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見上げた空のパラドックス
フラクタル

「あ! 青空ちゃーん! 傘いれてー!」
 ぶんぶん、と手を振ると冷やかに水滴を払う感触があった。路面が街明かりを反射して色とりどりにきらめく夕刻、ぼくは制服の上着を頭に被って水溜まりを跳ねる。
「ん。天気予報ちゃんと見なよ」
「ありがとう、助かったあ」
 同級生の青空ちゃんは転校生だった。さらさらのショートヘアにミステリアスな青い目は一見底知れないようなとっつきにくさがあるけれど、話してみればそんなことは無く、どんなしょうもない話もにこやかに聞いてくれる。あっという間にクラスに打ち解けた彼女はそのうえとっても親切で、今だって自分が濡れるのも気にせず濡れ鼠のぼくを傘に入れてくれた。
 雨の放課後。
 中学校からの帰路が同じなので、青空ちゃんとは部活の無い日によく一緒に帰っている。
「今日部活は? サボり?」
「サボり」
「珍しいね。どうしたの」
「部室で先輩が喧嘩してて空気悪かったんだもん」
「え、まじ? 大丈夫?」
「やー、でもうちの部員みんな仲良くないし、いつもだよ」
「大変じゃん」
「ほんとだよー。やめちゃおっかな」
 細やかな霧雨は風に乗って傘の内側へも侵入してくる。青空ちゃんの明るい栗色の髪が水気を吸って重たそうになっていて、彼女はそれがちょっと気になるのか片手で髪をいじりながら足を進めていく。
「美術部ってそんな仲悪いの?」
「なんかね、副部長が異能者だかで去年いじめられてたらしいんだけど、ちょっとやり返したら冷戦になったんだって」
「え、怖。よくみんなやめないね」
「部活強制加入だからなー。ぼくも美術部やめたらどこ行ったらいいかわかんないよ。他に体使わない文化部無いんだもん、吹奏楽とか絶対無理だし」
「おいでよ陸上部。一から鍛えたげるよ?」
「運動部は論外ですー。てか青空ちゃんは幽霊部員でしょ」
「まあね」
「うちあんまサボると圧かけられんだ、みんなだって行きたくないくせにさー」
「あ、そこ危ない」
「うわ」
 ぐちぐちとしゃべっていたら水溜まりを見逃して突っ込みそうになった。青空ちゃんが腕を引いてくれたから事無きを得たけど、彼女の真新しい制服の袖が今のでしっかり濡れてしまった。
「ごめん濡れたよね」
「別にいいよ、どうせもう湿ってるもん」
「みんなが青空ちゃんくらい優しかったらいいのになあ」
「あはは……ありがとう」
 優しいね、と言うといつも彼女は戸惑ったように笑う。落ちた消しゴムを拾ってあげるとか、日直の黒板の消し忘れを消しておくとか、彼女はそういうことを至極当たり前みたいにやるから、色んな子から優しいねって言われる。そのたび少しだけ視線を迷わせ、乾いた笑みを貼りつけてありがとうと言う。
 誰も追及はしなかった。褒められ慣れていないのかなと思う程度で。
 青空ちゃんに家族がいないと知ったのは、ほんの少し前、帰路でこうやって話し込みすぎて離れがたくなり、自分の家路を通り越して彼女についていってしまった時だった。彼女は鍵つきの診療所の前で足を止め、じゃあねと言って自動ドアを潜っていった。うちの学校は寄り道一切禁止だし、青空ちゃんが積極的にルールを破るタイプとも思えなくて、翌日になって聞いてみれば「入院してるから」、と。隠す素振りもなく答えられた。
「入院……? 何か病気なの?」
「健康体だよ。どうしてだろうね。検査したいんじゃない?」
 もしかして。
「青空ちゃん、異能者、なの?」
「うん」
「……ご家族は?」
「いないよ」
 どうして彼女は何気なく微笑んだままそんなことが言えたのだろう。うろたえてしまったぼくに彼女は目を細めてごめんねと言った。隠してるわけじゃないけど言う機会がなくて。嫌なら、距離置いてくれてもいいから。
