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見上げた空のパラドックス
孤独の証明

 夢をみている。きみがそこにいるという夢を。

 そこにいるだけ。ただ肉体がかたちを保って存在を続けるだけ。声も視線も閉ざしてしまえば心も無いのと同じだ。心が無ければ愛することは無い。愛さなければ愛されることも無い。愛されなければ、繰り返される別れに傷つくことも傷つけることも、また無いのだろう。
 きみはただそこにいる。存在だけをうしなえないまま、存在だけをうしないたいまま、幾重の罪と諦観と失望の最果てに、じっと凍てつく静寂を守ろうとする。

 ぼくは雪解けを待った。
 待っている。何度でも。いつまでも。
 きみの笑顔を待っている。

 覚えてる?

 きみは賑やかな子どもだったよ。駆け回ることが好きで、ひとと話すことが好きで、美味しいものが好きで、暖かな家族や学校生活を心から愛していた。目に映るすべての景色、出逢うすべての瞬間に、まっすぐに心を砕き、笑いたい時に笑って泣きたい時に泣く。ありふれた町の片隅に息をして、ただ無垢に、純朴に、幸福に──恋をしていた。
 遠い昔、システムエラーによって強制的に削除されたきみの大切な思い出は、まだ、思い出と呼ぶにはあまりにも確かに、忘却の海の対岸に、ここに、残っている。

 さて、この先は明朝、ぼくらの見る浅い夢の話だ。
 あやふやでめちゃくちゃなことばかりだけれど、退屈しのぎにでも聞いていってほしい。

「返してください」
 水と空、青色以外には何も無い、空っぽで無限の空間だった。ぼくはそんな見慣れない夢の中で目を覚まして、すぐにそこが彼女の心象風景であると気がついた──そこはあらゆる世界の外であり、上層だ。
 理解してみると、覚ませる目が形成されていることに驚く。ここにぼくの意識を留め置けるような器になる人間は誰もいないはずなのに、起こせる身体が、ある。驚きにまばたきを増やす瞼がある。ある、と思うけれど、透明な水鏡をのぞき込んでも何も映らず、自分の両手を見下ろそうにも見えなくて、存在は錯覚のように曖昧なまま、身体感覚だけが定義されている。
 どこにも無くて誰でもあるはずのぼくが、どこでもなく誰もいないこんな場所で、わざわざ個体の振りをしている。そんな不可思議な夢だった。
 うずくまって、どこか世界を旅しているのだろう彼女の帰りを、ひとり待っていた。
 そうして彼女があらわれてからぼくの体感にして数分のこと。ゆらゆらと波打つ水面を背に、びしょ濡れの少女の髪をとりあえず拭ってやって、虚ろな目を覚まさせてからは数秒のこと。
 開口一番、鋭さをはらんだ幼い声が鳴り、冷えきった手が伸ばされる。髪を拭くためにぼくが今しがた取り外したひとすじのリボンに向かって。
 光沢のある布製の青いリボンだった。こちらもすっかり水を吸って重たくなっていたから、水気を軽く払ってからおとなしく返却すると、少女はひどく安堵したように息をつく。いとおしそうに布地を指の腹でなぞり、器用に己の左手首に結い直す。
「髪には結ばないの?」
 彼女は答えなかった。話す気力も無いと言わんばかりにうつむいて、薄白く固まった表情でいるばかりだった。しかし驚いたり不審がったりしないところを見るに、どうやらぼくのことは普通の人間のかたちに見えているみたいだ。ぼくには見えないのにずるい、と思うけれど、まあ、ここは彼女の夢だから、彼女の方に都合がいいのは当然だ。
 煤や埃に汚れた夏物のセーラー服の裾から、ぼたぼたと透明な水滴が落ちる。簡素なスニーカーに覆われた足が淀みなく持ち上がって、つま先が広がる水面へ向く。
 出逢ってここまで、会話もろくにできないで。ぼくはここでわざわざきみを待っていたのに、もう行ってしまうのか、と思った。

