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見上げた空のパラドックス
宗教画

 新月の夜、曇天の下、完全な暗闇のさなかで確かに青色の蛍光を捉えた。生きているものは何も誰もいない巨大な森の死骸の真ん中で、ぼくは黙ってシャッターを切った。風も無いから深く黒い水面は一直線で静かだった。
 そこかしこが肉眼では捉えられないごく微弱な青い光を発している、ここが死の森と呼ばれ始めて数年、諦めずに調査を続けたのはぼくだけで、ひときわ強く光るこの沼に辿り着いたのも、そもそも光の存在に気がついたのもきっとぼくだけだった。水質や成分を調べれば、泥の混じりこそあれ驚くほど純水に近いということだけわかった。当然、生き物は棲んでいないようだった。

 棲んでいないと思っていた。
 その水底で少女を見つけるまでは。

 彼女はコンクリートで形作られた棺の中に眠っていた。泥のほかには何も無い水の底でそれを見つけた時の感覚を言い表すことはできない。重たい重たい棺の蓋に自然と手が伸びて、ぼくはそれを必死になって持ち上げた。横たわる少女を目に、死体かと思ってうろたえて、けれどその身体からはほのかに体温が感じられて。水を吸って重くなった衣服だけが薄汚れている。
 ──光の原因はこれか。
 根拠の無い確信を以て、ぼくは少女をほとりへと引き上げた。彼女には呼吸も鼓動もなく、瞼はきっちりと閉じられていて、それなのにぬるく熱を持ち、間接の固まったところも無ければ皮膚のどこも腐っていない。生きているのか死んでいるのか判断がつかない。そもそも人間なのかどうかすら。
 どうすべきかわからなかった。ぼくは試しに、眠るひとを起こすみたいに、小さな肩を揺すってみた。
 彼女はその一度だけ薄く目を開いた。
 死の森を満たす光に似た、青い色の目をしていた。

 神様なんて信じない。
 みんなは山の中の沼底には神様がいるのだと噂するけれど、ぼくのおばあちゃんだけは気難しい顔で首を横に振った。おばあちゃんは昔この限界集落でいちばん山に食い込んだところの家で暮らしていたからわかるのだという。あれは神様なんかじゃない、災厄の類いだ、と。思えばその頃から少しずつ、少しずつ森の草木は枯れ始めていた。温暖化の影響だろうと言ってしまえばそれまでの緩やかな変化だったから、誰も気がつかなかった。
 とにかく、何か人知を越えたものが山の中にはいるらしい。そんな話を聞いて育って、天の邪鬼なぼくは上京してから科学者を志した。専攻は生態系生態学で、この国の高山地帯における森林と土壌の循環についてを研究していた。たったの数年だけ。
 地元の集落に暮らし続けていた祖母が亡くなり、葬儀と遺品整理のため帰省した時、ぼくはあまりの惨状に言葉をうしなった。祖母がかつて暮らしていた家の裏山が見る影も無く枯れ尽くしていたからだった。興味本位で土を持って帰って調べた。虫や微生物の死骸、死骸、死骸ばかりで生きているものが入っていない。明らかにおかしいのに「何があったのか」はわからなかった。研究者の知り合いに土を送って回った。興味を持ってくれた人たちと一緒に現場を訪ねた。何もわからなかった。
 死の森はじわりじわりと勢力を広げ、また限界集落では住民がバタバタと亡くなり、見る間にあの辺りには生きているものがいなくなった。何か危険な化学物質でも蔓延しているのかと疑うが、それもまた見つからない。住民が亡くなったのはそもそも高齢だったからと考える方が妥当だ。
 徒党を組んでしばらくは死の森について調べようと試みていた。自治体にも状況を報告した。みなが、一度は事態を重く見るが、やがてはもっと大切なもののために関心をうしなっていった。住民のいない地域でのごく小規模な事態に粘着するより他にやるべきことがある。当然の反応なのかもしれなかった。ぼくはいつの間にか研究室を辞していた。住民のいない地域でのごく小規模な事態に粘着してしまったから。
 神様なんて信じない。この世の神とはつまり数理と自然法則のことであって、不条理は諦めなければいつかかならず説明できるはずだ。ぼくはひとりであの集落の近辺に移り住み、調査を続けた。

