[携帯モード] [URL送信]

見上げた空のパラドックス
エイプリルフール 日暮×青空+ルーモ

※絶対に不可能なifです




 春の日だった。花が満開だから出掛けようと提案すれば彼は二つ返事で快諾した。だって今は春休みだし、お花見に行きたいねって先月くらいからたびたび話していたから当然。

「日暮はさ、お花見って、わかるかな? こう、友達いっぱい呼んで、お菓子とかお弁当とか持ち寄って、みんなで広げて分けあったり、歌ったり、写真撮ったりするの」
「え、そこまでするもんなの?」
「そこまでできたらいいんだけどねえ。今回は二人で、手ぶらで、ふらっと行こう」

 数年も経てばほとんどのことを覚えていないこの同居人はいつでもあらゆる経験に乏しい。だからどこへ行くにもまず私が話をして、彼が聞いて、何かを間違えないように手を取り合って行く。間違っても別にいいんだけどね。どうせすぐ忘れる。
 昨晩のうちにアイロンをかけておいた春物のワンピースにやわらかな色のパンプスを合わせて、似合う? と問えばお決まりの肯定を返され。誰にでも想像がつくだろうありふれた流れのまま、私たちはきらきらとした白昼の電車へ乗り込んだ。近場にだって花の咲くところはたくさんあるけれど、どうせならちょっと遠出して遊びたいじゃん。
 車窓からもちらほらと花の彩りが見えるからそのたびはしゃいで彼に報告した。薄く水染みのついた窓に差し込む陽射しがまぶしくて、私たちは目を細めなくてはならなかった。

「今日はなんか楽しそうだな、青空」
「いつも楽しそうじゃない?」
「んー、授業中とかつまんなそう?」
「それは、うん、寝てるかも」
「だろ」
「だってさあ、私、中一のカリキュラム受けるの、いま覚えてるだけでも八回目くらいだよ? さっすがにもう全部わかってるもん」
「そっか。そうだよな、暇そー」
「中二に上がるのももう三度目かなあ……めんどくさーい」
「めんどくても来てよ、学校。俺が寂しいから」
「はいはい。お慈悲で行ってあげますけどねー」

 プラットホームに降り立てば生ぬるい風が髪を乱した。ちょっとトイレに寄って直して、改札を抜けてまたまぶしい陽光のもとに出る。駅前のロータリーには小洒落た形の花壇が点在して、どれも色とりどりだった。

「うわー、春の匂いだー!」
「走んな走んな、人混みだぞ」
「大丈夫だよ、私なら全部避けられるし」
「みんなびっくりするだろうが」
「確かに」

 ロータリーからバスに乗り込んでもう少し。目当ての公園は駅前にも増して人の群れに埋もれてうごめいていた。花見の名所、満開ともなればみんな考えることは同じらしい。私ははぐれないよう彼の手を握って並木の遊歩道を歩き出す。足元を覆う赤色の煉瓦はまばらに真っ白な花びらをかぶって模様みたいになっている。人の声と風のおと。どこからともなく香る甘い匂いと、緑の匂いと、美味しそうな匂い。

「おなかへってきた」
「なんか買うか。あっちに屋台あるっぽいよ」
「いいね、焼きたてのお団子〜」
「でもけっこう並びそう……」
「じゃ、急ごう!」
「おい走んなってば」
「公園で子どもが走んなくてどうするの」
「いや人混み……」
「はーい! 通りまーすよー!」
「うわ、ちょっと!」

 ぱたぱたとパンプスを鳴らして人波を縫うように駆け抜ける。追い風に乗ってゆく。スカートがなびく。訓練された我々がこんなところで人にぶつかるヘマをおかすわけもなく、息を切らすわけもなく、数十秒後には無事に屋台の行列へ加わっている。いい匂いがすぐ近くから強風で撒き散らされている。一種のテロだよ!

