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見上げた空のパラドックス
かなしみの宝石

 そうして彼女は凍てつく水底へ身を投げた。 
 波紋に指先を浸せば絹のようにやわらかく、曖昧な感触で通り過ぎてゆく。ほの青く白くうつろう光が目線の先で揺れては滲む。握ったその手は確かに温かかった。水流がどこまでも温度を浚っていった。
 ぼくは彼女を繋ぎ止めたかったけれど、繋ぎ止められていたのは最初からぼくの方だった。

 深夜の町角は街灯と星明りが混ざり合って濁っている。履き潰した革靴と、ついぞ洗ういとまの無いスーツを、引きずるようにして歩いている。呼吸のひとつすら疲弊した頭に響いてひりつき、足元がふらつかないのはただの惰性にすぎない。白く靄がかった路地に電柱が真っ黒の影を刻む、そんなどこにでもある夜だった。
 その時のぼくは疲れきっていた。わけもなく早朝から深夜まで働いて、明け方の数時間だけ浅い睡眠をとって、癖づいたまま数日に一度は職場の便器に嘔吐しながら、疲れるからと大切なことは考えないようにしていた。ごくありふれた流れに従って、気がつけば笑うことが無くなっていたのに、思考をやめた自分では逃げようとすら考えつかなかった。そんな頃合いの、冬の夜だった。
 濁った夜道を、ひとりの少女が歩いていた。
 ぼくははじめ幻覚でも見たかと疑った。街灯の下、確かに黒い影を伸ばして、明るい栗色の短髪を揺らして、凍てつくアスファルトをスニーカーのやわらかい靴底で踏みしめていた。歳はきっと中学生くらいで、薄汚れた夏物の服を身に着けていた。いつも呆然と辿る家路の片隅で。ぼくは遭遇した。
「ねえ、そこのきみ……」
 どうして声をかけたのだろう。いちいち疲れるようなことはしたくなかったはずだけど。でも、ちょっと無視できないくらいには異様な光景だったのだ。子どもが出かけるような時間ではない。半袖でいられるような気温ではない。幼い女の子がひとり薄着で夜道を歩くなんて危ないし。
 少女は白色灯の真下でくるりと振り向いてぼくを見た。青い、と思った。その目の湛える空色だけが途方も無く透き通って異彩を放った。白黒で描き出された夜のさなか、彼女だけが別の世界にいるみたいにきちんとした色を持っていた。ぼくはなんだか怯んでしまって足が止まった。家出なのか虐待なのかとか、そんな格好で寒くないのかとか、聞くことは色々あったけど、言葉が出なくなった。
 少女はくたびれたぼくの姿を一瞥して、こんばんは、と口ずさむ。幼いけれど落ち着いた、歌うようなささやくような声だった。
「水辺を探しているんです」
 彼女はそう続けた。
「……みず?」
「はい。できればきれいな淡水の、深い湖がいいんですけど」
 どこか知りませんか?
 身を切るような寒風が、彼女の柔い栗毛を凍らせんとばかりに揺らした。少女は白い息を吐きながらも寒さを気にする様子は無く、何気ないばかりの顔をして透いた青い目をぼくに向けていた。
 きれいな淡水の、深い湖? そんなのパッと問われてもよくわからない。この寂れた都市の近郊に、そんなのあったっけ。考えようとして、頭がひりひりして、そして急に何もかも嫌になって放り出した。片手で検索すれば済むことだったのに、ごめんわからないと早口でこぼして、足の進みを再開した。早く帰って寝ないと、明日も仕事だから。
「あの」
 少女の脇を早足で通り抜けようとした時、声がかかって、ぼくは思わずなんだよと不機嫌に声を落とした。とっさに彼女の顔を見やれば、先ほどより近くはっきりとした青が、街灯の濁った光を吸って透過している。
「どうして泣いているんですか?」
「はあ? ……、あ」
 指摘されて気がついた。とっさに答えられない問いをかけられただけ、そんな些細なストレスにさえ耐えられなかった、決壊した自分自身に、気がついてしまえば止めどなかった。うつむいて見た、寂れた都市の路傍は、舗装がぼろぼろにひび割れてしまっている。ぼくの心だと思った。膝をついて立てなくなった。
