見上げた空のパラドックス
3 ―side Kai―
6月21日

 希望は奪い尽くしてから与えなさいと父が言った。
 汚れ役は私たちが引き受けるから、おまえはその逆を。すべて失った彼らに、やすらぎと居場所と役割を与えなさい。
 やり方は、わかるね?

「うん、とうさん」

 わかってるよ。俺はとうさんみたいに出来がよくないから、代わりを探すことにしたんだってね。
 わかってるよ。

 三年前、初めて逢った三つ年下の少年たちは、組織への引き入れもとい誘拐が済んでもいつまでもうつむいていた。
 真っ先に親を捨てて逃げた姿勢が評価され選抜された二名の『同級生』たち。なるべく幼くて人格の軌道修正のきく、かつできるだけふるまいが冷酷で、男であることが条件だった。俺の代わりに父を継ぐかもしれない、競争相手だ。

「大丈夫か……? 足挫いたの? 待ってろ、いま手当てするから」
「…………」

 片方は鹿俣朸といった。赤みがかった髪はよく跳ねて威勢がいい。あの虐殺現場では、両親を囮に線路へ突き落とし逃走して、階段で足をくじきうずくまっていた。俺はそこに声をかけて、茫然自失の彼の足の手当てをしてやって、それが最初だった。

「……だれ……?」
「俺? 藤崎海って言うんだけど」

 もう片方は青柳俊といった。背にかかる癖のない黒髪に表情を隠してよく怯える奴だった。刺殺された両親のすがたを前に、笑っていた。絶望に笑うしかなかったというよりか、安堵と静寂を含んだほほえみだった、一度は逃げたが、何を思ったかまた戻って死体を確認していた。俺はそこに声をかけた。
 なあ、行くところがないなら。うちに一緒に来ないか。
 二人とも、血に染まった両親の姿を眼に、俺の不出来な笑顔を前に、ちいさく頷いたのだ。とつぜん生活のすべを絶たれた幼い彼らに、正当な判断力などあるはずもないのだった。
 いいや、彼らはうちへ来て実際すこしは笑えるくらいに回復したのだから、正しかったと言っていいのかもしれないが。

 さて。

「よう鹿俣ー! 仕事だぞー」
「げ」
「しょーるーい。読もうな」

 初夏、昼下がり、簡素な茶封筒を小脇に抱え、部屋を訪ねると、寝起きの鹿俣がげんなりと顔を出した。頭ひとつぶん俺より小さな背に、相変わらずぼさぼさの赤毛はなかなか癖が直らないらしい。何ともなく見ていると、無言で扉が閉められたのでおいと呼び掛けて押し入る。
 嫌悪を示すのにまっすぐな拒絶を用いる。鹿俣は純朴な奴だ。

「朝からつれねーな。仕事だってば。起きろ起きろ」
「昼だよ。バッチリ起きてるよ。お前こそ遅くになんか騒いでなかったか」
「あ、もしかして起こした? それは悪いことしたなーごめん」
「また青柳んとこにいたのか?」
「青柳なら昨日はシャワー浴びてすぐ倒れたからベッドに運んで退散したよ」
「……」
「えっそれはなんのジト目?」
「青柳が無事だといいけど」
「誤解だー! 疲れて倒れた奴に追い打ちかけるような非道じゃねーから!」

 わあわあと言い合いながら勝手に彼の私室のデスクに書類を広げる。鹿俣はわかりやすくため息をついて備わった椅子をふたつ引いた。なんだかんだ優しいし仕事への切り替えが早い。
 引いてもらった椅子に腰掛け、広げた書類の文面に目を通す。そして口に出す。鹿俣は漢字があまり読めないから、俺がこれをやらないと業務内容が伝わらないのだ。
 うちは殺し屋だから、仕事の中身といったら殺しで、書類にはターゲットに関する基礎情報が記載される。名前や年齢から学歴や既往、出生まで、事前に諜報班の調べたあらゆることがまとめられた紙の束は決して薄くない。人ひとりの命の重さよりはよほど軽いだろうが、俺たち子どもが目を通すには多くて重い。

「……ヒノキ……?」

 ターゲットの苗字を、隣に座った鹿俣がふと復唱した。

「なんだ、このおっさん知り合いか?」
「全然。ただあまり聞かない名字だからさ」
「ふーん」

 鹿俣の歯切れは悪かった。が、まあ、仕事をこなしてくれるのならなんだっていい。

「藤崎」
「ん?」
「きょう、三回忌だって」
「……ああ。うん」

 分厚い書類の中身を小一時間もかけて読み終えたころ、ふと鹿俣が言った。
 6月21日。ちょうど三年。やっぱりお前も気にするのか。

「あんた、事件のことどう思ってる」

 鹿俣が冷えた目をして俺を見上げた。出逢った頃からずっと、たびたび、幼い容貌には似合わない表情をする。

「……どうした? そんなこと今まで聞かなかったろ」

 吸う息に質量がなくなった。
 なんだよ、俊も花なんて上げに行ってしまうし、お前まで。

「……やっぱいい」

 声を出せなくなった俺をしばらく睨んで、鹿俣がふっと力の抜けたようにつぶやいた。

「え、おい、ちゃんと言ってくれ」
「藤崎、ほんと向いてねーわ、殺し屋」
「は」
「正しかったって、言えないんだな」
「……」
「って思っただけ」

 俺よりふたまわりも小さな手が書類をまとめる。この会はもうお開きと言うことらしい。たしかに、窓外の光は褪せて、夕刻だった。食事をとったら現場組は仕事に出る。

「そろそろ行く」
「鹿俣」
「なんだよ」
「お前は事件のこと正しかったって言えるか」
「……さーな。勝手に選んで連れ出しといて堂々ともできない上司がいるんじゃ、考えもんだろ」
「正しかったよ」
「おっそ。説得力皆無だぞ」
「正しかったよ。世界隊を継ぐのが俺じゃなくてよかった。だろ?」
「はー? 自虐なら外でやれば。ふつうに気持ち悪いから」
「手厳しいなー」
「言えば。自分だけでよかったのにって。お前らさえいなければって」
「そんなこと。ほんとにお前らのほうが向いてんだろうなとは思ってるんだよ。それはそれとして俺も頑張るけども」
「うさんくさぁ」
「で?」
「何」
「お前はどう思うの。事件のこと」
「……」

