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見上げた空のパラドックス
出逢った日について

 地面を見ていた。並んだ靴と靴がぴくりともせずに砂利を踏んでいて、動かす気もない、顔を上げる気もない。どこか遠くに聞こえる子どもたちのはしゃぎ声に加わったこともない、加わりたいと思ったこともない。地面を見ていた。つまらないと思うこともなかった。そんなことを考える余裕がなかった。
 とにかく、腹が減っている。ここしばらく学校給食と水以外を口にした覚えがない。家に食糧がない。自分が買い物だなんて大層なことをできるという想定もないし、キッチンはなんだか危なくて怖い気がして使うにも踏み切れなかった。頭が回らない。
 10歳の夏だった。
 水道水をたっぷり汲んだ使いまわしのペットボトルを大切に抱え、木陰でじっとうつむいて、地面を見ていた。
 暑くはない。肌寒いくらいだ。動いていないし、食べていないから。
 ぼんやりと座り込んだまま、時間が過ぎるのを待っていた。待ったところで何もしないで食事にありつけるわけもないのに。
 ない。ない。そればかりが頭の中をぐるぐると。

 遠くに飽和するはしゃぎ声はずっと靄がかって意味をなさず、何もかも薄れていくみたいだった。
 しぬのかな。
 しぬかもな。
 特に思うこともない。

 公園のベンチに深く腰を下ろして、俺はただ眠るように目を閉じた。夏休みが始まって間もないある日の、突き抜けるような快晴の白昼だった。

「ねてるの?」

 幼い声がして、薄目を開けた。
 視界に留まった俺の靴の先に、もう一足、小さな靴があった。いかにも女児っぽいピンクのスニーカーが。実際、顔を上げれば女児が立っているはずだったが、俺は顔を上げなかった。

「おきてるじゃん! ねえねえ、これ、あげるよ」

 女児は薄目を開いた俺にころころと笑い、そして。
 うつむいた視界の真ん中に、小さな菓子袋が差し出された。
 俺は弾かれたように顔を上げた。上げたといっても正面までは上げなくたって背丈の低い彼女の顔はじゅうぶん見えた。明るい栗色の髪がふたつに結われて揺れている。幼い顔が木漏れ日の全部を集めたみたいに笑んでいる。目が合う。晴れている。上空を突き抜ける快晴の色が、こんな低くにある。
 青い目の少女は言った。

「あのね! さっきね、おかあさんがかってくれたの、これ。でね、くじびきやってて、わたしがひいたら、あたりがでたの! すごいでしょ! だからふたつあるの!」
「……、……」
「だからね、かたほう、あげるね!」

 それが当然と言わんばかりの勢いで俺の膝の上に菓子をぽんと置き、彼女はさっさと己の分の袋をちぎった。俺は何も言っていないのに、お構いなしに俺の隣を陣取って自分の好きな菓子のことなんかを語っていた。弾む声は朦朧の霞みを突き破ってしっかりと耳に届く。不思議とうるさいとは感じなかった。

「あれっ、たべないの? もしかして、きらいだった? ごめんなさい……」

 彼女はひとしきり楽しげに菓子の話を繰り広げてからふと俺が動いていないことに気がついて、そう謝った。弾丸トークが途切れたから気になって、ふらふらと視線を向ければ、青い目が、ひどく申し訳なさそうに潤んでこちらを見ていて。

「き、っ」

 咄嗟に答えようとして、喉の奥に息が引っかかる。軽くむせそうになったけど、むせる力がなくて、頼りない息が出る。彼女はきょとんとするだけだった。

「え? 『き』?」
「……らい、じゃ、ないよ。ありがとう……」

 自分の声。
 出すの、いつぶりだ? 何日も前の、算数の授業が最後?
 彼女は俺がそう伝えると一転、太陽みたいに笑顔になって、わたしもこれがいちばんだいすきなんだ! と返した。一番とまでは言ってないよ俺。そもそもこれ食べたことないし。そんなことはいちいち言わなかった。彼女はすっかりご機嫌でピンクのスニーカーをばたつかせ、俺が食べるのを待つ素振りをした。
 仕方なく、どうにか力を振り絞って袋を開けた。震える指先で落とさないよう必死になって、フルーツソースの詰まった小さな焼き菓子に、かじりついた。
 俺と彼女の出逢った日だ。俺が初めて彼女の前で泣いた日だった。

「ええっ! お、おなかいたい? かなしいことあった? だいじょうぶ……?」

 みたびうつむいた俺の頭を幼い手が不器用に撫でていた。涙を拭って目を上げれば、困り果てた表情の、彼女の青が見えた。遠巻きに見守っていた彼女の母親が声をかけてくるまで数秒の間、波に浚われたみたいに、底に沈むみたいに、俺はその無垢な青い目を見つめていた。


「なん、で、俺に声、かけたの」
「だって、ほかのこはみんなあそんでて、いそがしそうでしょ?」
「……好きなら、自分でふたつ、食べれば、いいのに」
「すきだからわけるんだよ!」


 彼女は俺の家から徒歩で二分とかからないところに住んでいるらしい。幼稚園とかいうのに通っているらしい。駆けっことフルーツと音楽と父と母のことが大好きらしい。
 あのあと、急に大人に話しかけられた俺はすっかり身をすくませ何も言えなくなって、彼女がきょろきょろと俺と大人を見比べて。優しいが不安げな声音をした大人は俺にいくつか質問をしたけど、俺はじっと地面を見るばかりだった。耐え難い沈黙の末に彼女が「そうだ、なまえおしえて! わたしは高瀬青空!」と言った。沈黙に押し負けた俺はかすれた声で津名戸倖貴だと答えた。津名戸という名札のついた家はここらにはひとつしかないので家の場所はすぐに伝わったようだった。お家の人はどうしたの、だって? 知らないよ。しばらく帰ってこないんだって金だけ置いてったんだ。そんな説明をする気力もないけど。