 たまたま居合わせただけの彼女はそっとぼくの背をさすってくれた。ハンカチを持っていなくてすみません、と幼い声が言った。ぼくは持っている。でもポケットからそれを抜き出す気力すら尽き果てている。凍えて身を震わせながら、何も言えずにさらさらと泣いた。
「きみは……、家出? それとも、追い出されたとか」
「家族はいません。家もありません」
 誰ひとり通らない深夜の路傍で泣き濡れて、泣き疲れてふらふらと、少女の手を借りてどうにか立ち上がって歩いて、ぼくはあと数分の家路を辿ることに成功した。なぜか自然と彼女もついてきて、なぜか自然と部屋に上げていた。社畜のひとり暮らしだからそれはもう壮絶に散らかった部屋で、彼女は嫌な顔ひとつせず背筋を正して座った。
「学校にもどこにも所属していません。知人や友人もいません。戸籍も住民票もありません」
 彼女の身の上を聞いてみれば、何も無い、ということをひとつひとつきっぱりと告げられた。当然と言わんばかりのあっさりした口振りはとても嘘には聞こえず、何より彼女のまとう雰囲気の異常さに説得力がある。ぼくはどうするか迷って、よくわからなくて、とりあえず疲れた身体を引きずって、小さな肩にくたびれたジャケットを被せた。寒そうすぎて見ていられなかったから。
「ねえ、ぼくは、仕事を辞めたいんだ」
 口をついて出たのはそんな言葉だった。彼女はひとつまばたきをして、そうなんですね、と相槌を打った。
「もう疲れた。何も考えたくない。何もやりたくない。お金も何も要らないからずっと眠っていたい。二度と目覚めたくもない」
 子ども相手にぼくは何を言っているんだろう。わからないまま、また涙が滲んで、泣き出す代わりに強烈な眠気が襲ってきて、くらくらして、そのまま気をうしなった。目覚めたのは翌日の昼で、しきりに電話が鳴っていた。ぼんやりとした頭で真昼の陽光を窓外に感じながら着信音を聞き流し続けた。眠りは重苦しくて暖かい。かけた覚えの無い毛布が身体にかけられていた。ああ、そうだ、あの少女は?
 顔を上げると彼女は変わらずそこにいて、おはようございます、と言って微笑んだ。
「勝手に漁ってもよかったら、ごはんとか作りますよ」
「……いいの?」
「寝ててください」
 電話が鳴り続けるのを、二人でずっと何も聞こえないみたいに無視した。彼女の作る朝食はぼくが作るより少しだけ豪勢で美味しかった。久しぶりにしっかり眠ったからか食べても吐き気がしなくて感激した。
「きみは何も食べないの?」
「私は、要らない体質です」
 彼女は寂しそうに微笑んだ。その意味を考える余裕はぼくにはまだ無くて、まあいいか、と思ってまた眠った。
 次の目覚めは最悪だった。会社の上司と同僚が揃って家の戸を叩いたのだ。いるのはわかってるんだぞ、なんて絵に描いたような台詞が聞こえてくる。ぼくはその瞬間にどっと冷めた気分になって、ああ本当に仕事を辞めよう、と決心した。少女にはトイレに入っていてもらって、ぼくは深呼吸して扉を開ける。汚い口論になったけれど、もう辞めます、絶対に辞めます、二度と行きません、と一点張りしてどうにかこうにか帰ってもらった。これでいいんだと心から思った。うしなった時間や体力や気力の全部が虚しくなって、閉めた玄関扉をじっと見つめていた。
 それからぼくは貯金を全部下ろしていつもより少し奮発した食糧を買って帰って、ひとりでやけ食いパーティーをした。とはいえ胃が弱っていたからそんなに食べてもいないけど、まあ気分の問題だ。彼女はおめでとうと言って調理を手伝ってくれた。ぼくは本当にありがとうと言って彼女を抱き締めた。
 おかしいとは自分でも思うけれど、世の全部の異質をかたちにしたようなこの少女のことを、ぼくはどうしようもなく好きになっていた。