「ねえ、呪いはあると思う?」
 少女はいつの間にか呼吸するようになった。鼓動を打つようになった。けれど目を開くことも身体を動かすことも無かった。
 ぼくは彼女を連れて帰った。もしも彼女が本当に神様や災厄の類いならば、これから真っ先に死ぬのはぼくなのだろう。けれど体調が悪くなるようなことはしばらくしても起こっていない。
 森は、あの沼は、少女の消えたその日から光を収めた。今のところ死の領域が拡大してもいない。ぼくは試しにとかつての祖母の家の裏庭と少女のいる自宅のベランダとそれぞれに花を植えた。花はどちらも呆気なく芽を出して、なんの問題も無かったみたいに育っている。
「きみは本当に神様なの?」
 彼女が応えることは無い。脱力してそっと呼吸と鼓動を繰り返しているだけの、少女のかたちをした何かだ。食事や水を与えてみようと試したこともあったが咀嚼も嚥下もしてくれなかった。たぶん、やはり、生き物ではない。
 どうすべきかわからなかった。森がもう死の光に覆われていないことだけが成果だったけれど、事情が事情だけにかつての同僚に報告する気も起きなかった。誰も知らない。誰も知らなくていい。ぼんやりと山間部に暮らしたまま、ぼくは塾講師と家庭教師をかけ持ちしてどうにか生活を繋いでいる。
 朝起きた時、出かける時、帰ってきた時、眠る時、少女にかならず声をかける。明日は晴れるらしいよとか、今日は野菜を買っておかなきゃとか、また物騒なニュースが増えたねとか、担当の生徒がマイペースで困るとか。聞こえているのかわからず、答えてくれるわけもないけれど、ひとのかたちをしたものがいるのに無視して生活するのも気味が悪かったのだ。
「ねえ聞いて、きみが眠っていた沼の様子を見に行ったんだけど」
 少女は今日も人形のように動かない。人形よりはひとに近い。
「周りにミツガシワが咲いてたんだ! 死んだあの森に初めて自生した植物だよ! すごい。どうしてだろう。種も根っこもあの場所では生きちゃいなかったはずなんだ。どこか近くの山から運ばれるにしてもなかなか……」
 ただ、ただ、規則正しく静かな呼吸が続いている。ぼくはそのリズムを耳に留めて生活を続ける。研究職を辞したことをたまに後悔して、喪失感を噛み締める夜もあるが、それも決して慢性的なものではなかった。なぜだろう、説明のつかない不条理を部屋の片隅に置いている今の生活を、苦に感じてはいないのだ。

「先生! こんにちは!」
 町のスーパーで教え子に話しかけられたのは、水底で少女を拾ってから一年ほどした頃のことだった。
 上京して理系の大学に進みたいからとぼくを家庭教師に指名している子で、はつらつとしていて話しやすいけれど勉強に関してはなんともマイペースな、ちょっと手を焼いている生徒だった。
「こんにちは。奇遇ですね。お買い物ですか」
「先生、住んでるのこのへんなんだ! へえー! あ、今日はね、よそんちで遊ぶからついでにアイス買いにきたとこで」
「それはいいですね。たまには遊ばないと。でもちゃんと勉強もしてくださいよ。この前の宿題、来週までですからね」
「えー、業務時間外なのに堅いなあー」
 じゃあね! と笑顔で手を振って去っていく。さようならと言って見送る。
 講師の仕事は、子どもの相手をするという意味では向いていないと思うけれど、勉強を教えるという意味では苦手ではない。生徒もつまんないと言いつつわかりやすいとは評してくれる、そういう感じだった。手を焼いてはいるけれどどうしても嫌だと思うことは無くて、なんとなくこのままのんびり続けてもいいと思っている。
 帰宅する。ただいま、と少女に声をかけて、買ったものを冷蔵庫に詰める。ベランダの花に水をやる。一年かけて築かれたルーチンは淀み無く、少女の呼吸と同じ静けさと曖昧さで、ふわりふわりと、ずっと続く。
「スーパーでばったり教え子に会ったよ。友達とアイス食べるんだって。青春だな。それはいいけどこの前の宿題ちゃんとやってくれてんのかな。絶対やってないよ、あれ」
 少女の薄い栗色の髪を手櫛でそっと梳いた。一年前からショートヘアのまま変わっていない。子どもにしては少し低めのぬるい体温のまま、触れても何も変わらない。