「えーっじゃあ、うちくる? こーき!」
「……」
「うちにこよう! 麦茶あるよ! アイスもあるよ! ぽてちもあるよ!」

 何がどうなってそうなったのかわからないが、俺は食べ物につられて彼女の家にあがり、食事を振る舞ってもらった。慣れない人とはどうにも話ができないから無言で勧められた席に座って、目を逸らしたまま小さく頭を下げて。高瀬家の食事は俺からしたらあまりに豪勢で食べきることができなかった。俺が彼女と食べている間、大人は隣の部屋でどこかに電話をかけていた。言葉までは聞き取れないけど真剣そうな声音だけ伝わって、何かはわからずともたまらなく不安になった。電話の声は時間をおいて何度も聞こえた。
 あの、違うんです。ギャクタイじゃないんです。いつも放置されているわけじゃなくて、今回たまたま親の外出が長引いているだけで。出発前にちゃんと説明もして、お金を置いていってくれているし。ただ俺にそれを使う力や料理をする力がないからこうなったというだけで、不注意ではあるかもしれないけど、別に両親は悪い人たちではないんです。
 一言も声にできなかった。
 ひとしきり電話を終えた大人は努めて穏やかな態度でいた。俺の両親が帰ってくるまでは高瀬家で飯を食え、という結論に落ち着いたと伝えられ、俺は困惑にうつむいた。いい人に優しくしてもらっているのはわかる。それでも怖かった。悪い人でないからといって信用するつもりはない。
 夜になって、家まで送られた。

「こーき! またあしたね!」
「……、」

 怯える俺をよそに、彼女は俺が毎日食事に来ると聞くと喜色満面で、もし犬だったら尻尾を振り回しているだろうといった機嫌のよさで、別れ際もぶんぶんと勢いよく手を振っていた。
 わからないだろうな、と痛切に思った。父と母のことが大好きで、散歩中にお菓子を買ってもらえるような彼女には。たまたま公園にいた得たいの知れない少年に迷いなく話しかけ、己の好物を半分も手渡せるような彼女には。わからないだろう。想像もできないだろう。誰もいないと安堵するくせに広い家でうずくまってもいられないこの感覚なんて。それでいいんだ。どうか、わからないままでいてほしい。そう思った。
 光を撒き散らすように笑った彼女に、俺は控えめに手を振り返して、重たい玄関扉を閉めた。無音の満ちた4LDKの一軒家は夏場だというのにひんやりとしていた。

 そんなこんなで夏休み前半は彼女の家に通わされた。
 窓際にステレオの置かれた、いつも音楽の流れている家だった。優しそうな父母がいて、底抜けに明るい娘がいる。絵に描いたような幸せな家だった。
 俺はなんだか肩身が狭くて、知らない大人と同じ空間にいることに身がすくんで、ずっと、ずっと黙っていた。黙っているのにまったく気にしない素振りで、彼女は俺に向かってよくしゃべった。相づちひとつ打たれなくたって楽しそうだった。それが怖くて、俺は聞いた。たまたま大人のいないタイミングで、隣に座る彼女に、なんで、と。

「……、あ、のさ」
「わ! こーき! なになに」

 俺が久しく声を出したから彼女は驚いた様子で勢いよくこちらを向いた。高さのある子ども用のダイニングチェアがたりと鳴って、俺は思わず立ち上がって彼女の椅子を支えた。けど倒れなかったから必要なかった。座り直す。

「……。なん、……で、俺に、話。いつも。楽しいか?」
「たのしいよ!」

 彼女は俺の心配など露ほども気づかず、ご機嫌で足を揺らしながら答えた。いつも同じ、まっすぐで迷いのない声だった。
 そうか。楽しいのか。
 謎だ。

「俺、ずーっと黙ってるのに。無視、みたいで。寂しく、……ならないか?」
「むし?」
「俺か青空の話、聞いてない、って、思ったり……しないのか」
「こーき、ずーっとこっちみてるでしょ? きいてくれてるから、みてるんだよね?」
「……それは……うん」

 彼女はただきょとんとして大きな青い目をしばたたいた。きょとんとしたいのはこっちの方だよ。この幼子はどうにも俺を不気味がったり避けたりしないようで。むしろ、視界に俺が入れば突撃してきて、にこにことくだらない雑談を始める。名前を呼んでくれる。
 それが不思議で、少し怖くて、だけどうれしかった。
 うれしいって、なんだっけ? そんなことをいちいち考えなくてはならないくらいに、俺は長いこと空っぽだった。けれど、きらきらと輝き続ける彼女の眼をぼうと眺めていたら、ふとわかった気がしたのだ。ずっと感じていた肌寒さがいつの間にかやわらいで、凍えに縮んで言葉を通さなかった喉がわずかに開いて。

「ありがとう。青空」

 礼を伝えたくなるということ。
 うれしいって、そんな単純なことだ。
 彼女はなぜ礼を言われたのかわからないという顔で、やっぱりきょとんとしていた。
 別にそれでもいい。

 高瀬青空。ご近所さんの、やさしくてまぶしい、ちいさな女の子だった。
 彼女に出逢って青色が好きになった。晴れた日は空を見上げることが増えた。
 俺がいつから彼女を愛していたかと問われれば、たぶん最初からだったのだろうと、今となっては思う。


2023年4月19日

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