 しばらくはひたすら寝て起きて食べるという生活をした。もう一生分の無理をしたのだから休んだっていいだろうと自分に言い聞かせていた。少女は何も言わず大人しく部屋の片隅で座っていることが多かった。ぼくが不安定な時には背中をさすって、無気力で立ち上がれない時には家事を代わってくれた。彼女がそこに座っているから、ぼくはだんだん部屋が汚いのが気になってきて、何日かかけて掃除をした。少し執拗なくらいきれいに。
「服を買おうか、きみの。いつまでもぼくのお古じゃきみも嫌だろう」
「駄目ですよ。貯金は大切に使ってください」
「大切に使ってるつもりだ。ぼくはきみと暮らしたいんだ」
「私は」
 真昼の快晴に水を透かしたような色の目は、いつもまっすぐ射貫くようにこちらを向いた。
「私は水辺を探しているんです」
 彼女がうつむいた。ぼくはそうしてようやく最初の問いを思い出して、目を見開く。そうだった。
「……きれいな淡水の、深い湖。そうだ。なんのために?」
「答えなければ、教えてくれませんか」
「ぼくは知りたいよ」
「死ぬために」
 決然とした言葉が、幼いのに落ち着き払った淡白な声が、まったく迷いの無い響きで冬の静寂に溶けていった。柔い髪と同じ明るい栗色の睫が青色に影を落としている。彼女の何もかもが美しく静謐なものに思えて、触れるのが怖いような気さえした。
 「湖を探している」。「死ぬために」。
 ぼくはやっと考えるということを始めた。この少女が何日も飲まず食わずでも変わらず平気そうにしていることについて。身寄りが完全に無いということについて。食事が要らない体質、という発言について。
「きみは人間じゃないんだね」
「……そう、かもしれませんね……」
「どうしても死ななければいけないのかい? 湖へ行って?」
「いいえ。ただ、私が、死にたいんです」
 彼女は言った。穏やかで、だからこそ誰にも有無を言わせない口調で。当たり前みたいに、大切そうに言った。いつも大人しく従順でぼくのためにばかり行動する彼女の見せた、いちばん大きな意志だった。
 ぼくはとっさに貯金の残りを数えた。
「ごめん、ひと月だけ待ってくれないか。ひと月したら、かならずきみを湖まで送るから」
「……」
「それまでは、ぼくといてほしい」
 彼女はうつむいたまま、わかりました、と答えた。

 それからぼくらはひと月かけて遊び回った。
 好きな服を選ぶよう言いつけてプチプラの通販サイトを突きつけると、彼女は押し負けたようにタブレットを受け取って、意外としっかり悩んで数着のかわいらしいニットやブラウスを注文した。湖の件のほかには何も主張をしてこなかった彼女にも、実は普通の女の子らしい面があるらしい。ぼくは購入履歴を見つめて考えた。彼女の好きなものが知りたい。
 とはいえ注文した服が届くまで彼女を外へは連れ出せない。ぼくはひとりで出かけて心療内科の戸を叩き、仕事のストレスで心を病んだことを話して、薬をもらって帰った。その帰り際にちょっと寄り道をして、働き出してからついぞ縁の無かったカフェスイーツをテイクアウトで購入してみた。店でいちばん上等なきらきらしたフルーツタルトだ。
「できれば一緒に食べたいんだけど、可能かな」
 彼女は自らを食事の要らない体質だと言っていた。要らないということは、あっても構わないということなのではないか。ぼくの読みは当たっていて、彼女は迷う素振りこそ見せたものの最終的にはおずおずとタルトを口へ運んだ。ぼくはうれしくて緊張してじっと彼女の方を見ていた。一口目を含んだ時のまばたきも、徐々に綻んでゆく表情も見逃さなかった。
「……ものすごく、久しぶりに、食事しました……」
「できるんだね」
「できますよ。でも必要なわけじゃないから。お金もかかりますし」
「美味しかった?」
「はい」
「今度また一緒にお店へ行こう」
 彼女は小さく頷いて答えた。
 それからは彼女もたびたび食べ物を口にするようになった。食費を気にして食べないことがやはり多いけれど、料理の味見をしてみたり、ぼくが気まぐれに差し出したパンを一口かじってみたり。申し訳なさそうで、だけど美味しいものには隠しきれず表情を明るくしてくれるから、ぼくもうれしくなる。
