。ひとたび暴れたら壁を凹ますほど他害の強い症状で、けれど見放さず病院にも送らず鎖も繋がなかった娘。すぐ動けるなんてすごいねと言った。何があったかは想像に難くない。恨んでいたのかもしれない。 「俺は殺してないし、ターゲットの選定も俺の仕事じゃないけど」 「それでもあなたが。逃げるのに、私を選んでくれなかったら、私は今頃たぶん父さんを護ろうと一緒に逃げてたか、父さんと一緒に殺されてたでしょうね。それならまだ二つ目の方がましだよ。あなたが選んでくれたから。父さんが死んで、私は生きて、自由なの」 「そういうことか」 「うん。だから、ありがと。鹿俣くん」 目が上がる。薄い翡翠の色をした目は口調のやわらかさに反して鋭さがある。口にされた感謝は真に心から出た言葉なのだろうと、わかるからうつむく。俺はただ自分のために、身勝手に、曖昧に。けれどそれで誰かを救えたのなら、いいのだろうか、曖昧でも。 特別な力を持つ、彼女に頼ればきっとなんとかなる、そんな無責任な思い込みだけでここへ来たのに。本当は脅すつもりで。 「いいのかな」 そのまま口に出した。 「いいよ」と彼女が答える。 「いいのか」 「うん」 「じゃあ、どういたしまして。ありがとう、これからよろしく。あと、呼び方、朸でいい」 「言いにくくない? リョクくんって」 「え、あー、たしかに?」 「あは、冗談だよ。朸くん」 がらんどうの車内にからからと笑い声が響いた。そうしていると普通の女の子みたいだ、と思う。俺は普通の女の子なんかぜんぜん知らないから偏見だが。 数駅だけ揺られて初夏の街に降りる。連日の雨に風は湿っているがそのときは晴れていた。街灯に白く光るアスファルトをまたさらさらと抜けていって、辺鄙な住宅街の片隅、いかにも安そうなワンルームにたどり着く。ここだよ、と彼女がささやき、蛾を追い払って玄関を開く。軋んだ蝶番が寝静まった住宅街にはうるさかった。 かすかに埃のにおいがする。玄関はすぐ室内となっていて、六畳に板張りのキッチンスペースがひっついている。外から見るよりは広いし、家具も揃っていて、いかにも質素なと言う雰囲気ではなかった。 「えっと。お邪魔します」 「あ、水道はキッチンだけだから。使って。ちょっと待ってて。しばらくいなかったから掃除しないと寝らんないわね」 「手伝うことあるか?」 「とりあえず勝手覚えてくれたらいいよ。適当に漁ってて」 「わかった」 急な生活感に戸惑いながら、下ろす荷物もない俺はひとまず手を洗って、食器類やキッチン用品の位置なんかを確認する。物があれば俺も調理はいちおうできる。はずだ。この三年はほとんどやらなかったから勝手を忘れているかもしれないが、昔、普通に暮らしていた頃はよくやっていた。 理子が畳の掃き掃除をしながらとつとつと説明をした。まず、心配しないでと。父の死から、手続きのために身内の居所が探されるけれど、この家は簡単には見つからないからと。父と離縁した母と共に逃げ隠れるように住んだワンルームで、賃貸契約の際も転出届を出すにも家族の情報はかなりちょろまかしているらしい。だから情報から足跡をたどるのは難しいと。 では、居たらしい母はどこへ? 問うと、一年と待たず母は理子を置いて出ていき、ついぞ帰ってこなくなったと答えが返る。理子の生活費だけは毎月振り込まれており、生きているのはわかってるからいいんだ、と呆気なく笑うものだから反応に困る。 「母さん、会いたくないだけなのよ、私と。見捨てたってことじゃなくてね。だからお金をくれるし。たまに食べ物も送ってくれるわ」 「会いたくないって、どうして」 「心を見られてしまうから」 理子はおおまかに埃のとれた畳を乾拭きしながら淡々と答えた。 その態度は。本心なのか。何の発露なのか。考える。寂しくないのだろうか。 「寂しいよ」 「……、」 「でも、ただでさえ大変な思いをしている母さんをよけいに怖がらせてまで、一緒にいたいなんて、そんな我儘言えないじゃない」 「そうか。ごめん」 「朸くんはどうして私が怖くないの?」 「え」 見ていた棚を閉じ、彼女のほうをまじまじと見た。 