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見上げた空のパラドックス
糸を手繰る

「助けに来たよ」

 くすぶる焔の海を掻き分ける。言い表したくもない悪臭が立ち込めている。路傍にひしめく死に、せめて視線だけはとあてがって、振り切って走る。祈るのは後にしよう。今は彼女を止めるのが先だ。
 消えない火災の報せを受けた時から、根拠の無い確信が胸の底に揺れている。いくつも看取った終末が過る円環の中腹で、覚えているとは言えないまでも、前にもこんなことがあったと思う。瞼の裏に残留する、誰のものかも知れない無数の記憶の断片が傷む。筆舌に尽くしうるありとあらゆる感情がちくりと脳裏に浮かんで消える。行かなくちゃ。すべてが静けさに還りゆく旅をして、こんなにも強く衝動に駆られるのはいつぶりのことだろうか。
 だって。
 だって、その火の粉が俺の肌を掠めた時。確かに、痛みを感じたから。まるで普通の人間みたいに傷ができたから。普通の人間みたいにゆっくりと治ってゆくから。そんなことはもうずっと、ずっとあり得なかったのに。

 また出逢おう。
 何度目でも、俺がお前を助けに行くから。

「そろそろ買い物行かなきゃ」
「そうだねえ」
 冷蔵庫を閉める音が小さなワンルームに木霊した。二人暮らしの冷蔵庫は学校から配布されるプリントの類いが無造作に貼りつけられてごちゃごちゃしている。要らないのは剥がして整理しろって言ったのに。振り返れば戦犯の彼女が、棚をごそごそやって買い物袋を引っ張り出している。
「私行ってくるね」
「え、今? じゃあ俺も行く」
「いやなんで。日暮はご飯作ってて。足りないの卵とお肉だけでしょ? すぐ帰ってくるから」
「えー……」
 出したばかりの食材を仕舞おうとする俺を制止して、彼女が玄関に立つ。見慣れた後ろ姿だ。小柄な肩の上に明るい栗色の短い髪をさらりと揺らす。
「待て待て」
「何」
「夕方は寒いから」
 運動靴のかかとを整える彼女の背にカーディガンを羽織らせる。先日一緒に街へ出た時に買った春色のニットだ。彼女がオーバーサイズの方がかわいいでしょと言ってLサイズを買ったから、裾も袖もかなりだぼついている。
「別に平気なのに」
「かわいいから着ていって」
「……ふふ。じゃあしょうがないね」
 笑顔で買い物袋をぶら下げ、彼女が部屋を出ていく。
 ひとりで部屋に残され玄関を閉められる瞬間の寂寥は言い知れないものがある。施錠音を最後に沈黙した部屋は彼女がいないと急に広く感じた。呼吸の冷やかさを意識する。これだから外へは一緒に行きたいのに。
 深呼吸ひとつ。飯を作れと言われたのだから作ろう。すべきことに集中する以外に気持ちを紛らす方法を俺は知らない。
「ねえ日暮。明日さ、海に行こう」
 食卓で彼女がそう言い出したから俺は箸を止める。視線を上げれば透いた空色と目が合ってどきりとする。正面からその目に覗かれるのはいつまでも慣れなかった。
「……明日も普通に学校だけど?」
「もちろんサボるんだよ」
「ワルじゃん」
「嫌なら私ひとりでも行くけど、どうする?」
「なんで急に海? まだ春だろ」
「夏の海はひとが多いからちょっとな」
 山菜炒めを着々と口に運びながら彼女はつらつらとプランを話した。乗る電車の時間も、立ち寄る飲食店も、もう何もかも決めているらしかった。いつの間に。買い物に出ていた間にでも調べたのだろうか。そう思うとちょっともやっとする。遊びに行くなら計画も一緒に立てたい派だ。
「わかったよ、俺も行く」
「うん。早起きしようね」
 満足そうに食器を片づける彼女を目に、テーブルを拭きながら思わず細く溜め息をついた。一緒に暮らし始めてずいぶん経つのに、いつも、いつも後ろ姿ばかり見ているような気がしている。

 初めて出逢ったのも春だった。いいや、初めてではないらしいけど、俺は覚えていなかった。なんのことは無い道端で突然に名前を呼ばれ、振り返ればぼろぼろの寒そうな格好をした少女が微笑んでいた。一緒に暮らそう。それが彼女の二言目で、俺はどうしてかわからないが頷いてしまった。
「久しぶり。私にとっては四年ぶりくらいになるかな」