 明くる日の朝のことだった。目を覚ましてカーテンを開けて、少女に向かっておはようと声をかけた時のことだった。
 目が合った。
 目が合った。一度しか見たことの無かった彼女の青い目がしっかりと開かれて、こちらを見ていた。
「おはようございます」
 少女の。声を。初めて聞いた。起き上がったばかりのぼくは腰を抜かしてベッドに座り込んだ。朝陽が白くてまぶしい。白に青だけが焼きついたように思考を浚って視線が迷う。ふとあの沼の水が異常に純水に近かったことを思い出す。耳に澄んだ声の残像がぐるぐると木霊している。
「はっ、え……? お、起き……て……?」
 少女はまばたきをした。頷く動きに合わせて、その呼吸がかすかに揺れた。
「え、えっ嘘きみ、動くの!? しゃべれたの 起きられるの!? ヒトじゃん!」
 すごいすごい、生きてる、マジか、と子どもみたいにひとしきり驚いてから、しまった取り乱したな、と思う。思うけれど、こんな非常事態に正解の振るまいなんてわからないのが普通だろう。
「……私、どのくらい眠っていましたか?」
「へっ、あ、ぼくがきみを見つけてからは三九七日目、だけど。あの森の異常を考えるならおそらく二十年、くらいは? きみが沼底に眠ってた可能性が、考えられる、かな……?」
「そうですか」
 少女は幼く透き通った声で簡潔に答えると、しれっと立ち上がって腰の抜けたぼくに小さな手を差し伸べた。恐々として握ってみるといつもの少しひんやりした手のひらで、無性に安心する。
「朝から驚かせてごめんなさい。立てますか」
「…………きみって人格や利他行動もあるの?」
「はは、さっきからちょっと失礼ですね」
「そんな判断まで!?」
「あの」
「あ、っと、ごめん。だってその、なんていうかほら、生き物だと思ってなかった、から……これも失礼か……?」
 じゃあなんだと思っていたのだろう。ぼくは彼女を。災厄。神様。怪異のようなものだとは疑いこそあれやはり信じきれなかった。生き物ではない。人形でもない。人間なわけもない。けれども、ぼくの暮らす部屋の片隅に、終わってしまった研究の残滓の果てに、彼女はずっといた。静かに呼吸をしていた。鼓動があった。ささやかで規則正しいリズムは、名前も言葉も無くとも、確かにこの日々を支えていたように思う。
 少女はふっと微笑むともう一度ごめんなさいと口ずさんだ。
「そうですね、すみません。生き物に思われないようなことをしたのは私だ」
 笑った顔はどこにでもいる女の子のそれで、しかしどこか痛ましいような響きを持っている。有り体に言えば、自嘲気味な。
「……ええと、話聞きたいな。ちょっと待ってバイト休むから」
「え、駄目ですよ。行ってください」
「無理無理、気になりすぎて仕事にならないし」
 ベッドに正座し前屈してつらそうな声音を演出しながら仮病を使って休みを取った。素直に呆れた顔をする少女に、朝ご飯食べる? と聞いてみると少しの逡巡のあとに頷かれた。
「え、食事も可能なんだ!? 消化器官あるの!? 代謝できるってこと……!?」
「……」
「あぁ……えっと……パンでいい? うち飲み物は水しか無いんだけど」
「大丈夫ですよ」
 少し落ち着こう、と思って黙々と朝食を準備した。いつもよりだいぶ丁寧に、食パンの角までバターを塗った。少女のかたちをした何かは、目を覚ましてしまえば人間の少女そのもので、ぼくには扱い方がわからず困る。
「ねえ、きみは、」
 こつん、と皿をデスクに置いて、少女がありがとうございますと会釈をする。ぼくは彼女の向かいに浅く腰かけて、考える。
「……神様、なの?」
「私がですか」