「そうだな……理子は、見えてるからって、変にからかったり、誰かに言ったり、悪いことしないだろ。たぶん」 「まあ、そうね」 「だから。見たからってなんか起きる訳じゃないだろうから」 「見られること自体が嫌って、考えない?」 「え……見られて困ることは考えてないはずだし、見られて困ること考えてたら俺の責任だろ。ていうか、見たくて見てる訳じゃないなら、嫌がったら失礼だし……あ、今のも理子のお母さん悪く言うみたいで失礼だ。ごめんなさい、理子。とにかく。俺には嫌がる理由、無いから」 「……あはは! なんか面白いね、朸くん」 ぶつぶつだらだらと答えを考えていたら、堪えきれないというように理子が腹を抱えて笑いだした。とりあえず埃がつくから雑巾を置いた方がいいと思ったのでそう伝えるとさらに笑われた。完全にツボにはまっている。笑えるほどもたついて話してしまったらしい。 ずっと笑われていてもらちが明かないので、黙って棚を見る作業に戻る。一般的な生活必需品しか置かれていないが、足りないものも特にない、そのくらいの印象だ。 「あーあー、はは、もー、ごめんね笑っちゃって。いやあ、いいね。朸くん、思ったより好きだなあ」 「馬鹿にしてる?」 「してない。本当にありがとう、私と逃げてくれてさ」 「俺が勝手に宛にしたんだ、あんたの力を。断られたら脅して言うこときかせるつもりだった。今もポケットにナイフを持ってる。それでも?」 「知ってる。でもね、脅す必要もなく利害は一致してた。あなたも私も逃げたかったから逃げた。それにあなたは私を怖がらない貴重なひとなの。だからうれしいの。ぜーんぶ素敵にうまくいった。そうでしょう?」 一通り、ものの配置を頭にいれて棚を閉じた。ぱたん。乾いた音が湿った初夏の夜に響く。俺は刹那に訪れた静寂に振り向いて、雑巾の埃をごみ箱に落としている彼女をとらえる。 「理子」 迷って、まずナイフを傍らの床に置いた。それから歩み寄る。彼女も振り返る。ずっと毅然としていたその目がかすかに揺れた。 「なに、怒ってるの?」 「あんたは正しくない」 「え」 「お父さんのこと。恨んでたのが本当でも。守りたかったのも本当なんだろ」 彼女の手が止まった。 「ぜんぶがうまくいったわけじゃない。比較的、うまくいっただけだ。見捨てたものがあるってことは、わかってなきゃ、」 「朸くん」 遮られる。 鋭い翡翠が俺を射抜く。意志のある目だったから、思わず下を向いた。ああ俺、なんにもないくせに偉そうにしてしまった。 「……、ごめん。辛いのは理子なのに。俺。ありがとうって言わなきゃいけなかった。こんな物騒な奴を快く受け入れてくれて。でもこれも言わなきゃいけないって思ったから」 「いいよ。ちゃんとわかった。そうね。ちょっとこっち向いて」 彼女はごみ箱の縁に雑巾を引っ掻け、手や体についた埃を払った。 俺は言われた通り顔をあげて、思ったより距離が近くて驚いて、何か言おうとして、その口が塞がれた。温かい、息が頬にかかって、やっと状況を理解した身体が硬直する。待ってどういうこと。会ったばかりで利用し合って、失言ばかり重ねて謝って許されて、どこがどう繋がったらそうなる。考えようとして霧散する。背に手が回った。体格は彼女のほうが少し大きい。 身を委ねそうになって、あわてて顔をそらし退く。心臓が急に熱くて息がしづらい。 「……ちょっ、と、待って。何。意味わかんない」 「好きだなって思ったから」 「ほとんど初対面だぞ俺達。しかもかなり不穏な感じだったろ」 「うん。それなのに嫌がらないのね。うれしいな」 「…………」 「朸くん」 息のかかる距離で呼ばれるとそれだけで鼓動が覚束なくなる。 待ってほしい。とても。追い付かない。俺まだ11だぞ。思春期の最初のしの字くらいだぞ。急に年上の女性に迫られてまともな対応ができると思ってんのか。 「これからよろしくね」 「――っ、よろしくない……」 理子は俺が好きだった。ずっと。最初から。俺の心のかたちをその目にうつしたときから。そう、らしい。少し後に聞いた話だ。 ――その好意を利用した俺は、本当に、正しくなかったと、それだけは判っている。 2020年11月16日 ▲ ▼ [戻る] |