「お団子三種セット二つお願いします!」
「俺も食う前提なのか」
「とーぜん。私の奢りでいいよ」

 ウインクひとつ。ほかほかのお団子をふたパック受け取って列を抜けた。座る場所を探すこともなくさっさと一本咥えて歩く。
 目を細めて見上げれば、春嵐に揺らぐ木々が陽光を切れ切れに遮る。垂れ下がった枝の先で白い花がじっと身を寄せあって震えている。息を吐く。仰ぎ見る一瞬だけ、ふっと心が無音になって、ただ淡い花の色の木漏れ日に支配される感触がある。人々と風のざわめきを吸い込んで余りある静謐だ。静謐が並木道の続くかぎり頭上を覆っているから、だから、私たちは騒ぐのだ。

「美味しいけどひとり三本は多くない?」
「え? 食べきれないなら私がもらおうか?」
「夕飯少なめにしなきゃ」
「いつもの量でいいよ、日暮の料理も美味しいんだから」

 スマホを空に向けて写真を撮った。白昼の陽光が強すぎてかなり白飛びしたけれど、それはそれで、なかなかいい写真にできたような気もする。
 もぐもぐとひとり三本のお団子を食べ進めながらひたすらに並木道を歩いた。さすがに食べながら走り回るのはお行儀が悪いし、パックを抱えていると手が繋げないので、はぐれないよう大人しくしておく。
 公園は何本かの並木道が広場に向かう形をしていて、花のトンネルに閉ざされていた視界は歩き続ければふっと開けた。広場の中心には大きな噴水があるけれど今は水を出していないみたいで、縁をベンチ代わりに利用されて賑わっている。

「……、あの人だかり、なんだろ」

 隣でゴミを袋にまとめながら彼が言った。噴水の外周、私たちから見れば手前の方に人だかりができていた。
 ひとまずお団子を食べ終えてから人垣を回り込む。物言わぬオブジェと化している噴水を横目に覗き込めば、人垣の内側、ぽつんと腰かけた華奢な背中が見えた。真っ白な服を着て、やわらかそうな黄金色の髪をしていた。うつむいた手元に何かを抱えていて、人々の視線はどうやらそこへ向いているようだった。

(――――あ、)

 息をした。一歩、二歩、踏み込んでいた。つい先ほど繋ぎ直した手が離れていることに気がつかなかった。

「青空?」

 人垣のわずかな隙間をすいすいと泳ぎ渡って抜けていった。だいぶ後ろから彼の私を呼ぶ声が聞こえたけれど振り返りもしなかった。そうして一番前へ、どうしてか息を切らして踏み出した。やっと見えた。人々の視線を集めていたものを、私もこの目にとらえた。
 それは、絵、だった。
 膝の上に固定された画板の上、描かれている最中の、咲き誇る花の絵だった。空を覆う天蓋、木漏れ日の微細なうつろい、足元に散った白い粒、その全部の静謐。甘い香り。吹き荒れる風。画用紙の内側には誰ひとりの気配もなくて、ただ、ただ花が揺れていた。

「……、きれい……」

 描き手はずっと何も言わず紙に視線を落として手を動かしていた。けれど、今、顔を上げた。自然、一番前に立っていた私と目が合うことになる。
 ああ。春の色だ。と思う。
 芽吹きの色。たぶん和名で言うなら若草で、英名ならリーフグリーンだ。白昼の陽光をまっすぐに受けて輝く目は、しかと私を映して、瞬きをして、そして細まる。

「ありがとう」

 その人は柔い声で言って微笑んだ。顔からも声からも体格からも性別が判らなかった。肩まで伸ばされたブロンドの髪がさらりと流れて美しかった。
 やり取りはそれだけだった。その人はすぐにまた手元に集中して、魔法みたいに、美しさばかりを紙の中に閉じ込めていった。私は呆然と息を詰めてそれを見ていた。周りに立つ人垣がすっかり入れ替わっても、ずっとそこに立ったまま、描かれてゆく花を見ていた。

「青空」

 肩を叩かれても視線を外さなかったから、彼も諦めて一緒に見物を始めた。そんな時間が、空が褪せ始めるまで続いた。
 その人がようやく筆を置いた瞬間、長い夢から覚めたような、のめり込んだ本から顔を上げたような感覚がした。聞こえなかった周囲の雑音が一気によみがえり、冷たい風がスカートを揺らして身震いした。