 服が届いたら真っ先に彼女をカフェへ連れ出した。流行りのイエローベージュのニットを身に着けてしまえば彼女はどう見てもどこにでもいる女の子だった。好きなフルーツを聞いてみればブドウと答えたけれど、旬ではないので残念ながらメニューに無い。一緒に迷って、それぞれテイストの違うパンケーキを注文して、分けあって食べた。学生時代に食べ歩いたどんなスイーツより美味しく感じた。
「あの、ありがとうございます。私のために」
「ううん。ぼくがきみを勝手に引き留めて連れ回してるんだよ」
 少女はずっとひどく申し訳なさそうに肩を縮めている。悪いことなんて何も無いのにな。無職で堕落して頼りも無いぼくが今こんなにも元気で幸せなのは、どう考えたって彼女がいるからで、彼女の笑顔が見たいと思えているからだ。
 それから街の商業施設も歩いてみた。好きなものがあったら見ていいよと言って連れ出せば、彼女は最初は控えめに、けれどだんだんと足取りを軽くして、小物屋や服飾店を見て回った。ぼくもウインドウショッピングなんてずいぶん久しかったからはしゃいで、一緒になってかわいいものを見つけては報告し合った。ひとつだけアクセサリーを買った。透明なガラスペンダントだ。彼女には頑なに断られたから、自分用にしておく。
 何度か出かけてみればどうやら彼女とは普通にひととして気が合いそうだとわかってきて、半月もそうしていると別れが惜しい気もしてくる。気がするだけだ。期限よりも長く引き留めることはないだろう。貯金の残りを確認する。
「ねえ、きみには食べたいものとか行きたい場所とか、やりたい遊びとか、あるかい?」
「私は、特には」
「あーあー、遠慮されると傷つくなあー」
「……露骨ですね」
「あとちょっとで死ぬ子のワガママくらい聞きたいさ。きみは本当は色んなことが好きなのに、遠慮しているだけだって、さすがにわかってきたからね」
「……」
 彼女は事あるごとに寂しげに微笑んで口を閉ざす。流行りの服を真剣に吟味し、甘いものに目を輝かせ、ウインドウショッピングに足取りを軽くした少女は、それでもどこかが決定的に異質なまま遠ざかろうとし続ける。ぼくはその細い肩を抱き止めては無意味にここへ繋ごうとした。彼女は何も言ってはくれない。
 きれいな淡水の深い湖。期限が迫るからぼくは要件に見合う場所を調べ始める。多少遠くても旅路が過酷でも別に構わない。旅費の足りるところをいくつかピックアップして、彼女に選んでもらった。そこまでの道のりと寄れそうな観光スポットを調べ、宿泊施設と貯金の残高とを見比べて、また少し自分の部屋を掃除した。なんだかんだで社会人になって初めての旅行だ、受かれてカメラを買いにも行った。色々やっていると不意に疲れが出て一日じゅう伏せることもある。それでも、このひと月だけは、彼女と楽しむと決めている。
 少女は時間をかけて着実に表情豊かになった。カフェ、ショッピング、ファストフード店、カラオケ、スポーツセンター、電車、公園、植物園、景色が変わればふと何かを思い出したように瞳を揺らすことがあり、まぶしそうに口許を緩ませることがある。来たことがあるのかと問えば彼女はありませんよと首を振る。似た思い出があるのかと問えば、押し黙って微笑む。
「きみはさ、どうしてひとりでいたの。誰かに捨てられた?」
 興味本位で問う夜があった。まさに明日、湖へ向けてゆっくり出発しようという頃合いだった。彼女はやんわりと首を振って言う。
「私が、捨てたんです」
 冬の静謐をそのまま音にしたような声は幼さに似合わず落ち着き払ったまま。
「捨てちゃったの? きっと前にも誰かと美味しいケーキを食べたこと、あったんだろう?」
「意地の悪いことを聞きますね」
「最後だからね」
 どんな失礼なことを聞いても彼女は怒らない。怒れるほどぼくに心を許してはいない。どれだけ彼女の好きなものを探して知って与えてみても、彼女から甘えてくれることは無い。