「うん。村のみんなはそう言ってた。もうみんな死んじゃったから、たぶん覚えてるのは、ぼくだけなんだけど」
 山奥の沼底に神様が棲んでいる。そんな話を聞いていたから、あの光る沼を見つけた時、底まで潜ってみようと思い至ったのだ。そうしたらコンクリートの物々しい箱が沈んでいて、開けたら少女が眠っていた。おばあちゃんが災厄と呼んだ、その正体を、ぼくはこの目で見た。
 少女は一口パンを齧り、小さな口でしっかりと咀嚼してから、視線を落としたまま答えた。
「崇めたければ、神様でもいいですよ」
 幼い声であまりにも淡白に話すから、違和感が強くてなかなか話が入ってこない。ぼくは彼女の言うことを取り逃さないよう何度かその声を頭の中で反芻しながら話を聞いていく。
「どう思うのも、あなた方の自由です」
「……自認は?」
「さあ? 長いこと眠りすぎて記憶も曖昧ですから」
 少女はいたずらっぽく笑って肩をすくめる。ひとらしい仕草をする、けれど、声は感情の抜け落ちたように淡白なままだった。
「身体構造なら、まるきり人間です。食べたら排泄しますし、玉ねぎ切ったら涙も出るし。でも、傷がつきません。病にかかりません。年をとりません。心臓が止まっても息が止まっても、首が離れても平気です。それだけ、ですよ」
「そんなのおかしい」
「ええ、おかしいです……」
「きみが眠っていた森が枯れたのはどうして?」
 問うたところで、さらさらと続いていた会話の流れが、ほんのわずかに止まる。
「枯れた……?」
 彼女が眉を潜めた。
「森全体が数十年かけて枯れたんだよ。土壌も水も豊かなはずなのに、生きてるものはみんな死んで、よそからの生き物も入ってこない。まるきり循環しなくなっていた。原因は不明だ。そして、微生物の死細胞が一定の割合で微弱な青い光を発していて……光のいちばん強いところに、きみが眠ってた」
「……」
「きみを連れ出したら森の死が止まった。花が咲くようになったんだ」
「異常な物質とかは検知されませんでしたか」
「されなかったよ。死細胞がたまに光っていた、それだけ。ちなみに、今のきみは光ってない。最近は測ってないけどたぶんね」
 彼女はパン一枚をもそもそと食べ終えると水を一口飲み込んだ。細い喉が上下するのをついまじまじと観察してしまう。生きた人間と同じ仕草で難なく食事をしている。
「……私にも、わかりません。でも、それならきっと私が枯らしたんですね」
 彼女はそう言って青い目を伏せた。幼い声音も変わらず空虚なままだから、うつむかれるとどうにも寂しげに見えてしまう。ぼくは言葉に迷って、とりあえず己の分のパンを口に押し込む。様々なことに思考をとられているから味はわからない。
「……あの、ひとつ質問です」
「うん?」
「この世界、異能者の存在は認知されていますか?」
「へ」
「……いえ。すみません。忘れてください」
「なんだよ、気になる」
「本当に忘れてください。下手に覚えると、場合によっては命に関わるので」
「え、何、こわ」
「いいんです」
 半分ほど水の残ったコップをデスクに置いて彼女が視線を上げる。朝陽のさす部屋の中心、柔い栗色の髪がさらりと光る。決して彼女の顔が非常に端正だというわけではないのに、水面の揺らぎひとつまでもが、彼女のために在るみたいに絵になっている。何度も観測した死の光より透いた青が、まっすぐにぼくを捉えている。
 ──きれいだな。生きている彼女は。
 ふと無性にそう思った。
「いいんですよ。わからないことは、わからないままでいい」
 言い聞かせるように、刻み込むように、彼女が紡いだ。ぼくはまばたきをした。