「やあ、ずっといてくれたね」

 ペンを片付けながら絵描きのその人が穏やかそうに笑う。傍らに置かれた画板を、そこに貼り付けられたままの絵を、私はまだ見つめていた。

「すみません、とってもきれいだったのでつい」
「ふふ、うれしいな。でも本物がそこらじゅうに咲いてるよ。見なくてよかったの?」
「描かれるところが見られたのも、今だけでしょう?」
「まあ、そうかもね」

 その人は画板からそっと紙を外して、傾き始めた陽に透かすようにして描き終えた絵を仰ぎ見た。画面の至るところに花が咲いて、あるいは散っている。真昼を突き抜ける晴天の光を吸って、花はぼやけたり、影をつくったりする。
 風が強い。画用紙の端があおられて小刻みに震えている。あるいはこの公園の天蓋をなす花の枝も一斉に。すべてが春に震えている。

「ねえ、この絵さ、きみにあげるよ」

 柔い声は、公園全体を震わす嵐に消え入りそうな響きで、けれど確かにそう言った。

「……えっ?」

 描き手の顔を見る。柔和そうな若草の視線は私でもちょっと気圧されるほどまっすぐで強い。

「気に入ってくれたんだろう? 今だけの、縁だしね。記念だと思ってくれたらいいよ」
「受け取れません。あなたの絵は、私がもらっちゃうより、もっとたくさんの人の目にとまってほしいし」
「あはは、すごいこと言うね。でもごめん、ぼく本業は絵描きじゃないし、目指す気も特にないんだ。今日も息抜きに、ふらっと遊びに来ただけだよ。すてきなひとに見つけてもらって、よかったと思ってる」

 画用紙がそっと私に差し出された。受け取れず、困惑に任せて同居人の方を見やれば、彼は近場の空席に腰かけて悠々と花を見ているところだった。おい、助けろ。
 できないでしょう。こんな、唯一無二の、価値のあるものを受け取るなんて。私がいつまでこの世界にいられるか、いつまで物を適切に管理できるかなんてわからないのだから。

「私は……受け取れません」

 うつむいて繰り返した。
 差し出された画用紙が下ろされて、ほっとする。

「そっか」
「ごめんなさい。せっかくご厚意をいただいたのに」
「ううん。こちらこそ変な提案してごめんね。――きみは、きっと受け取らないよ。わかってるから、大丈夫」
「え」

 吹き荒れていた風が、刹那、ひときわ強まって、花びらが雪のように舞った。真っ白な花だった。目と鼻の先に、ひらりひらりと横切って、落ちて、なおも吹かれて転がってゆく。思わず目を閉じて、開いた。絵描きのその人は画板で絵を花嵐から守りながら、もう一度、ごめんね、と言った。

「きみたちを巻き込んでしまって。こんなのは本当に、ただの息抜き。遊びだよ。ぼくのためだけの慰めだ」

 あ、
    れ。
 ?
 見えない。
 見えない。視界が不自然にぼやけて、ぼやけたのではなく溶けたのだと認識し直して。花の色が、境界を超えて侵食する。一滴、こぼした絵の具が水に、視界に広がっていく。染め直される。あるべき姿へ。景色の全部が、そして目の前に立つ『誰か』が。
 白く。
 ああ『滅び』だ。今回はまたずいぶんと唐突だなあ。咄嗟にそう判断して辺りを見回した。唯一たいていの事情がわかる同居人と連携をとろうとして、彼の姿が見当たらないことに気がつく。あれ、もう巻き込まれて消えちゃったかな。
 絵描き『だったもの』はまだ私の目前に立っていた。やわらかそうなブロンドだった髪から、春を宿していた若草の目から、すっかり色が抜けて、かたちすらも曖昧になって、ただ白ばかりを纏っていた。それは、諦めをたたえて微笑っている、おぼろげな印象の塊のようなものだった。ふと強烈に、自分に似ているな、と感じた。