 ぼくは一日だけ悩んだ。
 幼いうちに異能を発現すると、けっこう、そこそこの割合で、家族や友達なんかの身近なひとをうっかり殺してしまうことがあるらしい。もしも彼女がそうなのだとしたら、当然、怖い。でも普段の彼女は力の暴発も無く暮らせているように見えるし、無理に繕って優しく振る舞っているわけでないことは誰もが知っている。
 そんなことを考えてぼうとしていたら雨が降ってきた。傘を忘れてしまったし、学校に居残って部活の子に見つかりでもしたらサボりでなじられるし、思いきって外へ駆け出して、今に至る。
「ねえ、青空ちゃん……」
 味気ないビニール傘に閉ざされた空間で、呼びかければ彼女はわずかに首をもたげてうん、と言う。ぼくが昨日じゅう彼女に話しかけなかったことも服が濡れたことも何ひとつ気にしてはいない、見ようによっては冷淡な素振りだった。
「きみは優しいよ」
「何、急に、どしたの?」
「きみは優しい。みんな知ってる。ぼくが、知ってる」
「…………」
 彼女はぼくの方へちょっぴり傘を傾けたまま押し黙った。過る軒先に花がきらめいている。
「でもきみはそう思ってないんでしょ」
「なんか怒ってる? ごめんね、察し悪くて」
「怒ってない。……そうだ、青空ちゃん、今日このあと時間あったらカラオケ行かない?」
「いいの!? やった! ……じゃなくて。あなたは早く帰ってお風呂入りなよ」
「いいじゃん、すぐ着替えてくるからさ」
「駄目! 風邪引くよ?」
「ママかよー」
「家まで送るから」
 丁重な相合い傘で玄関まで送られ、ぼくは彼女にへらへらと片手を振った。それじゃあ明日こそ行こうね、と誘うと彼女は嬉しそうに頷いて、ひと集めておくね、と返す。ぼくとしては二人だけでいいんだけど、彼女は大勢でわいわいする方が好きらしい。話題の転校生は絵に描いたような人気者タイプで。うらやましいような、仲良くなれて誇らしいような気がした。
 まあいいかと思った。彼女の背景にどんな事情があっても、ぼくの知っている彼女は、ぼくの知っている彼女でしかないのだからと。

 校舎裏で彼女を見かけたのは部の先輩に呼び出されたからだった。部内はいつも居心地がよくなくて、各々が絵を描いているうちは静かでいいけれど、ひとたび誰かがやり取りを始めると途端に空気が悪くなっていく。だからぼくは目立たないよういつも部室の片隅でひっそりこっそり絵を描いては身を縮めてそそくさと帰っていた。ところが、たまたまぼくの描いた絵が美術の授業からコンクールへ行ってしまって、先輩に目をつけられたのだ。ぼくは怯えながらも逆らえず、ろくに話したこともない先輩に引きずられるようにして校舎裏へ足を運んだ。そこにいた先客が彼女だった。
「あ」
 気配に気づいた彼女が振り向く。名前通りの色の目がぼくを捉えて微笑む。先輩が隣で舌打ちをしてもその笑みは凍らなくて、彼女はすたすたとぼくらの前へ歩いてくる。
「奇遇だね」
「……ええと……、青空ちゃん、何してるの、こんなとこで」
「歌ってた」
 恥ずかしそうに笑って、彼女は黙ったままの先輩に目を向け、小さく会釈をした。
「何、あんた誰?」
「あっ、青空ちゃんはぼくのクラスメイトで……っ」
「ふうん。邪魔。消えて」
 険悪さを隠さない口調で先輩が言う。青空ちゃんはなおも何気ないままの素振りで、身を縮めるぼくと険しい顔の先輩とを見比べ。
「まだこんな古典的ないじめがあるもんなんですね」
 と、言った。
「は?」
 先輩が声を低くしてからぼくも意味を理解して耳を疑う。居合わせただけでも気まずいのだから、早く立ち去ってしまえばいいだろうに、な、なんでわざわざ煽ってるの!?