 それじゃ、ごちそうさまでした。御粗末様でした。あっさりとしたやりとりに目を覚まされ食器を下げる。彼女という波に浚われかけた意識を掴み直すように蛇口をひねり、冷水に触れる。思考を再開する。
「……つまりだよ。きみは、よくわからないけど不老不死で、よくわからないけど森の死の原因だったっぽくて。よくわからないけど、今は害のない女の子だ。そういうこと?」
「たぶん、そうです」
「それじゃあ、どうしてきみがあんな辺鄙な沼底で棺に入っていたのかも、わからない?」
「水の中がいちばん長く意識を失えるからです」
 即答された。そこはわかるのか。二枚だけの皿を濯いで蛇口を閉めると存外に大きく金属のこすれる音がした。朝の静寂が際立つ。
「眠っていたいのかい?」
「できれば永遠に」
「そういうものかあ」
 ぼくは研究者だ。研究者だった。だから、そういうものかと思考停止して謎を受け止めてしまうこと、わからないものをわからないままにしておくことへの抵抗感を、少なからず持っている。けど。人間の女の子を相手に、言いたくなさそうなことをわざわざ深掘りして聞くのは、さすがにぼくだってどうかと思う。だから話を切り上げた。
 選んでしまった。
 解明よりも、彼女を。
「ぼくが無理に起こしてしまったのなら、悪いことをしたね」
「ええ」
「別にさ、目覚めたくなければ、ずっと眠っていても大丈夫だよ。ここで。きみはもう一年もそうしてたんだから」
「眠っていてほしいですか?」
「そういうわけじゃ。ちょっと戸惑ってはいるけど」
「……面倒をおかけしました。もうご用がなければ、私はこれで、またどこか遠くへ行こうかなと、思うんですけど」
「それは嫌だ。きみはひょっとすると神様かもしれないんだよ? いつかまた災害を起こすなら、ぼくが調査できるところで起こしてほしい。その時は今度こそ解明させてくれ」
 少女は初めて驚いた顔をした。青い目が丸くなってぼくを見る。あれ。ぼくはなんだか恥ずかしいことを言った気がしてきて、目を背けた。部屋の隅に目をやると本やら書類やらが無造作に積まれていて汚い。院生時代からの遺物を捨てられないまま持ってきているからだ。捨てることがつくづく下手くそだった。未知なる可能性への執念を捨てることが。けれどなぜだか探求よりも彼女を優先してしまえたし、だからこそ──。
 彼女がただの女の子でも、人間でも人形でも、災厄でも怪異でも神様でも。どの可能性も、暴くのはぼくであってほしい。ぼくが見つけたのだ。誰もが見限って離れていった限界集落の最奥で、ぼくだけが、この美しい未知を見つけた。
「……ふふっ、あはは」
 少女は笑った。
「わかりました。そういうことなら、ここにいます。お世話はしなくていいですよ。今まで通りで」
「えっいいの」
「はい。だから、私がまた何かを殺しそうなら、殺してしまったら──、その時はあなたが暴いて、止めて、裁いてくださいね」
 少女は、泣きそうに苦しそうに笑って、きっとすっとんきょうな顔をしているだろうぼくを見上げた。そんな顔をされてもどうすればいいかなんてやはりわからない。完全に専門外だ。
 考えをまとめよう。まとまるものでもないけれど。どんな突拍子も無い想像も、怪異にも近い彼女になら許されるはずだ。
 彼女は、沼底で眠りについたのは意識をうしなうためだと言っていた。永遠に眠っていたいとも。生きていてもろくなことが無かったのだろうとまでは推測できる。それなら、何が彼女をそこまで絶望させたのか。その答えもまた片鱗を察してしまえた。裁いて、と懇願する目は、純水の深淵にも似た澄みきった闇を湛えていて。