 寂しいけれど仕方の無いことだとも思うのだ。ぼくと彼女とでは見えている世界が違う。たまたま重なった線の、奇跡のような交点に縋りついている。二本の線は途切れることなく交差して、当たり前に分かれて進んでゆくだけだった。
 願うことだけはやめられなかった。彼女にも、この奇跡のような交点を、ありふれた夜道の隅でぼくと出逢ったことを、少しでもよかったと思ってほしい。
 少女は答えた。
「どこにも、誰とも、ずっとはいられない。そう決まっているから、引き離される前に捨てるんです。奪われるより奪う方がいいから。悲しませるより恨まれる方がいいから」
 透いた空色がぼくを見つめていた。なんの感情も感じさせない、あるいはこの世のあらゆる感情を含んだような、空っぽで悠久を秘める目だった。
「そうか。ずっとじゃないから、ぼくとは一緒にいてくれたんだね」
「……」
「ぼくはそれで十分だ」
 きみが去ってしまっても、ぼくは悲しまないし、恨まないよ。
 彼女の真似をして、できるだけ穏やかに言いきってみせた。できるだけ彼女の傷つかないように振る舞って、傷つかないように言葉を選ぼうとしていた。彼女がぼくにそうしてくれているから、ぼくもそうすべきなのだと思っていた。
 その夜にだけ、少女の涙を見た。蛍光灯の下に青をきらめかせた水分はしかしこぼれることはなかった。少女は淡く微笑んで言った。
「あなたは、優しいですね」
 優しくさせたのはきみだろう。

 ぼくらは湖を目指して荷物をまとめ出発した。道中で温泉つきの旅館に泊まってちょっといい夕食を満喫した。水仙の花畑に立ち寄りたくさん写真を撮った。一枚だけきみを撮らせてと懇願してレンズを向けると、彼女はしょうがないとばかりに笑って映ってくれた。やっぱり笑顔がいちばんいい。
「きみは白が似合うね」
「そうですか?」
「そうだよ」
 薄着で平気だと言う彼女に、見てるこっちが寒いからとマフラーを買い与えてやった。もちろん生地の色は白だ。もう死ぬのに、と彼女が未だに申し訳なさそうにするから、ぼくはだからこそだよと言って聞かせる。彼女は確かに人間ではない。寒さも空腹も無視して立っていられる身体を持っている。けれどその彼女自身、ただの人間の女の子でいる時の方が楽しそうに愛おしそうに目を輝かせるから、ぼくは彼女をそう扱ってやりたいのだ。最期くらい楽しくてもいい。
 観光地にふらふらと寄り道するから三日もかけた旅行だった。二泊目は小さなホテルで小洒落たモーニングにありついた。ぼくはもう彼女の甘いものに目が無いことを知っているから、デザートを口に運ぶ彼女の緩んだ顔を見逃さないようにした。
「いよいよだね。それじゃあ、行こうか。きみの墓場まで付き合うよ」
「本当に、ありがとうございます」
「半分はぼくが遊んでるだけの旅だけどね」
 朝から重装備でほとんど獣道に近い山道を歩いた。冬場といえどひとの手の届かない山中は植物が繁茂して歩きにくいことこの上ない。雪と霜の混じった地面を踏みしめ、埋もれて見えにくい木の根をいくつも踏み越える。ぼくはすぐに息を上げるけど、彼女は平気そうどころかぼくの分の荷物を背負おうとした。幼い女の子にそんなことさせるわけないだろ。
 黒々と覆い被さる木々の天井の向こう、薄白い巻層雲が太陽をおぼろげに透かしている。彼女の命日に空が濁っていることが許せない気がして、気がしたからといってどうしようもないまま歩いている。ふと彼女の目が見たくなって、雪道を掻き分けながら口を開く。
「ねえ、愛しているよ」
 後ろを振り向けば目が合った。晴れ間に見えたはずの青がそこにあって安堵する。
「ごめんなさい」
 思わず口から出た、という風に彼女が返した。単純な告白のお断りとはまた違った、真に迫った響きだ。
「どうしたの」
「ひとに気に入られるようなことを……、優しい振りをしてしまって、ごめんなさい」
 そんなことで謝られたのは初めてで、なんだかおかしくてぼくは笑った。彼女が変に見栄を張ったり取り繕ったりするタイプでないことはこのひと月でよくわかっていて、だからぼくは彼女が振りなんかでなく本当に優しいことも知っている。