 まあいいんだ。今回もそんなものだろう。
「──、待って」

 諦念が瞬時に脳裏を伝ったはずなのに、気がつけば声をかけていた。彼女は従順に足を止めたけれど振り向きはせず、張り詰めた沈黙を喉の奥に守っている。
 どうして呼び止めたのだろう。自分で少し驚いている。この場所で何があっても、ぼくにも、彼女にも、記憶の一欠片も残りはしないのに。こうして邂逅できること自体が滅多に無いから? 彼女がひどく切羽詰まった顔でうつむいているから? そもそもどうしてぼくはここで彼女を待っていたのだろう。
 理由を考えることにすら意味は無かった。
「少しでいいんだ。話をしよう?」
「……」
「青空。きみの名前は高瀬青空だ」
「……え、」
「ずいぶん疲れてるんだね? ここが世界の外だってこともわかっていないだろう。大丈夫だよ。もう、無理に沈黙していなくていい。ここはいつもの、きみの夢の中だ」
 見慣れた青い目が虚ろに戸惑いを宿して振り返る。その目がきょろきょろと辺りを見回して、ようやっと景色の非現実性に気がついたようで少しだけ肩の力を抜いて、けれどもまだ疑念の残る顔で。
「……私の夢にひとがいたことなんて、無いよ?」
 本当にひとがいるように見えているんだね。
「きみが覚えていないだけだよ」
 ぼくは微笑んで返し、そっと手招きして歩き出す。どこへ向かうわけでもない、どこかへ辿り着きもしない。だってここは世界ではないから。法則なんて本当はどこにも無いから、踏みしめていたはずの何かしらの足場は瞬時に消え去り、ぼくらはどこまでも一直線に青を別つ水面に足をさらした。彼女が躓いて沈みかけたからその手を掴む。よろめきながら、互いで互いを支え、同じ地平に、立ち上がる。振りをする。
「おかえり。青空」
 目を見つめて伝えると、彼女は不思議そうに「ただいま……?」と首を傾げた。
「あなたはいったい」
「寂しいね。毎回一緒にいるのに。きみも、ぼくも気がつかないなんて」
「え」
「そうできてるんだよ。人間の意識でぼくを認識することはできないから、ぼくも下層にいる間はぼくを思い出さない。だからさ、きみも、目を覚ましたら今のことは忘れてしまうよ。いつもと、すべてと同じように」
 ぼくらはどこまでも続く水と空の境界を行く。ただ止まっていたくないだけで、どこかへ行きたいわけではない、曖昧な歩調で。景色は一色で塗り込められたまま移ろわないのだから、その実すべては静止しているのかもしれなかった。
 きみのすべてを写し取ったような空虚だ。
「これも、ここであなたに会うのも、繰り返しているっていうこと? 何度目なの?」
「数えたことは無いな。でもここで会うのはけっこう珍しいと思うよ。ぼくも下層にいることが多いものだから」
 重力だけがわけもなく定義されている。空から水へ、上層から下層へ、夢現のあわいから眠りの底へ。
 なんとなく無根拠に確信していた。ぼくが手を離したら、彼女はまた深く永い悪夢へと沈んでゆくのだろうと。身体も生命も意識も感情も永久に保存され、願いひとつも変えられないまま、また終わりゆく世界を彷徨うのだろうと。
 きみが、ぼくが、それを選んだ。終われなくとも旅に出ることを、かつては確かに望んだ。
 だけど今だけは引き止めさせてほしい。たまには休憩したっていいだろう。そう思って、少女の手を引いた。

