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見上げた空のパラドックス
アペイロフォビア

(水のおとがする。細やかに、透明な気泡のはじけるおと。薄白い朝の浅瀬に差し込む光の揺れるおと)

(いや、ちがう)

(──少女の声だ)

 夢をみているの。大切なひととお別れする夢。愛しいあなたに背をむけて、ずっと遠くへ立ち去る夢を。
 それは、もう二度とは逢えないことが最初から理解っている、どうしようもないお別れなんだ。
 あるとき私はそれをあなたに伝えていて、だから、あなたも諦めたように微笑むの。あるいはもしかしたら、受け入れられなくて怒ってくれるかもしれない。繋ぎ止めようと手を伸ばすかもしれない。私はごめんと答えて、涙を隠すために背をむける。
 あるとき私はそれをあなたには内緒にして、何も言わず、何も知らないあなたを置いていく。別れの日のあと、どんなかなしみや喪失があなたを覆っても、意外と何ともなくてすぐ幸せが訪れても、私にはどうせわからない。

 そうだね。
 死に、似ている。
 死ねない私が言うのも変な話だけど。
 温度が遠ざかる。揺らぐ木の葉も、まぶしい朝陽も、靴先の踊る雑踏も、アスファルトも、冬も春も、血も瓦礫も、ただ決まりきった喪失のシステムにしたがって、私というエラーコードを拒み、排除する。あなたの生きる世界は、私という存在を赦さないようにできている。

 あのね、これは、冗談なんだけど。
 あなたとのお別れを死と呼ぶのなら、私は決して死にたいなんて願わなかったよ。
 やっぱり不謹慎だった? ごめんね。そんな顔しないで。

 死を騙る夢は、覚めても、覚めても、覚めても、また夢だ。
 お別れのときが来ても、私というエラーコードの状態はデリートじゃなく、カット。また次の夢のなかでペーストされる。

 私は幾億と繰り返しあなたに背中をむける。二度と振り返らないことを、心の底から諦めて、もう慣れたからと言い訳をして、頑なにきびすを返す。
 その瞬間から、とどまることなく、私はあなたを忘れていく。
 あなたの声が好きだった。戸惑いも、意志も、冗談も、言葉尻に息の揺らぐ繊細さも、じっと耳にしていると心が落ち着いた。あなたの手が好きだった。
暖かさは確かさだから。あなたはそこにいる。世界に拒まれない正しいコードで、圧倒的に確かにそこにいる。だから、あなたに触れるときだけ、私だってそこにいたのかもしれないでしょう? こじつけか、錯覚か、願いか。
 あなたと紡いだ時間が、私の確かさの全部なんだ。
 けれど。
 一秒、一日、一年経るごとに、どんな言葉も想いも残さず、かなしみの残照が揺らぐ日まで、一直線に忘れていく。暴力的な永遠は止まった秒針を時間軸の進む方へ投棄する。世界の時間は進んでいく。いくつも滅びを見るほどまでに、私を置いていく。
 十二歳の私は、十二年だけしか記憶を保てないらしい。
 そう決まっている。
 誰がつくったか知らないけれど、世界というシステムのことが私は嫌いだ。

 ……ちがう。撤回させて。やっぱり好き!
 あなたが生まれたことも、生きていることも、死んでいくことだって、私は好きだよ。
 春霞に咲く花の香り、雪解け水の透明さと冷たさ、夕日のあかいろ、コンクリートの割れ目をつたって繁茂する野草、ファストフード店の錆びついたゴミ箱、海の底でまわる粒子の軌道だって、空を飛び交う光の線のことだって。きらきらして、わくわくして、穏やかで、たまに恐ろしくて、寂しくなって、憎くて、あるいはどうでもよくて──その全部を美しく思うから。
 実在することのひとつひとつに指先をさらして、なぞって確かめて、ずっとかなしくて泣いているの。
 実在性には寿命があるんだ。私と違って。ふと気がつけば無い。物理的な、絶対的なデリート済。
 とうに滅び去った世界の残滓にあなたを探している。
 すべてが泡沫のように呆気なく消えていく。覚えていなければ、考えていなければ存在できなかった過去が、ひとつひとつ壊れて、私はそれに気がつけないまま、また何度でも夢の中で目を覚ます。過ぎ去った微睡みの、戻らない空白の輪郭をなぞる、夜明けをいつまで繰り返すんだろう。