「ひとに気に入られちゃいけないのかい?」
「いけないでしょう」
「どうして?」
 彼女は、誰かが困っていればすぐに気がつき、さも当たり前と言わんばかりに手を貸し、それをなんとも思っていないからすぐに忘れてしまう。後になってぼくが色々感謝を伝えても、そんなことしましたっけと本気で言われることさえあった。そういう子だから、優しい振りをしないなんて芸当は、彼女には、なるほど難しいに違いない。そんな彼女なのに。
「私がこの世界にいることも、こんな優しいひとと一緒にいさせてもらえることも、こうして幸せでいることも、間違っているから」
 ぼくには意味のわからない話だった。
 歩みは淡々と続いている。
「後悔してる? ぼくといたこと」
「幸せになる自分を許せないだけです」
「自分で捨てたくせに……って?」
「私、ひとを殺したんです。数えきれないくらい何度も、数えきれないくらいたくさんのひとを」
 突拍子も無いことを急に言い出すからまた笑ってしまった。不謹慎かな、彼女は真剣なのに。
 前を見てひたすら進み、身体疲労に息を深くしながら、ぼくは淡い心地で考えている。彼女は悩んでいるようだけど、どさくさに紛れてぼくといたことを幸せだと言ってくれた。頑張った甲斐があったなあ、なんて思ってしまうのは的外れだろうか。
「おかしいじゃないですか。たくさんのひとから幸せを奪っておいて、私ばかり、優しいひとにただで優しくしてもらって」
「あはは、わかった。ぼくを殺せばいいよ。きみが悪いヤツのまま筋を通したいなら。ほら、死体遺棄にはちょうどいい場所だ。この先を行けばきみの目的もすぐ果たせるし、ぼくはもう要らないだろう。やってごらん」
「……」
「できない? おかしいね、きみの話が本当なら、きみはすっごく悪いヤツなのに。おかしいよね。色々さ、後から考えたら、筋なんて通ってないことばっかりだ。誰でもそうだよ。ましてや、きみはまだ幼いんだから」
 ぼくだって、おかしかったし、今もおかしい。疲れて余裕が無いからといってひとに素っ気なくしていたくせに、ひとから素っ気なくされれば怒りが湧くような人間だった。ぼくがこんなに頑張っているんだから誰か認めろよと願う傲慢で、他のみんなも同じように余裕が無いのだとは慮らなかった。そもそもさっさと疲れることはやめて逃げればよかった。よく寝てよく食べる、たったそれだけでこんなにも物事を考える余裕は戻ってくるのに、それができずにいた。夜の隅に青い目の少女を見つけるまで。
 そして何よりもおかしいのは、今、ひとりの見知らぬ少女のためだけに求職活動もせず貯金を減らしてこんな場所まで来てしまったことだろう。
 貯金の残高は細かく計算していた。──この片道でうまいこと底をつくように。
「おかしさをいちいち気にするよりは、幸せをめいっぱい喜んでほしいけどな、ぼくは」
 大人ぶったお小言を吐いたところで、ぼくらは目的地に辿り着いた。前触れなく視界が開け、巻層雲に透かされた薄青が上方を埋め尽くす。水のにおいがする。森の緑を吸った湖は凍てついてしんとしている。透明が光を散らすから水面ばかりが空よりも際立って明るかった。
 後ろを歩いていた少女がぼくの隣に並んだ。まぶしい湖面を前にじっと澄んだ目を開いていた。栗色の柔い髪に凍りかけの結露が伝った。
「さようなら」
 ぼくが先に言った。彼女はぼくを見上げると黙って頷き、白いマフラーを外した。幼いその顔がまた寂しそうに痛切に笑んでいた。
「……あと少しで、うっかり生きたくなるところでした。危なかったです」
「そりゃあ危ないな。早く行きなよ、決心なんてすぐ揺らぐものなんだから」
「そうですね」
 彼女はポケットからハンカチを取り出してそっとぼくの頬に押しつけた。ぼくはその手を数秒だけ握って、ハンカチを受け取って離した。うまくいかないものだと思う。愛するひとの最期が、どうにも滲んで見えないのだ。
「さようなら」