「せっかくだ。何か思い出したいことがあれば言ってごらん。どうせ朝までの間だけなんだ、話してあげる」
 ぼくは戯れにそんなことを言ってみた。彼女が長旅の疲れで張り詰めているようだったから、お節介を焼きたくなったのかもしれないし、ちょっかいを出したくなったのかもしれない。
 彼女は表情を変えるでもなく、ぼくに疑いの目を向けるでもなかった。思ったことだけなんとなくこぼしてみる、そんな素朴な口振りで。
「あなたは、私の忘れたことを知ってるの」
「うん」
「何でも?」
「きみの問うことなら、きっと答えられるよ」
 ──かみさまみたいだね。と。
「その呼び方は好きじゃないな。間違っているから」
「そう? ごめんなさい」
 そうだ。勘違いされることが多いから念を押しておくけれど、ぼくは神様ではない。だって、何もかもは知らない。ぼくが本来どうすべきものだったかも、自分の名前も覚えていない。とこしえの悪夢の覚まし方も、きみを救う方法も、数多の世界の崩壊を止める方法もわからない。そのための力も無い。
「でも、きみのことなら詳しいつもりだ」
「……じゃあ」
「うん」
「このリボンのことを」
 握る手が力を強めたから振り返る。彼女は水面に触れる自らの爪先を見つめていて、表情は窺えない。
 ぼくは答える。余計な感情は込めないように淡々と。
「それは、きみがその不変の身体になるよりも前、」
 歩き続ける少女の爪先から、波紋が広がってゆく。緩やかに波打ち、遥かに遠くまで、いくつも重なる円を描いて。
「きみの恋していたひとから贈られたもの、だね」
「……、」
「きみが初めて殺したひとでもある」
 忘れたことの輪郭を言葉だけで聞いたところで、きみはどうすることも何を思うこともできないだろう。それでも、あかしが遺されていることにわずかにでも心を揺らせるのなら、その他の全部よりはかなりマシで、とても特別なことだろう。
 その他の全部はとっくに消えてしまったから。今もうしなわれてゆくものだから。
 揺らめく水面だけを頼りに、青が青を別っている。球形の蒼穹を騙る代わり映えしない心象風景を横切る透明な境界面は、戯れに歩みを進めれば進めるほどに揺らぎを強める。うっかりすれば見落としてしまいそうで、見落としてしまえば、明晰夢はたちまち主人の意識に従い姿を変え、この境界を完全にうしなうだろう。
 だから、見つめる。見ておくしかないのだ。意識を逸してはいけない。忘れたら消えてしまうし、考えなければ壊れてしまう。明晰夢に形作られたここでは、存在はとても脆弱だ。
 でもね、大丈夫だよ。
 きみのことも、きみの大切な思い出のことも、ぼくが観測して存在を定めるから。そして、いつかの約束通り、きみが忘れた分を教えられるくらい覚えておくから。
「幼い異能者にはよくある話だろう。扱い慣れない力の暴走で身近なひとを殺めてしまう。きみはそうして十一歳の時、想いびとを亡くしたんだ。だから、そのリボンは形見、だね」
「……」
「もっと詳しく聞くかい?」
「…………、……うん」
「ふふ。聞きたくなさそうだなあ」
「大丈夫、聞くよ」
 おかしな話ばかりだろう?
 きみだって、きみの見た数多と同じく、世界の歪みと欠陥に巻き込まれ、正しく生きて死ぬはずの小さな生命にすぎなかった。
 ぼくは覚えている限りのことをひとつひとつ思い返して言葉にしていった。誰も想像しえないくらい子細に丁寧に、かつてどこかに在ったのかもしれないことのすべてを語り聞かせた。彼女のうしなわれた記憶への敬意の示し方を、言葉を尽くすほかには思いつかなかった。どうしてもぼくの言葉になってしまうのは、申し訳ないというか、もったいないのだけど。
 語り終える頃には彼女の手は小刻みに震えていて、ぼくはただ握りしめて応える。温度はとうに等しくなっているから感じなかった。
「……、どうして?」
 抑えられた声の奥に激情の気配がある。
「どうして。おかしいよ。それを、あなたが語るのは」
 震えを包むように、手首に結われたリボンが揺れている。ぼくは知っている。きみは存在への不安が最も強まった時にそこへリボンの位置を変えるのだ。最もよく目に見える場所に、たったひとつのあかしを結ぶ。
「それは、全部、私の感情でしょう?」
「そうだよ。全部がきみの記憶で、きみの感情だ」
「あなたは、……私なの?」
「頷いてもいいんだけど。頷かない方が適切かな」
 微笑って誤魔化した。
 ごめんね。きみのことならなんでも答えられるけれど、ぼくのことを答えるのは難しい。
 彼女の震えが止まるまで、長いこと黙って、ぼくらは遠く広がる波紋を見つめ、あてどもなく歩き続けた。互いの心臓の音さえしない静寂は、穏やかでも苦しくもなく、ずっと淡かった。