 もう無意味な永遠はこりごりだった。殺してしまったひとたちの視線が幾重にも瞼の裏を覆って、痛んで、やがては記憶の彼方へ褪せる。どこかに終わりを見つけなければ、私だって死ねなければ、正しく存在できなければ、何ひとつ刻んでおけない。何もかも忘れて無かったことにしたくない。私が奪ったのに。
 だから。
 だからすべてを壊すことにした。

 死ぬ方法は見つからなかった。
 幾星霜、あなたを忘れ去って、無かったことにして、罪ばかり増えていって、それさえ忘れて、忘れたことも忘れて、それでも立ち止まれなくて、愛しい世界に触れていたくて、お別れがかなしくて、探して、探して、探して、探して、

 世界と心中する以外に道が残らなかった。

 もちろんたくさん考えたよ。
 そもそも私が何も愛さなければ。目を閉じて、口をつぐんで、誰とも話さず、心を殺して、人形のようになっていられたら。それで解決する話だ。好きじゃないものが知らないところで消えたってどうだっていいでしょ。だからずいぶんと長いあいだ、心を殺す真似をしていた。誰とも言葉を交わさない。空も土も見ない。冷たい、透明な、深い水底で、ときおり揺れる泡沫を子守唄に眠った。息のできない湖底は居心地がいい。生きものをやめるのは簡単だった。死なないということは、生きる必要がないということだから。
 でも駄目だったんだ。ほんの少しでも油断して優しさに触れてしまったら、美しさを認めてしまったら、心がふるえて、いつかかならず目を開くの。いつかかならずあなたの手を握るの。いつかかならずまた淡く確かな景色のために目を細めるの。
 どうして絶望させてくれないんだろう。
 空がきれいだから、それだけで救われた気がする。立ち上がれてしまう。また、あなたを愛してしまう。
 何億人をこの手で殺しても、何億人に手酷く虐げられても、何億回あなたを忘れても、心を壊すことができなかった。
 ただ、ただ、重なるばかりの罪が傷んでいく。

 ずっと死にたいまま。死に憧れたまま。実在したいまま。贖罪したいまま。ぐるぐると、不安定に、結局は静止している。
 ここから一歩でも動くためには、システムそのものを破壊するしかない。
 世界を記述するソースコード。
 その、上を、私は見に行くんだ。

 ひとつだけ、嘘。
 ほんとうはね、システム内で私が正しく死ぬ方法も、理論上はあった。きっと途方もない年月をもって試したんだよ、けれどそう、駄目だったんだ。「理論上可能」は「可能」じゃないって、もっと早く気がついておけばよかった。あなたをさんざん苦しませる前に。
 私を殺せるひとがね。うん、ひとりだけいた。でも殺してくれなかった。どんなことをしても、泣いても喚いても、仲良くしてみても、いくつの世界を人質に取っても、いくつ滅ぼしても。私がどれほど最悪の罪人であっても、どれほど深刻なエラーでも──あのひとは、私を殺さなかった。
 救世主は私を救わない。
 よく考えたら当然だ。私は実在し損ないの、この世の破壊者だから。世界の安寧と存続を祈り続けるあのひとからすれば、たったひとりの、敵なんだろうから。

 ごめんね話が逸れてばかりで。
 そうだ、あなたを殺す理由の話だった。

 世界を滅ぼす。
 私の存在ごと、すべて終わらせる。

 だから、今、あなたを殺すの。
 大丈夫。他のみんなもちゃんと一緒に一斉に殺すから。誰も苦しませない。誰も悲しませない。
 つまんない妄言を最後まで聞いてくれて、ありがとう。
 愛してるよ。
 最後に聞きたいことはある?

(少女は淡く微笑んでいた)
(永く絶望と希望を繰り返し、数えきれない失せものを遠く諦めた青い目で、慈しむようにぼくを見る)
(真冬を突き抜ける白昼の空のいろだ)
(そして、生物の死が発する蛍光と、同じいろ)

 私の名前?
 ああ、まだ言ってなかったっけ。

 高瀬青空。
 高瀬舟の高瀬に、あおぞらって書いて、たかせそら。
 ……本当に最期がこんなことでよかったの? 変なひとだね。

(ころころと笑う彼女の、紡いだ言葉のほとんどを、ぼくは理解することができなかった)
(ただずっと、淡い春の、雪解けのにおいがした)

 それじゃあ、もう目を閉じて。



 おやすみ。




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