 罪悪。自責。
 そんなもの、神様が抱いていい感情じゃないよ。

 手を伸ばした。朝食の席に座ったままだった少女を不器用に抱き寄せていた。どうしてそんなことを、と問われたらうまく答えられない。目が合った。青。沈んでゆくのだと錯覚した。命の無い純水の奥底へ、すべてが引きずり込まれてゆく。
 唇を奪っても彼女は拒まなかった。驚きに跳ねた肩はすぐ力を抜いて、小さな手がぼくの襟元を握る。離れないでいてくれたことにこっちがびっくりして顔を離す。少女は平然としている。
「……神様に手、出すんですね?」
「ええと、ごめん。祟らないで」
「社会通念に祟られるんじゃないですか。私、十二歳なので」
「じゅうに!? 嘘、出頭しなきゃ」
「冗談ですよ。百年は生きてますから。成長は十二で止まってますけど」
「議論の余地があるってことは実質アウトだよ」
「忘れたことにしてあげます」
 彼女はからかうように言った。とりあえずその笑みから苦しそうな素振りが消えたことだけは、まあ、よかったことにしよう。ぼくは頭を冷やすとして。

 教え子が受験生ともなるとシフトの時間が長くなる。その分お金をもらっているから文句は無いわけだけど、やはりぼくの授業はつまらないみたいで、ああだこうだ休憩だと日夜ごねられている。
「先生もさあ、眠くならないんですか? 毎日お勉強ばっかりでー」
「昼間に眠くならないだけ夜に寝ればいいんですよ」
「そういう問題じゃなくてー。ヤマもオチもない映画見てる時とかさ」
「勉強は全編がヤマでオチですから」
「そういうとこだよ、先生」
 つまんないつまんないと嘆かれつつ、ぼくが嫌われているわけでもないようなので、傷つき半分呆れ半分、今日もぼちぼちやっている。教え子は集中力こそ乏しいが呑み込みが悪いわけでもなく、この調子なら第一志望にはギリギリ、第二志望には余裕をもって受かりそうだ。
「そろそろやる気ゲージ下がってきたよ先生ー、遊びに行きたいよー」
「二週に一日くらいならいいんじゃないですか」
「三日に一日がいい……」
「それは、落ちますよ」
「歯に衣着せてよね」
 よく笑う生徒だった。今年に入ってさすがに焦っているのか、数分も文句を聞いていれば自分から課題に戻るので、ぼくももうしつこく勉強しろとは言わない。
 少女が目覚めた日からは半年ほどして、季節は晩冬だ。結局、生活は相も変わらず、同じ場所に住んで同じルーチンで花を育てて、朝晩には少女に声をかけている。彼女は目を開かない日もあれば言葉を返してくれる日もある。ぼくが気まぐれにお菓子を買った日には食べてもらうこともあるけれど普段から食事はしない。そもそも起き上がることがほとんど無く、当然、外に出たがることも無い。シャワーはたまに浴びてもらう。そういう感じだ。
「ねえねえ先生」
「はい」
「モチベほしいので大学生活の楽しかったことの話してください」
「研究の話でいいですか?」
「よくないよくない。先生モテなかった? 合コンとか行った?」
「はしゃぎたいならもうちょっと学部を考えた方がいいんじゃ……?」
「ちょっとお、現実の話は聞いてません。夢見せてよ夢。ていうか先生、環境学なら時間あったでしょ。何してました? 暇な時」
「本をめっちゃ読んで山にめっちゃ登ってましたね。自然が好きで」
「実質研究じゃん」
「研究が実質娯楽なんですよ」
「そういうとこだってば」
「今は苦手科目もやらされますけど、受かればあとは好きなことだけできるってことですよ。頑張ってください」
「はーいがんばりまーす」
「最近、素直ですね」
「もともとですうー」
 へへ、と笑って教え子は終了時刻まで黙々と机に向かった。ぼくは、今日は打ち込んでくれてよかったな、なんて思って機嫌よく買い物をして帰った。眠る少女にもその話をした。今日は生徒さんが真剣に取り組んでくれてよかったよ。彼女は目覚めなかったけれど、ぼくは穏やかな心地でいるばかりだ。どんなかたちでも彼女がそこにいてくれることがうれしい。
 数週間に一度、あの森の様子を見に行く。今度は枯れ木の足元にスノードロップが群生して咲いているのを見つけた。思わず写真を撮って帰って少女に伝えた。写真を見てくれ、と肩を揺すると目を覚ましてくれて、雪影に埋もれるようにして咲く純白の花を目に、きれいですね、と青い目を細めてくれた。見つけたものを共に見てくれるひとがいる、そんな贅沢なことはこれまであまり無かったから、うれしくなって件の写真をスマホの壁紙に登録した。白い花が目に入る度、少女のことを思い出している。
「先生先生ー、最近頑張ってるからなんかご褒美くださいよ」
 と教え子が言い出したのは、すっかり春めいてスノードロップが枯れ落ちるくらいの頃合いだった。
「お菓子とかでよければ、買ってあげますよ。何がいいですか?」
「んー、それでもいいんだけどー……、一緒に山とか登りません? きっと面白いと思うんですよね、先生がいたら」
「個人的な交遊は禁止です」
「マジ堅いなあ。じゃあ、来年! 契約満了して受験終わったらハイキングしよ? 先生の生態系オタクトーク、聞いてみたいもん」
「ぼくはいいですけど、ご両親にはくれぐれもご許可をいただいてください」
「へいへーい」
 教え子はそのまま、うだうだと文句を垂れながらも順調になすべきことをなし、あっという間に志望校に受かってしまった。
 その間もぼくはやはり変わらなくて、部屋の片隅には彼女が眠っていて、ずっと、ずっと穏やかなまま、森に増えてゆく花の記録を取って、ご飯を食べて、眠って、起きて、ずっと。研究に猛然と身をやつしていた頃の自分からは想像もできないような静かで規則的な毎日が悪くなくて、喪失を思い返す日にだけ彼女の手を握らせてもらって、そんなどこか不思議で淡い生活が、ずっと。