「もうひとつ、聞いてもいい?」
「いいよ」
「世界は終わるの?」
「終わるね」
「それじゃあ、もしもすべての世界がひとつ残らず完璧に終わったら、私は死ねるかな」

 ようやっと落ち着いた彼女は、自らの感情を宥めるためか必要以上に淡白な発音で、ようするにいつも通りの声で、うつむいたまま、そんなことを問うた。
 すべてが完璧に終わればもしかすると。彼女がその考えでたびたび訪れた世界を意図的に歪ませていることは、もちろんぼくも知っている。その破壊行為の愚かしさを確かめたいのか、背中を押してほしいのか、より滅びに近づくためのヒントが欲しいのか。とにかくもそれはぼくには答えられない問いだった。
 ぼくもかつて解こうとして、解けなかった問いだから。
「ごめんね。わからない」
 本当に、わかったら苦労しない。
「そっか」
「まだ、滅ぼすつもりかい? どこも、きみがわざわざ滅ぼさなくても、そう時期は変わらずに滅んでいるけれど。それでも?」
 確かめるために聞き返した。無駄だからやめておきなよ、なんて言っても無意味だとわかっていた。ほかに選択肢が思いつくのなら、ぼくが先にそうしていたはずだ。何より──ぼくが解けなかったからといって、彼女にも解けないとは限らない。
「うん……。そう、無駄に急ぎすぎてるのかもしれない。無駄に罪を重ねているだけなのかも、しれないね……」
 少女は責められたと思ったのか素直に頷いて自嘲した。いくつもの世界をその手で壊してみて、疲弊と大罪に焼かれ、ぼろぼろにうつむいている彼女は。
「それでも──探しているの。私。もっともっと早く、根本的に、この世界の全部を暴いて殺せる方法を。ほんとうの神様に、辿り着く方法を」
 ふと、握ったままの手がぐいと強く引かれた。波紋が乱れ大きく歪む。簡単によろめいたぼくの喉に、驚く間もなく冷たい手が当たって、幼い指先が瞬時に的確に急所を押し込む。ここが現なら、ぼくに肉体が実在したなら、数分も待てば呆気なく意識を手放してしまえただろう。
 やっぱり勘違いされているみたいだ。ぼくは神様じゃないよって、何度、誰に伝えても、みんなして半信半疑なんだから! まいったな。
 至近距離で青の目がぼくを見つめる。その鏡面に何も映っていないことを確認して、ぼくはまた笑う。
「下手くそ」
「……」
「きみの明晰夢だよ。青空。本当に殺したいのなら、もっと、ちゃんと信じて」
 じわりと。息をしていたつもりも血を巡らせていたつもりも無いのに、苦しいような、くらくらとするような感覚がどこからともなく生じてくる。急速に実感が定義されてゆく。在るべき現象へ肉薄する空想、きみの祈りに助けられて夢は明確化してゆく。ぼくは甘んじてそれらを身に受ける。身なんてものがあるかどうかさえ定かでないぼくを、彼女が見て繋ぎ止めてくれる。握る手だけは離さぬように力を込めた。
 贅沢が過ぎるかもしれない。こうしているとどこにも無いものとしての自覚が薄れそうだ。
 でもどうせ死ねはしないよ。ここにあるぼくの姿は、どこまで突き詰めても、幻、錯覚でしかないから。
「ねえ、あなたを殺したら、世界は、どうなるの?」
「…………、ごめんね……、変わらないよ。何も。残念だけど……」
 ぱ、と少女がぼくの喉から手を離す。ぼくはボーズだけとりあえず咳き込んでおいて、繋いだ手をそのままに、また彼女の隣に着く。ひやりとして足元を見るが水面はまだ存在していた。よかった。
「急にごめんなさい。無意味だったね」
「構わないさ。ぼくも暇だから。……それとね、ぼくにもこれまで、戯れにたくさんの滅びを早めて終わりを探した時期があったけれど、」
「え」
「恨みはいっぱい買えるけど。それだけだった。終わらなくて、変わらなくて、飽きて、諦めた。なんてね、これは先輩の失敗談だ」
「……本当に、あなたは、私じゃないの?」
「ふふ。どうだろうね」