「ごめん。俺、たぶんまったく覚えてない」
「そうみたいだね。いいんじゃない。あなたが覚えてて、私があなたを忘れてたことも、お互い忘れてたことも、きっとたくさんあるはずだよ」
 差し出された手を握ればひんやりとしていた。彼女の髪に、ひとすじ、青いリボンの髪飾りが揺れていた。
「……同じなのか? お前、俺と」
「どうだろうね」
 誤魔化すように笑ってみせた彼女と並んで歩き出した時、俺は唐突に無性に悟った。彼女に恋をしている。俺はそのために永遠を旅してきたのだろう、と。

 夕飯も入浴も終えて、一緒に宿題を片づけて、明日の予定をもう一度確認する。六時には起きなきゃ。大変だね。もう寝よっか。二人で暮らし始めても増やさなかった布団に身を寄せて入る。彼女がリボンをほどいて枕元に置く。春の夜は肌寒いからくっついて眠る。抱き寄せても彼女は文句を言わない。文句を言わない、だけだ。彼女から甘えてくれたことは一度も無い。でも、それでも、先に一緒にいようと言い出したのはそっちだから。
「あのさ」
「うん?」
「勝手にどっか行かないで」
 背に回した腕に力を込めると、彼女は息だけ漏らすようにして笑った。
「子どもだね、日暮」
「お前も子どもだろ」
「はいはい」
 あしらうように言ったその口にキスをして眠った。

 春嵐に飛ばされぬよう、彼女がリボンを硬く結び直して、高い堤防を駆けていく。また、俺はその後ろ姿を見ている。よく晴れた一面の青に霞んでしまいそうな小さな背中を見ている。はしゃいで堤防から
身を乗り出す彼女の手を握って、危ないだろと小言を垂れる。
「危なくないよ。落ちてもどうせ死なないんだから」
 遠く潮騒に線状の光が瞬く。彼女は嘲笑うような笑い飛ばすような、曖昧でいて爽快な口ぶりで、どうせ、なんて口ずさむ。青に眩む。そうだよな。彼女は俺と同じ、決して傷つかない身体を持っている。ナイフを突き刺されたって血の一滴もこぼれず、傷跡ひとつ残らない。どんな高所から水面へ叩きつけられても、溺れて呼吸が止まっても、俺たちは死に向かって進むことがどうしてもできない。定まっているから。
 わかっているけど、そうも軽々と高所に身を乗り出されたら、怖いだろ。
 彼女の存在ごと、青く光る方へ吸い込まれてゆきそうで。
「……服、駄目になったら嫌だろ?」
「確かに」
 かわいいものと甘いものには目がない奴だから、こう言うと通じる。
 彼女が海辺の柵からたった一歩離れてくれるだけで、こんなにも安堵するものだろうか。
「なあ、さっき行きがけに喫茶店あったろ。帰りに寄ってこう。ケーキとかもあるっぽかった」
「ほんと? やったー」
 浜にも少しだけ降りた。冷たいだろうに靴を脱いでざばざばと波打ち際に入っていく彼女は楽しそうだったが、どうしても見ていられなくて目を背けた。
「日暮も遊ぼうよ!」
「俺はいいよ、冷たそうだし」
「死にやしないのに」
「冷たいのは普通にやだ」
「ふーん」
 怖い。彼女が水辺にいるということが。もっと言えば、死の可能性の隣にたたずまれることが。彼女もまた不老不死であることは俺も知っているのに。なぜこんなに恐ろしく思うのだろう。どうか死なないで、と、わけもなく口走りそうになっては、今も呑み込んでいる。
 幸せそうにケーキを頬張る彼女の向かいでコーヒーを啜りながら、ぼんやりと考えた。穏やかに過ごせていると思うのに、好きなひとと毎日一緒にいて喧嘩もしないのに、ずっと空っぽで何かが足りていない。
「まーたなんか落ち込んでる?」
「ごめん」
「日暮、大丈夫だよ。私にも、ちゃんと、あなたしかいないからね」
 冬晴れを水に透かしたような色の目がやわらかく細まる。彼女が俺に向ける笑顔は美しかった。いつも、作り物みたいに美しかった。

「えっ…………!?」
 学校帰り、その日もなんら代わり映えしない一日で、笑えるだけで中身はともなわない雑談を広く浅い友人と繰り広げながら家路を辿り、自宅の玄関を開けた時のことだ。
 彼女がいなかった。
 彼女はいわゆる不登校というやつで、宿題は真面目にやるが学校へは行こうとしない。それだから俺が家に帰れば彼女が出迎えてくれるのが常だったし、そうでなくても彼女が出かける時にはかならず俺に言って確認してくれていた、のに。