 そうして彼女は凍てつく水底へ身を投げた。 
 波紋に指先を浸せば絹のようにやわらかく、曖昧な感触で通りすぎてゆく。ほの青く白くうつろう光が目線の先で揺れては滲む。握ったその手は確かに温かかった。水流がどこまでも温度を浚っていった。

 ぼくは両の手のひらで冷水を汲み上げ口に含んだ。このひと月ずっと飲まずに溜めていた薬をすべて胃に収めて、背負ったリュックの肩紐を固く結んで重たい荷物が身体から離れないようにする。首もとにペンダントがあることを確認して、言葉にならない何かを祈る。水際に立つ。
 決めていた。
 理由なんて無くていい。絶望なんてしていない。おかしいままで構うものか。
 彼女と一緒に終わることを決めていたから、去られた捨てられた悲しみも恨みも、ぼくには無いと、断言できた。
 過不足無い人生だったと思う。普通に両親に育ててもらって、普通に学校へ通って、上京して大学も出させてもらって、都心に出やすく家賃の低い適当な都市で就職した。決定的な間違いや後悔なんて就職先くらいで、あとのことは何もかも悪くはなかった。だからといって、だからこそ、一度きりの限界は簡単に諦観を呼び起こして、簡単にこんなにもぼくを壊し、狂わせた。
 それとも狂わせたのは彼女だったのだろうか。そう思い始めると彼女のことばかり頭に浮かんでくる。明るい栗色の髪の流れ、下向きの睫、途方も無く透き通った空色の目、幼く落ち着いた声、決然とした話し方、キッチンに立つ背中の小ささ、膝を抱えて座る癖、恐る恐るフォークを握る白い指先、少しずつ増えた笑顔、ニットの質感、早まる足取り、笑った後にはかならず申し訳なさそうにうつむくこと。そういえば結局美味しいブドウを食べさせてあげられなかったな。
 弱った胃にオーバードーズなんてしたからすぐに嘔気がして何度でも飲み込む。せめて意識をうしなえるまで戻してはいけないと自らに言い聞かせる。湖畔、境界線にたたずんで眠気を待っている。涙はずっと止まらなかった。止まったら頬の上で凍ってしまうだろうからまあ、いいか。
 頭重を感じた辺りで薄氷の光る方へ歩き出す。自分の足が水を掻き分ける音がやけに大きく聞こえる。冬の森は小鳥も鳴かず静かだった。爪先から急激に侵食する冷気が身を切るようで大きく息をする。足を止めたら寒さで死ぬかも、と思いながら、死ぬために足を進めた。
 その時は間も無くやってくる。深みにはまればあっという間に身体が氷水に飲み込まれ、一秒だけ強烈な冷たさを、二秒目には熱さを感じて、閉じた目の裏に赤い光がはじけた。ぼくはぼんやりと急速に遠退く意識の片隅で祈っている。彼女の眠る地で、ぼくも一緒に眠るのだ。愛おしい。幸福だ。低くうなる水流が二人の死を祝福した。
 とても静かだった。
 とても。

「……駄目ですよ」
 静かだった。いつも静かだった。愛しい彼女の声は。水滴が頬を伝うのと同じ響きで、冷たくてやさしくて、そっと丁寧でかなしい。
「駄目ですよ。だって、ほら、あなたが行方不明になったら私も早く見つかっちゃうし……」
 狂った温感に雫が落ちる。身を切るような氷水であるはずなのに温かく感じてしまう。揺らぎのさなかに薄目を開く。巻層雲がいつの間にか晴れて鮮烈な青が見える。その中心で同じ色の目が、世界でいちばん透き通った青が、ぼくを見下ろしている。びしょ濡れの栗毛が凍りかけで寒風になびいている。森と雪のにおい。頭の下には少女の脚の感触。浮かんでゆく。意識が。やがて理解する。ぼくは死に損なったのだ、と。
「……どう、して」
「解毒しておきました。あなたはきっともう飛び込んでも死ねません。どうかこのまま帰って、私のことは忘れて暮らしてください。それが正しいんです」
「ぼくは、きみと終わりたかった」
「私はあなたを巻き込みたくはありません」
「どうして。どうしてだよ。好きにさせたのはそっちだ。最初に優しくしたのはそっちだ。約束は守ったんだから、あとはぼくの勝手だろ。だいたいどうして、きみは、まだ生きてるんだよ。時間は経ってたはずだ」