 逆だよ。
 ──きみたちが、ぼくの模倣なんだ。

 言わないでおいた。この揺らぐ水面に立っている今だけは、ぼくらは対等に話ができている、そう思いたかったから。言わないこと自体がぼくらの上下を明らかにするあかしだったとしても。
 細かいことはいい。だってほら、どうせお互い退屈しのぎでしかないのだから。

「ねえ、きみはさ。きみたちの暮らす世界のこと、どう思ってる?」
 また波紋が規則を取り戻し始める。一歩、また一歩、等間隔に刻まれる揺らぎばかりが、ぼくらのこの無意味な戯れに呼応する。彼女はすっかり落ち着いた顔をして、一面の青を退屈そうに眺めている。
「……どこも、壊れてるんだなあって」
 彼女の回答は正しかった。
 ぼくは、そう、と味気ない相槌を打つ。
「欠陥があるからすぐ崩れるの。おかしいよね。あんなに大きな歪みが、かならず自重で崩壊するほどの欠陥が世界にはあって。それでも私たちが生まれて、いっときでも在ることができている、それが、いちばんおかしいよ」
「……うん。その通りだ」
 さらさらと、とりとめもないことを言う。わかりきったことを互いの顔を見ていたずらになぞるだけの、まるで挨拶代わりに天気の話をするみたいな会話だった。
 いたずらに話して、いたずらに黙り、互いにぼんやりとしたまま、静止した青に足を進める。
「おかしいことばっかり」
「うん」
「でもね、楽しいよ。優しいひとばかりに出逢うの。ちょっと周りを見たら、素敵なことが、きれいなものがたくさんあるの」
 言葉を続けた彼女はここへ来て初めて笑みを滲ませた。年相応にあどけなくて、純朴さを感じさせる、花のような笑みだった。彼女にはよく笑う時期とまったく笑わない時期とがあって、圧倒的に後者の方が長いものだから、ぼくも見慣れてはいない顔だ。思わず目をしばたたいて、やがて自然と頬が緩んで笑い返した。今度ばかりは誤魔化すためではなく、ただよかったと思ったから。
 彼女は言った。
「世界のことは、好きだよ」
「よかった」
「よかったのかな」
 ぽつり、少女の小さな声が、水面に向かってこぼされる。
 波紋は歩みを止めない限り揺らぎを増し続ける。
「よかったさ。ぼくにとっては」
 壊すと決めたものを、それでも愛してしまうこと。きみにとってはつらいだけなのかもしれないけれど、ぼくは美しいと思う。美しいと思うのだ。きみがいつか笑ってくれる、それだけの理由で、まともに在ることさえできないこの永遠を、もう苦しまずともやり過ごせるほどには。

「……私とお別れしたたくさんのひとたちも、みんな結局、永くはなかったのかな」
「悲しいかい?」
「自分で選べない終わりは、悲しいよ」
「きみらしい回答だな」
「私が殺したみんなだってそうだ、選べなかった。私が奪ったから」
「うん」
「許せないよ。私のことも、私ばかり幸せでいることも。だから黙っていればいいのに、じっとしていればいいのに。何も、願わなければ、思わなければ、感じなければ、」
「きみにはできないよ」
 ぼくは遮るように断言した。
 できないよ。きみは昔からじっとしていられない子どもだったから。そんな性質までもが生命ともども保存され尽くして、不変に定まっているのだから。停滞してはいられないだろう。きみは何度でも世界を愛し、笑って泣いて走って、忘れて、いつか破壊を選ぶだろう。
「何度きみが強引に水の底で眠って誤魔化しても、いつかは見つけ出すひとがいるんだ」
 その誰かは、あるいは、ぼくかもしれないけれど、
「かならず、否応なく、朝がくるよ」
 ぼくは確かめるように告げた。嘆きを吐いた彼女への慰めであり、激励であり、当てつけであり、独り言でもある言葉だった。
 幸せな夢も、悪い夢も、そこでどんなに大切な感情を抱いても、目覚めてしまえばどうしても終わりなんだよ。