「すみません、要らない進言でしょうけど。人前で
大声で言えないようなことって、相当信頼できるひと以外には言わない方がいいですよ。特に暴言とかは」
「ちょちょちょっと青空ちゃん。やめようっ? 第一まだ何も起きてないし……っ」
「うん。そうだね。……でも、すぐに大きなことが起こるから。どうかお気をつけてくださいね、お二方」
 彼女は溜め息混じりに言って、そのまま片手を振って去っていった。先輩は唖然としてその背を見送ったあと、萎えたと叫んで何もしないでぼくを解放してくれた。青空ちゃんに助けてもらったのだろうか、よくわからない心地のまま、とりあえず今日を切り抜けて、ぼくはひとりだけの帰路をたどった。
 翌日の教室で会った彼女もやっぱりいつもと変わらない。つくづく何があっても動揺することが無いみたいだった。
 ぼくは放課後また校舎裏へ行ってみた。そこには想像通り青空ちゃんの姿があって、小さな声で、歌を紡いでいた。ぽつんと佇み校舎の壁に背を預ける彼女には、うきうきとマイクを握るいつものカラオケでの姿からは想像できない雰囲気があって、ぼくはつい言葉を呑み込んだ。彼女はぼくが来たことには気づいたはずだけれど歌声を止めなかった。遠くから運動部のかけ声や帰り際の生徒らの談笑なんかが耳を掠める、だけどここには静寂が満ちている。どこも見つめずに歌う彼女の声は淡白で、やわらかくて冷たくて、触れてしまえば指先の凍りそうな思いがした。
 ひと区切りして声が途切れ、青空ちゃんはふっといつもの顔をしてぼくに片手を上げる。
「や。どうしたの?」
「え……っと。あー、なんだっけ」
「会いに来てくれたの?」
「うん」
 そうだ。うっかり歌に気を取られてしまったけど、ぼくは青空ちゃんに言いたいことがあって来たのだった。
「昨日のことなんだけど」
「ああ。あのあと何かあった? 大丈夫だった?」
「それは大丈夫……青空ちゃんこそむしろ目つけられたりしてない?」
「今日は変な気配はなかったかな」
「よかった」
 彼女の隣に立つ。別に何が見えるわけでもない寂れた舞台だ。砂利とフェンスと室外機と。
「青空ちゃんさ、昨日ぼくのこと助けてくれたの?」
「そういうつもりは無いよ」
「……じゃあ実は空気読めない?」
「あはは。そんなにヒヤヒヤした? ごめんね。読まないんだよ。不機嫌な人にペース合わせたらろくなこと無いでしょう?」
「そっかあ……」
「ごめんね、私じゃ助けるにも責任取れないから。困ってるなら先生に言いなよ。その時は一緒に説明行ってあげる」
「……青空ちゃんってさ、大人だよね。良くも悪くも」
「うん?」
「距離、あるなあって」
 思ったことをぼんやりとしたまま口にして、ぼくは隣に立つ彼女を見る。真新しい制服の襟にさらさらと短い栗毛が触れている。
「……駄目?」
 青空ちゃんはミステリアスな青い目をついとぼくに向けて一言、そう問うた。
「私がこのくらいの距離だと、あなたは寂しい?」
 ぼくは答えに詰まって目を逸らす。足元の砂利を無意味に見つめ、つま先でぐりぐりと戯れに踏み潰す。考える。別に、彼女ともっともっと仲良くなって、親友になってみたいとか、そこまでのことを言うつもりは無い。無いけど彼女のことは好ましく思うし、良い友達のままでいられればうれしい。不意に距離を感じれば、まあ確かに少し、寂しいのだろうか?
「青空ちゃんとなら、異能者でも仲良くなれるのかな、って、思ってさ」
「仲良くしてるつもりだよ。足りない?」
「いや、うーん……。なんだろう?」
「ふふ。なんだろうねえ」
 ぼくが動揺するところできみはいつも微笑みを崩さないから。未熟なぼくらを差し置いて先や周囲を当然に冷静に見据えたようなことばかり言うから。歌声がとても静かでどこか寂しげだったから。ぼくはきみを遠いと思う。もう少しだけ近くへ行きたいと、思う。
「じゃあとりあえず、一緒に帰る?」
 青空ちゃんはあっけらかんと言ってぼくに片手を差し出す。
「……そうする」
 どうして校舎裏でひとりで歌っていたのかとか、ぼくが遮ってしまったけどもう歌わなくていいのかとか、問いは浮かんでも口にはできなかった。歌声を耳にしたこと自体が白昼夢だった気さえしていた。特別で、大切に思えて、踏み込めなかった。
 ぼくらは手を取り合って家路を歩く。会話はなぜか少なく、視線は互いを向いたり、信号機を見上げたり、足元に落ちたりする。