「私は、死ねないから」
 なめらかな指先がぼくの濡れた前髪を払った。
「意識をうしなうことだけはできるんです。息のできない場所でなら、私も、苦しいと思うことができる。だから深い水底でずっと、ずっと、全部を忘れるまでじっとしておく。今の私は前のことを覚えてはいませんけど、きっと何度もこうやって繰り返してきたんだと思います」
 ぱち、と独特な音がして視線を振る。見れば火種などどこにも無い傍らに焔が揺らめいている。朱い温度が濡れ鼠のぼくらをゆっくりと溶かしてゆく。見たことも無い近くで焔のかたまりがはじけているのに、不思議と恐怖は感じなかった。彼女の力だと直感したからだった。
「本当にぼくを助ける気なのか」
「かならず」
「じゃあ……、だったらきみもここにいろよ。どうせずっと死ねないなら、どうせいつか忘れるなら、きみにとっては同じじゃないか。だったら、どちらでもいいなら、ぼくと一緒にいてくれ」
 ごめんね、身勝手なことを言って。きみの傷つくかもしれない言葉を、何も考えず口にして。
「ぼくにとっては違うんだ。死ぬことも、死に損なうことも、きみがいるかどうかも、きみがたった一瞬幸せかどうかも、ぼくには全部、意味があるんだよ。だから」
 青の真ん中で少女が微笑む。真昼の木漏れ日がそよ風にまたたく。焔の朱が彼女の頬を照らしている。何もかも鮮やかだった。例えぼくが死に損なったまま何十年と生きたって、忘れることは無いのだろう。
 やっと感覚の戻ってきた手を必死で伸ばした。痺れの取れない指先を彼女が掴んだ。彼女の体温はいつも普通よりは低いけど、今のぼくには温かく感じる。無性に安堵して胸がひりつく。
「ごめんなさい」
 彼女はそう繰り返した。
「ここであなたについていっても、またかならず、世界に奪われてしまうから」
「どういうこと」
「自分で決めた終わりの方が、納得がいくってことです」
 幸せでした。
 彼女は確かにそう言って、ぼくの胸元のペンダントに触れ、大切そうにガラスの輪郭をなぞった。ぼくは見た。目の前で、透明が滲み、回り、瞬き、青に変わってゆくところを見た。
「遺していきます。だからどうか、ゆるしてください」
 最後まで申し訳なさそうにしていた。指先を包む温度が消え、焔が消え、森を覆う雪が消え、視界を真っ白に濃霧が埋め尽くした。霧が晴れる頃にはぼくの身体は回復していて、ゆっくりと起き上がり見渡せばもう彼女の姿はどこにも無かった。湿ったリュックサックが傍らに、青い宝石が胸元に、薬も所持金も底をつき。ぼくは誰もいない湖畔に立ち尽くした。遠い薄氷は溶け去って波紋を広げている。ここだけが春になったみたいだ。足はもう水面の方へは進まなかった。
 やがて、ぼくはきびすを返した。死ねなかった。死ねなかったから、生きるしかないから、暗くなる前に山道を出なければならないと思った。険しい道をのろのろと引き返しながら考えている。どうやって家まで帰ろうとか、どうやって生活を建て直そうとか。そうやってありふれた現実は本当の春が訪れた後も冷たいまま流れてゆくのだろう。

 終わりの来ない人生を彷徨う。いくつもの喪失はぼくを狂わせたくせに壊しきってはくれなかった。足取りは重たくて、息が上がって、ただ苦しいと思った。彼女を想った。冬空が晴れるたび、透いた青を目にするたび、ペンダントが揺れるたび、雪解けのにおいがするたびに思い出した。一度も涙をこぼさなかった少女に課せられた永遠と罪について考えた。一枚だけの写真を見る勇気が出るまで、長い、長い時間をかけた。真っ白な花を背に少女が笑っている。記憶は永遠をかけずとも急速に思い出になってゆく。一過性の病気のような恋と過ちが、幸福と感傷が、薄れゆくすべてを閉じ込めた青が。

「ゆるすわけ、ないだろ……」
 ぼくは言った。ただひとつ色褪せなかった宝石を握りしめていた。




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