 いなかった。電気がまず点いていない。
 ひゅ、と喉が鳴って、嫌な予感と恐怖とが背筋を凍らせる。大したものは置いていないワンルームに隠れる場所なんてあるはずも無く、トイレにも浴室にもおらず、連絡も通じなくて、俺は途方に暮れる。鞄を放り出して町へ取って返す。彼女の行きそうな場所なんてわからないからしらみ潰しに探した。食事も忘れ、眠気も感じず、夜が明けるまで探した。見つからなかった。
 俺は急いでシャワーだけ浴びて、鞄を掴み直して学校へ行った。すべきことに集中する以外に気持ちを紛らす方法を俺は知らない。
 教室に辿り着いて唖然とした。半数くらいのクラスメイトが来ていなかった。俺とよくしゃべってくれていた友人たちの姿がごっそり見当たらない。始業時間になっても、昼休みになっても現れない。そういえば弁当を作ってきていなかったことを思い出しながら、俺はそんな場合でもないぞと職員室へ駆け込み、担任に詰め寄る。なんでみんないないんですか。担任も疲れた顔をして首を横に振った。わかりません、と。職員室にはどこか緊迫したような雰囲気が漂っている。
 まさか、みんな行方不明なのか──?
 俺は担任に彼女が昨日から帰っておらず見当たらないことも伝えておいた。きっとよほどひどい顔をしていたのだろう、担任からは保健室で休むようにと促される。俺は首を振る。授業でも無いと気が滅入ってやっていられない。クラスの空気も冷たくざわついていて、決して居心地がよくはなかったが。
 真相は、案外、すぐにわかった。
 すぐにわかった。その日のうちに。
 俺が見つけた。
「おかえり、日暮」
 彼女が微笑む。いつもと変わらない顔をして、お気に入りの春色のふんわりとしたコーディネートで。だいたい見慣れた姿で。リボンだけはつけていないけど。
 俺は後ろ手に玄関を閉めて立ち尽くした。心はあまりのことにスイッチが切れたのかしんとして凪いでいた。扉を閉めた手で無意識に口許を覆う。息をしたくない、と、思う。
 彼女と二人で暮らした部屋だ。俺は貧乏性だから余計なものを置かないで生活していたけど、彼女はかわいいものが好きで買い物に連れ出せばきらきらと目を輝かせるから少しずつぬいぐるみの増えていった部屋だ。彼女が床に寝転んでぐうたらするからフローリングにはパステルグリーンのカーペットを敷いた。彼女の好きな色、らしい。
 そう、彼女の好きな色だったろう。
「……なんのつもりだよ……」
 自分の喉から出たとは思えない低い声に驚く。あれ、そうか、俺は怒っているらしい。
 彼女はにっこりと笑んだ。俺を慰める時の作り物めいた美しい顔ではなく、新作のファッション雑貨を前にした時に近い、本当にうれしそうな、きらきらとした顔で。
「なんのつもりだと思う? そうだね、当てられたらキスしてあげるよ」
 挑戦的にのたまう彼女の足元、この部屋の全部、カーペットの色など見えないほど、おびただしく、赤が広がっている。異臭を放つ肉塊がごろごろと転がっている。それがつまりどういうことか、わからないほど平和ボケしているつもりは無い。俺だって滅びに近い世界を無数に見て歩いた身だ。たまたままだ平穏無事な世界にしばらく滞在したからといって。……ああ、駄目だ。身体が震えている。
 瞼の裏に棲む無数の終末の断片がぎらぎらと存在感を増してゆく。幸せな俺を静観してくれていた半身が、長旅のうちにこの魂へ埋め込まれた遺志の数々が、さすがにこれはどうかと文句を言いたがる。落ち着け。ごめん。ちょっと、待ってくれ。冷静になれ。確認が先だ。
「……お前が、殺したんだよな」
「うん」
「それも、俺と仲のいい奴だけ、選んで殺したよな」
「そうだよ」
 死体はみな俺と同じ制服を身に着けている。きれいな殺し方のされたそれらはひと目で身元がわかってしまう。浅くたって確かに積み重ねていた友人たちとの平穏な時間が脳裏を回る。
 駄目だ。駄目だ。身体が震える。恐怖じゃない。怒りで震えている。彼女が何も言わずに俺の前からいなくなった時点でもう怒っていたのに。なんだよ。この仕打ちは。なんでお前はこんな凄惨なことをしておいて笑えるんだよ。俺にはどうしても届かなかった本当の笑顔で。
「日暮」