 その、道中だ。ありふれた遊歩道の片隅でのことだ。青空ちゃんが突然ぼくの手をぐいと引いて歩みを止めたのは。びっくりして見やれば、彼女は見たことの無い真剣な表情をして。
「ここは離れよう」
 その視線が、足元、少し先に留まっている。辿ってゆくと、なんの変哲も無い、どこにでもありそうな花が一輪、取り残されたように咲いている。純白の花弁を広げ、まっすぐに空を向く大輪の。
 ざらざら。唐突に耳鳴りがしてくる。まばゆい白に切り込まれたように頭が痛む。
「あまり見るとよくない。迂回しよう」
「え、何、これ……」
「ごめんね気づくの遅くて。体調悪くなってない?」
「えっ、えっと」
 強引に腕を引かれて遠回りの道に入った。花から遠ざかれば呆気なく耳鳴りも収まって、嘘みたいに普通の心地に戻っている。青空ちゃんが手を離す。
「なん、だったの……?」
「なんだろうね」
「ねえ、きみは、何なの? ──何を知っているの?」
 彼女は首を振って答えた。
「何もわからないよ。私にも」
 同じ花を見ることは二度と無かった。

 青空ちゃんはたったふた月だけぼくの学校に通って、すぐにまた転校が決まった。決まったというか、転入してきた時点で、長くはいないとわかっていたらしかった。あと二日でいなくなります、と急に告げられた時は面食らって、運動部の子達まで部活を休んでぞろぞろとカラオケに行った。彼女は別れを惜しむでもなく楽しそうにマイクを握っていた。歌声も弾んでいて、あの校舎裏で聴いた響きとは異なる。さよなら、元気でね、とはっきり告げた彼女に何人かが連絡先を聞いたが、彼女は私スマホ持ってないんだよねと言って断った。
 雨の日だった。
「あのさ青空ちゃん、ぼく、傘忘れたんだけど」
「いいよ、入れてあげる。忘れっぽいねえ。折り畳み傘持って歩けば?」
 きみとの急な別れがショックで忘れたんだなんて、言わない。
 フルーツパフェを囲んでわいわいと歌った彼女は機嫌よくビニール傘を開き、ぼくを傍らに招くとやっぱり少しこちら側へ傾けてくれた。ぼくはそっと束を握る彼女の手に自分の手を重ねて傘の傾きを修正する。
「診療所からも転院するの?」
「うん。もうできる検査はし尽くしたから、終わりなんだ。これも含めてね」
「これって」
「普通の生徒として普通の学校へ通ってみせること、だよ」
「え──?」
 水滴がビニールを叩いては下へ下へと伝い落ちる。傘の外側の全部が磨りガラスの向こうみたいに薄白く、現実離れして見える。いつもの地元、見知った路傍さえも。距離が反転している。圧倒的な異質を隠しもせず負った彼女の方が、傘を握るその小さくひんやりした手の方が、今はよほどまざまざとして、ぼくの近くにある。
 ぼくはただの中学生だ。ちょっと絵を描くことが好きで、ちょっと引っ込み思案なだけの。特筆すべきことなどその程度の、ごく普通の子どもだと思う。だからきっと彼女の隣に立つことは最初から不可能だったのだろう。そんな諦めと、でも、今まさにこうして隣にいるのだ、という確信とが、同じ質量で心に巣食ってゆく。変な感じだ。何もわからない。ただ、ただ彼女の手を握っている。
「……青空ちゃんにとっては、ぼくと仲良くしてくれたのも、何かのテストだったからやったことなの?」
「あなた割とナーバスだよね。安心して、毎日ほんとに楽しかったから。今までありがとう」
「もう会えない?」
「会えない方がいいよ」
 静謐を秘めた声はささやくようなのに、雨音に掻き消されはせず耳の奥へ届く。
「私は異能者だから」
「どういうこと」
「もうすぐ戦争になる」
 突拍子も無い、けれど彼女に告げられると真実味がある気がして、ぼくは戸惑いに視線を揺らす。せんそう、と聞いて真っ先に思い出すのは部室に蔓延る険悪な空気だ。誰もが怯えて、誰もが言い出せなくて、誰もがじっと守っている歪みのこと。部室の中だけにあったそれが急に大きくなって、頭上を、町じゅうを覆ったような、錯覚、空想。身震いする。雨に濡れると寒いなあ。
「花も咲いてたからなあ……この世界はもう、けっこう歪みが強くなってる。きっと始まっちゃえばすぐに崩れると思う。だから、気をつけて。今のうちに、後悔しないように」
「わかんないよ。何を言ってるの」
「ごめんなさい。最後に不安を煽るようなこと言っちゃった。大丈夫だよ」
 彼女が微笑む。唐突に気がつく。その微笑みの途方も無い空虚さに。目の前のひとを安堵させるためだけの、はりぼての笑顔だったことに。