 鹿俣は、さーな、とまたつぶやいた。いま生きてて、それがよかったとは思うけど。
 本当に純朴な奴。
 俺も仕事があるから軽口はこのへんにする。二人で部屋を出、ちょっと嫌そうな鹿俣と食堂で同席して、食べ終えた食器を下げ、別れる。彼は浅く息をついて俺を見送ってくれた。
 嫌われてはいるが仲が悪くはないのだと思う。
 その程度のつながりだ。

 ブルーグレーの絨毯を順々に踏んでゆく。片側がガラス張りの廊下は夕に染まってまぶしい。水やりを終えたばかりなのだろう観葉植物からかすかに緑のにおいがした。泥臭い業界だが暮らしぶりはいたって普通に明るく清潔である。
 数名の同僚とすれ違う。帰ってきた日勤組のひとたちだ。皆とひとことふたことの挨拶を交わしながら、夜勤組の俺は仕事に向かう。
 一人、私室に戻り鍵をかける。十畳もあるから余ったスペースを観葉植物でごまかした内装は私室というよりオフィスに近い。本棚と書類棚とPCデスク、それからベッドとハンガーラック、そんな感じだ。掃除ばかりするからセスキのにおいが取れない。
 さっそくデスクに着いて重たいPCを立ち上げると、内部のファンが回る低い駆動音がよく響く。
 数分かけて立ち上がったPCですぐに地図と専用のプログラムを呼び出す。愛用の黄色いイヤホンを装着して電波の受信を待った。

 ザ――ザザ――

 無音だった両耳にノイズが届き始める。画面に呼び出した地図上に青い点が現れ、別窓には町なかの映像が写る。撮影者の歩行にしたがって揺れている。

「もしもーし。聞こえる? サクラのおっちゃん。モニターの藤崎です。よろしく」
『へーい、聞こえます。よろしくな坊ちゃん』

 俺の仕事はモニターだ。実行担当の業務内容を見守り、あるいは監視し、記録をとりながら、状況に応じて援助要請を出すなり掃除屋に合図を出すなりする。担当者は日によって変わる。広く裏切りを監視する意図がある。
 ようするに実行犯ではない。
 俺はあまり手を汚したことがない。
 父は言った。殺しは、お前には向いていないと。鹿俣と同じことを。

 わかっている。

「おっちゃん。フウの出待ち中なら暇だろ? 俺も暇だからなんか面白い話してよ」

 わかっている。わかっているけれどここにいる理由もある。経験も浅く人望もないが仕事はある。嫌われているが追い立てられもしていない。同級生を繋ぎ止めようなんてごたいそうで特別な役割だってある。命令に忠実な自信なら誰よりもある。だから。だから、なんだというのだろう。
 片手間に安物のコーヒーを淹れる。イヤホンから同僚のつまらない話を聞き、裏切りの芽がないかだけ目を光らせておく。
 適度な飾り気はあるはずの部屋は一人だと空っぽに感じられた。

(俊)

 度々の訪問者が脳裏に浮かぶ。鹿俣はあまり率先しては俺に近づかないが、俊はそこそこの頻度でここへ来る。泊まりもする。
 どうして来てくれるの、と問うと彼は「藤崎がいちばんましな加害者だから」と答えた。一人でいたら他のもっとひどい人に連れ出されるし、鹿俣をこういうのに巻き込みたくはないから、と。
 それは、まあ、そうだ。

「おっちゃん最近青柳には会った?」
「最近はねえなあ。ちょっと前に同僚が声かけてたが」
「あー、そっか」
「坊ちゃん、アレを手懐けてんだろ? すげーやな。ああいうばけもん飼えるのも世界隊の特権かねえ。拾ってやれてよかったさ」
「はは、そうだな、そう思う」

 彼のあれは一体なんなのだろう。最初にボロボロで帰って来たときは焦ったし、心配も手当もしたし、犯人を突き止めもした。けれど強者主義のこの組織で暴力沙汰の告発なんて意味がない。何より加害者は常に新しくキリがなく湧いてくる。面倒だからいちいち手出ししないで、と彼は言い続けて、疲れ切った顔で「体が痛むくらいは本当にどうでもいいよ」と腹をさする。
 あれは一体なんなのだろう。
 そういう存在だとしか言い用のない、耐えがたく蠱惑的な闇だった。触れれば誰でも引きずり込み、醜態を引き摺り出す。あんな温厚な人がわけもなくこいつを殴ったのか、と何度思ったか知れない。
 そしてひとたび闇が外に向けば命が何個だって消し飛ぶ。彼の殺意は誰よりも鮮やかで底知れない。ナイフ一本あれば死神にだってなれる。
 おそらく、その大きすぎる闇が、滲み出て周囲に伝播するのだろう。
 いちばん隣にいる俺がいちばんましなところに踏みとどまれていることの方がおかしく思えるほど。
 実際おかしいのだ。

(俊の隣にいれば、俺だって人を殺せる、)

(わけがなかったから、向いてないんだろう)

 今日も清潔な部屋で一人、味の薄いコーヒーを流し込む。


2020年10月28日

▲  ▼
[戻る]