 うつむいて震えていると何かを急かすように声がかかる。顔を上げれば青色とまっすぐに視線がぶつかる。心臓のいちばん奥まで届く透き通った視線が、今も、今だって愛おしくてたまらないよ。土足のまま血濡れのフローリングを踏みしめる足が転がる死体を邪魔そうに退かしても、それでも今だって。どうして。
 彼女が死体を踏み越えて俺の眼前へやってくる。
「ねえ」
 小さな手が差し出される。血に濡れたナイフが一本、真っ白な手のひらに乗っている。
 俺は。
 気がつけばその手からナイフを奪っていた。振りかざしていた。なんの意味もないはずなのに。はず、なのに。ぬめる切っ先はかすかに彼女の首筋を掠めて、掠めた、感触が、あって。彼女は人生で体感しうるすべての感情を含んだような笑みを浮かべて、傷口に手を当てた。そう、傷口に。傷口。あり得なかった。そんなこと。あり得ない。だらりと、鮮血が少女の手首を伝い流れてゆく。
「……あ、……?」
「下手くそ」
 愛しい声は不機嫌そうに言った。青い目がうつむく。
「あ、え、……俺、は」
 からんと音を立ててナイフが転がる。
 目を閉じた。その場に跪いた。死には祈らなければならない。とかくそれだけを優先した。そうしなければ余計に間違えてしまう気がした。合わせた手のひらまでもが震えて仕方無い。
 何も言うな。何も言うな。誰も。うるさいよ。黙ってくれ。記憶がひしめく。幾重の滅びを悼み嘆いた、生きていたいとばかり叫んだ、俺のものであり俺のものではない幾億の遺志が燃えている。たったひとつの解答を、あまりにも鮮烈に、明確に、何度でも俺に示してくる。俺は抗う。抗う。数千の魂がごっちゃになったこの身体のなかで、終末の信仰のごみ捨て場となった継ぎはぎだらけの記憶を抱いて、たったひとりで。抗う。
 ねえ、殺してやりなよ、そいつのこと。
 嫌だよ。
 もうお前以外にはこの世の誰も彼女の生存を願っちゃいないよ。彼女は罪を重ねすぎた。わかってるんだろ。
 嫌だよ。
 お前がそうやって粘り続けたお陰でずいぶん長いこと彼女を生かしてやれたじゃないか。いい加減そろそろ。
 嫌だよ。
 お前には無理だよ。彼女に生きたいと思わせるなんて。彼女の希死念慮に抗うなんて。永遠をかけても無理だったろう。だから。
 嫌だよ。
「ねえ、救主」
 慣れ親しんだ体温に目を開く。彼女が俺を抱き締めている。そっと背を撫でられれば少しずつ震えが収まってゆく。死臭に混じって、かすかに雪解けのにおいがする。細い首筋から流れ出る血が俺の服をじわりと汚してゆく。
「あなたしかいないよ。あなたしか、私のことも救えないの。私も、あなたに看取ってほしいの」
「……俺は、海間日暮だよ」
「誰でもいいけど。見逃したらまたたくさんのひとが理不尽に殺されるよ。私は放っておけば世界だって滅ぼす。害悪なんだ。わかるよね?」
「殺さなきゃいいだけだろ。お前が」
「あはは、それができたら苦労しないよ」
 笑うなよ、もう。いっそ。
「あなただって、ひとの生を願うな、もう誰も助けるな、全部見捨てろ……って言われたら、絶対に無理なんでしょう。私もそうなんだ。死にたいと思うことも、そのための行動も、やめろって言われても無理なの。それだけだよ」
「お前は、ひとりだろ。俺とは違うよ」
 お前はまっすぐでいられていいよな。
 俺はごちゃついているから。見届けるたび、無数に、託されてしまったから。こんなにも抗っていなければ。今にもお前を殺してしまいそうで。
「……そう。そうだね。あなたは集合体だ。意志も、在り方も。私には想像できないよ。だからきっと、あなたにも、私の気持ちも在り方もわからない」
 彼女が手を離す。体温が離れると暴力的な寂寥に胸が痛む。ずっとここにいてほしい。ずっと俺の隣で生きてほしい。どうか、
「また、殺せないんだね」
 どうかそんな顔はしないでほしい。彼女の目に明らかな失望が滲む。決定的に遠ざかる。キスをしても埋まらなかった空っぽが急速に肥大する。何億回目かの失恋を、耳の奥で無数の欠片が嘲笑っている。だから言ったのに。彼女のためにも世界のためにも、もうこんなことは終わらせた方がいいのに。うるさい。黙れよ。俺は、海間日暮は、ただ、彼女に生きていてほしいんだ。
 本当に?