 続くのだと、思っていた。

 神様を水底から連れ出したあの日、祟り殺される覚悟だって少しは決めていた。死んだっていいから、ぼくだけが求めた未知の解答に触れたかった。どこかで終わりが来る、それくらい、想定できないわけは決してなかった。
「……あれ、ねえ先生、今、誰かいませんでしたか?」
 動けない。呼吸の仕方を忘れて喉が詰まる。見開いた瞼が痙攣している。見慣れた、見慣れた自室だ。物が多い。結局何ひとつ捨てられずにいたぼくのすべてがこの部屋にある。研究に使っていた精密機器も保管している。ベランダには今日も花が咲いている。外は、快晴だ。あの少女の目と同じ青に、スノードロップを溶かしたみたいな純白が泳いでいる。
 ただ見当たらなかった。
 ぼくの。ぼくだけの、たったひとつの、美しい未知が。いつもかならず部屋の片隅にいてくれた少女の姿が。違う。見当たらないではない。目の前で、確かに、消えた。ふっと映像から削除されたように、すべてが嘘だったように、突如として消えた。
 教え子とのハイキングの約束の日である。昨晩のぼくは帰るなり少女を揺り起こして、明日はちょっといったん荷物を取りにひとが来るから起きていてと伝え、万一の時のため口裏を合わせておいた。そうして今朝、ついさっき、彼女は自分で目を覚まして、教え子を迎えに出るぼくに小さく手を振ってくれたはずだ。たった今玄関を押し開けた時だって、ベランダの花を眺めていた青い目をこちらへ向け直して微笑んだはずだ。覚えている。見た。この目で見たはずだ。今。今、見たのに。
「って先生? 先生、大丈夫? もしかして体調悪い……?」
 背後に立っていた教え子が心配そうにぼくを覗き込む。自分でも血の気が引いていることはわかった。おかしいな。どうしてこんなにも動揺してしまうのだろう。彼女が見当たらないのなら探せばいいだけの話だ。ぼくは未知への探求にかけては執心のある奴で、何年かけても諦めずいられる、そうだったろう。どうして。こんなにも決定的な喪失を錯覚するのか。わからない。何もわからない。
「す、みません。今日はちょっと……また、日程決めましょう」
「そうしよ、先生ほんと顔色やばいよ。ほら、お弁当置いてったげるから、今日は家事とかしないで、これ食べてください。次会う時に箱洗って返してくれたらいいんで」
「や、さすがにそこまでは」
「ほっとけません。てか介抱していいならしますよ?」
「いやちょっと……」
「じゃ、絶対また連絡するから。しっかり休んでくださいね」
 教え子はぼくをベッドまでぐいぐい押していき、デスクに自分の弁当を置くと、それでは、と笑った。今日を楽しみにしていたのだろう、ひどく寂しげな笑顔だったから、消えた少女と重なって痛切な思いがした。二年も一緒に暮らしたけれど交わした言葉は多くない、彼女はそれでも、ぼくの。ぼくの、なんだったんだろう。彼女は結局……?
 触れたい。それだけ思った。もう一度だけ触れたい。子どもにしてはひんやりとしたあの体温に、乱れたことの一度もない呼吸に、静謐ばかりを灯す透明な声に、鼓動のリズムに。触れたい。彼女がいない。いつだってそこにいてくれたのに。ずっといてくれたのに。