「きみのために描いたんだ。って、言えたら受け取ってくれた? 青空」
「……私の名前、どうして」
「あはは、」

 春の匂いがする。静謐が聞こえている。風が吹いている。人の気配が、ない。あの絵のままの世界に迷い込んだみたいだった。実際、迷い込んでしまったのかもしれなかった。
 すべてが花嵐にかきまぜられ。概念の境界がほどけてゆく。
 手を伸ばした。消えてしまうと思ったから。せっかく美しいものに出逢ったのに、寂しいなと少しだけ思ったから。伸ばした手は空を切って迷って、それから『何か』にそっと握られた。確かに、ほのかに暖かかった。

「大丈夫だよ。このことは全部、全部、嘘だから」


 別に本当でもよかったのに。


 気がつけば水のない噴水の縁に腰かけていた。パンプスの爪先に散り落ちた花びらがついている。顔を上げれば首がだいぶ凝っていて、自分が長いことここでうつむいて眠っていたのだとわかった。空が褪せ、人が少しずつ減ってきた時間帯で、ワンピース一枚では肌寒く感じる。
 隣に同居人の彼が座っている。というか、ゆらりゆらりと船を漕いでいる。こいつもやられたか。

「日暮、日暮。起きて」
「う」

 肩を揺すれば夕陽色の目が開かれ、ぼんやりと持ち上がって、私に焦点を合わせた。

「……青空……?」
「うん、ハロー救世主様」
「あー……意識が覚醒しきる前に別の呼び方すんな、バグるだろ」
「起きてんじゃん。おはよ日暮」
「おはよ。………、夢……」

 彼が呆然と呟いて深く息をついた。
 夢。
 言いたいことはわかる。私も彼も同じ現象に遭ったに違いない。夢をみた。いいや違う。『夢だったことにされた』のだ。大きな書き換えの痕跡くらいはわかるよ、私たちは異能者だから。
 何かを思いきり消し飛ばして、荒く修正した跡だ。大まかな形は保てど、元のものと比べればかなり歪んでしまっている。この世界はもう長く保たないのだろう。

「ね、どんな夢みてた?」
「すっかり忘れた」
「私も全っ然覚えてない」
「やられたな」
「やられたねえ」

 寒いからと手のひらを重ねて、寄り添いあって夕刻の遊歩道を引き返した。道が落ちた花びらで真っ白だ。風が強かったから今日だけでもけっこう散ってしまっている。花吹雪が起こるたび握った手が強く引かれて思わず笑ってしまう。消えたものがあっても私はここに残されていたのだから、今さら拐われることはないんじゃないかなあ。

「あ、屋台そろそろ閉まるみたいだな」
「よーしわたあめ買おう! ラスト駆け込みだ!」
「うおい走んな、俺を引っ張って走んな」
「あなたが手ぇ離さないんでしょうが」

 まあ、すべきことは変わらない。
 わざわざ直してもらった、ありふれた春の日だ。きっと、最期まで楽しめ、ということなのだろう。

「すみません! まだお店やってますか?」

 ありふれた日はありふれた日のまま粛々と進行しよう。今日は楽しかったと笑い合って、帰ったらいつも通りに夕飯を作って食べよう。新学期が始まるかはわからないけれど、春休みの宿題は一応やっておこう。何も変わらない。何も見なかったのと同じだ。
 それでも、
 大丈夫だよ。覚えているから。
 何かとても美しいものを見た気がする。その感傷の面影だけが、確信になって残っている。このたったひとつは、あなたにも消せなかったね。いいや、消さなかったのか。
 鼓動を打つたび、遺された感傷を思うたび、歪みの広がるおとがする。瞼の裏に整列するこの世界を記述する数式が、ぼろぼろと値を落としてゆく。システムの崩壊は次々とペースを増す。歪みは伝播する。仕方のないことだ。

「明日、来るかなあ」
「どうだかな」
「日暮さ、そろそろ私を殺してみない? また何年もかけてあなたを探すの、クソめんどくさいから」
「無理」
「あーあ、今回も失敗か……」

 真っ白なわたあめは、口に含めば甘さだけを残して消えた。


2023年4月1日

▲ 
[戻る]