 殺したいよ。当然だ。酷いだろ。何度奪えば気が済むんだ。ひとの生命も俺の恋も何もかも奪っておいて勝手に失望していなくなろうだなんて。ふざけるなよ。殺してしまいたいに決まってる。
 わかんないよ。
「それじゃ、今回はこれでおしまい。私は出頭してくるよ。また忘れた頃に出逢おうね」
 彼女がナイフを拾いあげ立ち上がる。コンビニのビニール袋に得物を入れて縛って、いつもの買い物袋へ放り込む。数秒だけ死体を見下ろし、ポケットから抜き出した青いリボンを手慣れたまま髪に結い直す。ああ、返り血を心配して外していたのか。
 ぬめる血溜まりを渡って彼女が玄関へ戻ってくる。うずくまったままの俺に目を合わせもせず、ドアノブに手をかけ。
「待っ……」
「何、寂しい? 一緒に死体埋めに行く?」
「……」
「日暮さ、最後に言っとくけど、……重いから直した方がいいと思うよ、女の子との付き合い方」
「殺人犯に言われたくないよ」
 最初から裏切って殺意を煽るつもりで同棲を申し出たお前の方が、よっぽど酷いじゃないか。

 ──以上が、すっかり忘却した、前回のことだ。

 彼女は広がる死の中心でうずくまり、煤に汚れた顔を重たそうに持ち上げた。その青い色の目が俺を捉えて、まばたきをした虚ろに光が戻る。視線が交わって一秒。それだけでわかった。俺はこの瞬間のために永遠を越えてきたんだ。
 青の少女はとっさに立ち上がろうとしたが、失敗してへたり込み、それでいて笑顔で声を弾ませる。
「──救主。久しぶり」
「俺は海間日暮」
「そんな名前だったね」
「ひとの名前はちゃんと呼んでくれよ……」
「こだわるなあ。ひとだとか名前だとか、私たちに定義なんて要らないはずなのに」
 焼死体に囲まれたぼろぼろのなりで、立ち上がれもしないで、しかし彼女は拍子抜けするほど快活そうに話した。旧知の友人に街中でばったり出会したみたいな軽い口調だった。
「私のこと、覚えてる?」
 俺は黙って首を横に振った。
「そっか」
「ごめん」
「いいよ。いつものことだから。前回のことは聞いとく?」
「聞きたいことは山ほどあるけど。同じなのか。お前、俺と」
「同じって何について? 死ねないこと、十二歳ってこと、異能者ってこと……」
「全部だよ」
「それじゃあ、違うね。私は、あなたほど優しい在り方はしてない」
 明るいのに静謐を灯した声は、にべもなくそう言い切った。
 彼女は、優しくない、と。
 そうだろう。理由は知れないが、こんなにもすべてを、町やひとや森や命を片っ端からあまねく焼き払っておいて、へらへらと笑っているような奴だ。許してはいけない、こいつは悪だと、俺に巣食うすべての遺志と意志が声を合わせている。見渡す限りの焼け野原が、立ち込める死臭が証明している。煙の混じった空気を吸えば喉が痛む。俺だって不快に思う。目の前の少女がそれら諸悪の根源なのだ。わかってるよ、そんなことは。
 だからといって、殺してはやらない。
 彼女の前に膝を落とす。右手を差し出す。
「肩、貸そうか」
 と言えば、呆れたような苦笑で返された。
「私をどこかへ連れて行きたいの? ここ一帯は瓦礫と死体しかないよ」
「……そうだろうさ」
「遠くへ連れていってくれるなら、私はその先でまたひとを殺すよ。何人でも、何度でも、この世界が終わるまで」
「どうしてそんなこと」
「理由? そうだね──」
 膨大な死と罪の底に自ら沈み笑う少女は、ぼんやりと差し出された手を見つめたまま答える。
「半分は、まだあなたに賭けているから。半分は、もう、あなたに期待していないから」
 柔い栗毛が少女の表情を隠した。小さな手で焼け焦げた砂を握りしめ、膝を震わせ、彼女は結局俺の手を借りずに立ち上がってみせる。ふらつく足がほとんど粉塵と化した町の残骸を踏みつけて、ゆっくりと、彼女は俺に背を向ける。どこかへ去ろうと、まだ歩もうとする。