 彼女はまた緩やかに口を閉ざした。ぼくらは視線だけを交える。その目の色を、空虚と永遠の色を、かなしみと死の色を、誰もの真昼を照らす普遍の空色を、ぼくはいつ見ても美しいと思う。どの意識水準でどの次元にいる時でも、変わらず、美しいと思う。
 すべてが歪み揺らぎ消えゆくばかりのこの世界に、たったひとつ絶対不変のものがあるとすれば、それは、青空、間違いなくきみのことだろう。きみしかいないのだろう。
 ──救いを課された夕陽色の少年は、あの調子だとやがて祈りの集積に圧されて己の在り処をうしなうのだろうから。ぼくがまさしくそうであるように。
 水面が揺れている。空虚も静寂も、どこまでも不変なようでいて、常に揺らぎを持っている。
 だからすべきことはぼくもいつも変わらない。彼女の旅を見つめる。その存在の曖昧さが、未知に揺らぐ境界線が、見えなくなって消えてしまわないよう繋ぎ止める。忘れても忘れ去られても、傍にいる。目を開く。
 祈る。
 悲しんでもいいんだよ。みっともなく罪にすがりついて歪んで乾いてしまっても、運命を恨んでもいい。ささやかな景色の美しさに気づいてしまってもいい。笑っても、幸せになってもいいんだよ。
 そのためにぼくがいる。永遠を以てきみを観測している。どうしても、きみの心の在り処を守りたいと願ってしまう。
 ごめんね。
 ぼくが目を閉じたらそれだけで物語は終わるのに。

 これが最後の質問だよ、と少女が言う。
「どうして、世界の全部は終わってゆくのに、私だけ終わらないの?」
 切望、悔恨、諦念、あらゆる感情のうずまく問いだった。

「ごめんね」
 口をついて出る。直らない謝り癖もぼくの方が先だ。
「なんで謝るの」
「ぼくのせいだからさ」
「……どういうこと」
「青空。生まれたこと、後悔してる?」
「しないよ。するわけないでしょう。見たことの、起こったことの全部が大切だから、だから死にたいって言ってるの」
「それだよ。だからなんだ。きみはすべてを愛せてしまう。虐げられた痛みさえ、忘れようとしない……。それをきみが、きみの意志でやめなかったから」
 繋ぎ止めたいと思ってしまった。透明に揺らぐ境界を。きみがそこにいた、という幻を。
 明晰夢に溶ける青を集めて閉じ込めたような目がぼくを捉えている。ぼくはただただ微笑って視線を受け止めている。きみがそうしてぼくを見てくれるのなら、感謝のほかに思うことは無かった。次もその次もどこでだってその目に出逢うだろう。とっくに散りばめられ瓦解しているぼくの存在を、きみが見て、繋ぎ止めるのだろう。
「……すごく、わかりにくいだろう? ぼくの話は。あまり真面目に聞かなくていいんだよ。これもただの夢、だからね」
 観測し合う互いによって存在は確立する。ごたいそうな使命もとうに持たず、誰に願われもしない、どこにもいないもの同士のぼくらは、こうして不確かな手を繋ぐことでようやっと立っている。