 ぼくは本当に彼女の友達だったのかな。
「あなたはこれからも好きに絵を描いてよ。私、応援してる!」
「……あり、がとう……?」
 とうとう家の前まで来たところで、彼女は冷たい人差し指を立て、ぼくの唇にそっと押し当てた。ぴたり、額と額が合わさる。彼女の体温はいつもぼくより少しだけ低い。
「内緒ね。全部。誰にも言っちゃ駄目だよ」
「ん、……うん」
 それじゃあ、さよなら。
 彼女は絶対にまたねとは言おうとしなかった。異質の少女を雨垂れに閉じ込めた傘が離れてゆく。慣れ親しんだ自宅の軒先、ぼくはまたありふれた世界に戻される。呆気なく、流れるまま、彼女の背が遠くなって、アスファルトを跳ねる水滴の向こうへ霞む。
 それきりだった。
 平和だった頃の記憶だ。

 今も絵を描いている。描いていた。好きなことのひとつでも無ければとっくに逃げ出していただろう戦場の片隅で、目まぐるしく命の吹き荒ぶ大嵐のさなかで、震える手で筆を握っていた。紙さえあれば、いいや地面でもなんだっていい、描かなければと息が詰まった。明日は来るのだろうか。来ないのだとすれば、どうしてぼくはひとを殺しているんだろう。もっと他にすべきことがあるはずだ、したいことがあったはずだ、そう思い詰める暇なんてどこにも無いのに。筆を動かす指先だけがまだ声を発する。硝煙に嗄れた喉の代わりに心を繋ぐ。
 それも、もう終わりだ。
 今ぼくはどこにいるんだろう。慣れ親しんだあの町は、大切な友達と相合傘をした遊歩道は、まだ無事に残っているだろうか。季節も歴史も木々も家並みも人間も一緒くたに狂い消えるこの世界で、まだ何かを覚えていられるだけマシなのだろうか。ひりつく両手を見下ろせばかたちも保たず崩れてしまって、ああ、二度とは絵を描くことも叶わないだろうな、とだけ悟った。息をしている。息をしているだけの喉が、焼けるように熱い。熱い。涙が頬をなぞる感触だけが冷たくて心地いい。砂のにおいがしている。
 どう考えたって致命傷だ。じきに呼吸をうしなうのだろう。諦めに任せてどことも知れない地に身体を横たえ、ぼくは走馬灯に心を許している。かつての部活のことや、雨の日のことを思い出している。
 青空ちゃん。こうしてぼくが死ぬまで、あれから二度ときみに会えなくて本当によかった。きみに対して引き金を引かずに済んだことくらいは、よかったということにさせてくれ。
 なあ。
 異能者だって人間だよ。友達になれる。笑い合うことができる。そんなこと、誰だって知っているんだ。誰だって知ってる。きみは優しかった。本当だよ。本当のこと、だから──
「……え。まだ生きてる?」
 砂を踏む軽い足音がする。ぼくはろくに動かない首をぴくりと震わせ、視線だけ彷徨わせて声の主を探す。
 顔のすぐ前で足が止まる。簡素なスニーカーに覆われた小さな足だ。しゃがみこむ布擦れの音。久しぶりに見たような気がする、ちゃんと五体満足でひとのかたちをしたそれは、きっと原型がないだろうぼくの顔を注意深く覗き込む。
「……ぁ、」
「意識もはっきりしてる……? ごめんなさい。楽に殺してあげられなかったですね」
 どうして、
 どうして走馬灯に見たままの彼女がここにいるんだろう?
 またそうやって誰かのための笑顔を貼りつけて。見るからに疲れきったぼろぼろの出で立ちで。しかし鮮やかな手つきでナイフを抜いて。青い目がぼくを見つめる。不思議と全身の痛みが急速に和らいでゆく。
「……、ころして、くれるの?」
 ほっといたって死ぬ。わざわざ手間をかけるような暇、きみにだって無いはずだ。そんな顔色で。これほどの大規模な力を使った直後で。
 ねえ、きみは。
「ほんと、……やさしい、ね。そらちゃん」
 彼女がかすかに目を見張った。青が動揺に震えるところを初めて見た。一秒。透明な、たった一滴の涙が彼女のまなじりからぼくの頬へと落ちる。冷たい。決壊はその一瞬だけで、あとは何も無かったみたいに、彼女は慣れた動作で両手を振り上げる。
「ごめんね」
 いいんだよ。
 悪いのはきみだけじゃない。きみと、ぼくらと、廻りを狂わせた、この世界の全部だから。

 だからどうか、次は、次こそ、きみにそんな顔をさせないよう──




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