 待て待て、そんな体調で。口で言う前に手が出て、俺は気がつけば少女の手を掴んで引き寄せている。案の定よろめいた背を抱き止めると、ふわりと、晩冬の明け方を思わせる、雪解けのにおいがした。
「何?」
「もうちょっとちゃんと説明しろよ、わかんないだろ」
「わかんなくていいよ。言ったでしょう。私、もう、あなたと関わるつもりはあんまりないの」
 彼女は力なく俺に抱えられたまま、うつむいた目に言葉通りの失望を滲ませる。だのに口ぶりは軽妙さを保っている。彼女にとって、その失望は、もう取るに足らないほど慣れ親しんだものらしい。
 そんな顔をさせるようなことをかつての俺がしたのだろうか。今の俺は知らない。わかるのは、俺が何をしても、彼女に何があっても、絶対に、ひとを殺す言い訳にはならないということだけだ。
「俺、お前に何かしたの?」
「したよ? あなたの想像しうるすべてがあったと思っていいよ」
「だからさあ、もっと具体的に」
「大丈夫。ひとつも恨んでないから」
「……嘘が下手だな」
「嘘じゃない。恨んでいるとしたら、あなたが私を、だし」
「どういうこと」
「死んでほしいと、殺したいと思ってもらうためなら、どんなことでもしてきたからね」
 彼女はあっけらかんとそんなことを言った。
「なんて。今のあなたには、関係無いよ」
 また小さな背が震えて、彼女が自力で立とうとするから、俺は勝手にその細腕を取って肩を貸す形にした。いい加減、ぼろぼろの身体で無理に動こうとする彼女の姿が痛々しくて、見ていられなかった。
 二人、並んで焼け野原と対峙する。見える範囲はどこもかしこも焼け落ちて、所々に人間だったものの残骸が見え隠れする。空は一面が白く曇り、まだあちこちから細く昇る黒煙を吸い込んでいる。
「……虐殺者を助けるつもり?」
「当然だろ。俺は助けに来たんだよ」
「私を? 私に狙われてる人類を?」
「両方」
「じゃあ殺してくれるんだよね。そうすれば両方助かるもんね」
「なわけあるか」
「馬鹿だなあ……」
 少女は疲弊に息を大きくしながらも呆れを示す。どいつが言っているんだと思う。その口ぶりだと、俺に殺してもらいたいから虐殺しました、という風に聞こえる。賭けていると言われた分は実際そういうことなのかもしれない。それこそ、馬鹿だ。何があっても、俺がまだ生きられる人間を殺すわけがないだろ。
「まさか、……前回もお前はこうやってひとを殺してたのか」
「前はもうちょっと穏やかに暮らしてたよ。まあ、ひとは、殺したけど……」
 語る声が少しずつ覇気をうしなっていく。さすがに疲れたか、肩にかかる体重も増してくる。
「できるだけ穏やかに馴らしてさ、できるだけむごいやり方で、私、あなたを裏切るの。知ってる? 日暮って意外と短気で……毎回いいとこまではいくんだよ。殺してもらえるまで、もう少しだ、って。何度も。何度も……、記憶の限り、試し、た、はず……、」
「おい?」
「……あ、ごめん、寝てた」
 少女の意識が一瞬落ちた。支え直された衝撃ですぐに目覚める。
「そう、それでね。私は、……諦めることに、したんだ。日暮は、やっぱり、どうしても、……変われないから。命を繋ぐためにしか在れない、現象、だもんね。仕方無いよ……」
「…………」
「……、ごめん、ね……」
 声が掠れてゆく。雪解けのにおいがする。少女が俺の肩にもたれたまま完全に意識を落とすまで時間はかからなかった。ぐったりと脱力した人間の身体というのは重たい。俺は奥歯を噛み締めて彼女を背負い、来た道を歩き出す。治りかけの火傷が煙に触れればひりひりと痛んだ。