「……、う……」
 ベッドに座り込み、くらくらとする頭を押さえる。玄関で靴を履きかけていた教え子が振り返った。
「先生、やっぱり」
「いい。悪いけどひとりで休ませて」
「……またね。お大事に」
 初めて使われたタメ口に戸惑ったような間があって、しかし教え子はやわらかな声で挨拶をして去っていった。よくできた子だと思う。消えてしまったあの少女もまともに目を覚まして生きようとしていればあんな風だったのだろうか。一度重なるとどうしても考えてしまった。はつらつとして友人とアイスを食べたり、勉強がつまらないと文句を垂れたりする彼女も、どこか遠い過去にはいたのだろうか。
 苦しい。
 倒れ込む。息が下手くそで仕方が無い。
「ぼく、は、ぼくは、」
 だらだらとシーツに涙が落ちてゆく。
「ぼくは、きみを、見たい」
 観測したい。誰からも定義さえされ得ない曖昧なきみをこの目で見つめたい。できれば触れたい。たまには声も聞きたい。そうしたらきみの存在は確定する。ぼくの、愛しいひと、として確定する。それだけでいい。目覚めてくれなくても笑ってくれなくてもよかった。観測したかった。そんな些細なことすら赦されないのか。彼女が神様だから? そう、か。
 酸欠に痺れる手でスマホを引き寄せる。壁紙はいつぞやのスノードロップのままだ。彼女がきれいと言った花に縋りつくように端末を抱き締める。大丈夫、この喪失感は今だけで、明日になればどうせぼくはまた日常に戻るだろう。死から脱したあの森の観察を緩やかに続け生きてゆくだろう。彼女を探す暇はあるだろうか。やめようかな、仕事。いいや駄目だ。思い出してしまう。バイトを休むと言ったら彼女は呆れたんだ。やっぱりこれからも行こう。神様の望まないことをして祟られたら嫌だしなあ。

 森が息を吹き返してゆく。エサだらけなものだからどんどんと近隣から生物群が流入し、順調に循環し出している。落ちた枯れ枝をめくれば虫が、枯れ木のうろには小鳥が、あの沼には水草が生え出した。もう大丈夫なのだろう。
 命の無い純水に今でも溺れているのはぼくだけで、もうみんな先へ行ってしまった。いつもそうだ。いつも置いていかれる。だけど追いつきたいと焦るのも性に合わない。ぼくが欲するのは孤独の緩和ではなく、問いだ。向かってゆける未知だ。問いが、未知が、神秘が好きだから自然が好きだった。何もわからないからあの少女が好きだった。思えばそれだけだった。
 ぼくはぼくだけの絶望を抱えてゆく。心の奥底で深い水流の音がする。指先はいつまでもあのぬるさを探している。白い花を見かければ写真を撮る。呼吸の仕方は、いつの間にか思い出した。

「……どうして、消えてしまったの」

 彼女は今も答えない。
 きっと永遠の、ぼくだけの未知だ。




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