「ねえ、あなたの名前は?」
「なんだ、まだ質問するんじゃないか」
「気になっちゃったんだもん。でも、どうせ言えないんでしょう?」
「強いて言えば、きみと出逢ったすべてのひとの名を名乗ったことがあると思うよ」
 自分が個として在った頃のことなんて何も覚えていない。
「なにそれ」
「他に言いようが無くてね」
 ぼくには何も無い。名前も、顔も、伸ばす手も、紡ぐ声も、定義されうる在り方も、連続する記憶も、ひとつの個であるということも。
 ただきみが今も変わらずそこにいてくれることだけを願っている。きみがきみの意志で、感情で、目を開き、何かを見て、選んで、きみとして在ってくれることだけを。
 名前さえ忘れて残らないほどの永きの行く先で、ぼくはずっときみを待っている。
「そうじゃない。今の、ここにいるあなたのことを聞いているんだよ」
 彼女はそう言うと両の手でぼくの手を取り直し、くるりと濡れたスニーカーを回して眼前に対峙した。正面から青に覗き込まれる。何が何でも答えさせようという気迫を感じて、ぼくはやっぱり癖づいた微笑を繕うしかなかった。
「わかった。その前に、何色に見えているのか教えてくれる?」
「え」
「ぼくの姿」
「……、真っ白だよ」
「そっか」
 それじゃあ、最も終わりに近い色だ。
「自分の名前はもう覚えていないんだ。名前どころか顔も性別もわからないし、そもそもひとりの人間だったのかだって正直あやふやなくらい。そのくらい、ぼくの旅は永かった。だからごめんね、本当に、答えられないよ」
「……ごめんなさい」
「そんな顔しないで。このぼくについてきみに言えることも、ひとつだけある。むしろ、言わなくちゃいけないことだ」

 息を吸う。

「高瀬青空の不老不死は、ぼくが定義した」

 少女の息をむ音が静寂に際立った。その足元からは今なお波紋が広がり続ける。波打つ水面以外の一切を一色だけが支配する、この景色はつくづく途方も無く退屈で、飽き飽きするほど永くて、彼女にとってはきっととても残酷で悲しくて、
「……、…………」
 美しい目の奥に、爆発的に焔の滾る瞬間を見た。憎悪や悔恨をない交ぜにした、暗いようでいて、きっと希望の方がよほど大きいのだろう、確かな光を湛える焔だった。迷路の果てに疲れきって、ようやく行く道を見つけた者の顔だった。
 終わりの終わりを見つけることは難しい。けれど、きみだけの最期を見つけることは、もしかすると簡単なのかもしれないね。下層に棲む普通のひとであるきみたちが、本当にぼくに辿り着けるのなら、だけど。
 とうとう光を取り戻した青色の目に笑いかける。本当にうれしいんだ。きみがまっすぐに意志を抱いてくれることも、祈りを以てぼくを見つめようとすることも。たちまち忘れ去られる程度のことだったとしても、今だけは、この手を離すまでは。
「よかった。もう大丈夫そうだね、青空」
 またすべてが嫌になったらぼくのところへおいで。ぼくは何度でも旅するきみの背中を押そう。きみが自分の名前を忘れていたなら教えよう。一夜だけにはなるけれど悪い夢から解放してあげよう。その程度の責任は取らせてよ。
「行っておいで。ここにはもう、ヒントも、ぼくを殺せるナイフも無いから」
「……うん。そうするよ。ありがとう、あなたと話せてよかった」
 頷きあった。

「どうか忘れないで。ぼくのことを、いつか、きみがかならず殺しに来て」

 手を離す。目を閉じればたちまち境界面は消え去り、水中と空中とが混ざりあって青に覆われてゆく。純白が雲の振りをして侵食し始める。重力の定義がほどけ、上も下も無くなる。相変わらず何も無い、この一面の蒼穹が、本来のきみの座標だ。
 その次元に無いぼくの身体では、きみの夢見る青を一緒に感じ取ることは本来できない。最初から意味を持たない認識の戯れだった。きみは円の線上を回り、ぼくは球の中心にいる。夢の中でもなければ決して交わることはできなかったろう。
 ひとりだ。ぼくも、きみも。
 言葉も思いも記憶も交わせない。交わしたところで次の瞬間に忘却する。ただ視線を辿る。証明だけが在る。
 きみは今もそこにいる。どこでもない世界の外に、深い夢の奥底にたゆたう。刹那、歩き出せば、数多に滅びゆく世界のどこかへ落ちてゆく。いつも通り、ぼくが願う限り、きみと出逢い続ける限り、終わらない旅をする。ぼくはきっと何度でも自己をうしない漂って、何度でもきみの灯す冬の静に、視線を、熱を、雪解けを贈るだろう。

 だからどうか、この世界の欠陥を、不条理を、ぼくらの過ちを、きみが見て。恨んで、諦めて、慈しんで、笑ってほしい。

「ほら、」
 もう朝がくるよ。




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