 何日か歩き続ける程度のことは茶飯事だが、彼女が目覚めるまでに生きた町へ辿り着くことはできるのだろうか。できなければ戦うしかないのかもしれない、と覚悟して呼吸を整える。この規模の破壊行為を笑ってやってのけるほどの相手だ、俺にできることがあるかはわからない。わからなくても、やるしかない。少し言葉を聞いてみればわかった。彼女とはまだ話ができる。話の通じる余地があるのなら、たとえまた悠久のうちに繰り返すとしても、今くらいは止められるはずだ。
 とにかく、これ以上ひとを殺させるわけにいかない。
「……現象、か」
 命を繋ぐためにしか在れない。そんな言い方をされたのは記憶の限りでは初めてだが、いやに納得してしまえるから俺は知れず自嘲を浮かべる。おかしいだろ。俺だって、ひとの、なんの変哲も無い少年のかたちをしているはずだが。
 不死の身体をたずさえて永い旅をした。何かに惹かれるように、導かれるように、死にゆくものの傍らばかりを渡り歩いていた。助けられるなら助けた。助けられないなら看取った。それが俺の信念だろうが課せられた使命だろうが構わない。世界はかならず終わるのだから、ちっぽけな人間くらいは少しでも終わりに抗えたほうがいい。嘘。そんな高尚なことはいちいち考えていない。ただ、死にゆくものを、俺が助けたいと願ってしまうだけだった。彼女のことだってもちろん例外ではない──否、これは推測だが、きっと俺の生かしたがりの始点が、そもそも彼女の存在であったのだろうと思う。

 気絶した少女を背負い歩いて、瓦礫を踏み越え死に祈り、救助作業に勤しむひとびとが見えたところで事情を説明して、二人して病院へ送ってもらった。大火災が彼女の仕業だという事実は伏せ、あくまでも奇跡の生き残りを装った。そうしなければ二人一緒にはいられないだろうから。
 簡素な小児病棟の個室で白いベッドに横たわる彼女を見て虐殺者だと思う者はいないだろう。閉ざされた瞼は頑なで、繊細な栗色の睫が震え持ち上がるまでは、たっぷり数週間を要した。というか、俺がしびれを切らして肩を揺すったら起きたのだった。
「おーい寝すぎだよ、いい加減」
「……日暮。おはよう」
 寝惚けまなこは俺に焦点を合わせるとへにゃりと細まった。気の抜けた笑顔を見せつけられると辛抱強く待ったのが嘘のようで、こちらも一気に力が抜ける。はあ、と溜め息をつく。
 四角く切り取られた朝陽がシーツの上に散る。危なげなく上体を起こした彼女の横顔を真っ白に照らす。
「なあ、もう一度だけ俺と一緒に暮らさない?」
 決めていた台詞を、間違えずに口にした。
 半分はまだ賭けていると言っていた。毎回いいところまではいくと言っていた。俺にまだ可能性があれば、期待させることができれば、いったんでも殺戮を収められるのではないか。
 彼女は俺の真剣な提案をよそにまぶしそうに窓外へ視線を向け、両腕をぴんと上げて伸びをする。ここだけ切り取れば爽やかな朝の風景でしかない。
「はあー……やだよ。日暮といるの、めんどいから」
「普通に傷ついたけど、今」
 伸び終えた細腕がまたゆっくりと降り、シーツに散る陽だまりを掴む。何気ない仕草のまま、彼女はこちらを見ようとはせずに続ける。
「だって……日暮、構ってあげないと不機嫌になるし、いちいち笑ってあげないと勝手に思い詰めて泣いちゃうし、ひとりで家から出ると怒るし、ちょっと外に友達つくるだけで嫉妬するし、夕飯の献立とか迷うことは全部私だけに決めさせるし、そのくせ肝心な時は私の気持ち聞かないし、セックス多いし長いし」
「待ってストップ」
 嫌な汗がこめかみに滲んできたので拭った。覚えていなくてよかったと思うことにしておいて、でもちょっとベッドから離れた。
「日暮も私といるの、今回はきついんじゃない。ひとごろしは大嫌いでしょう? たくさん悩むと思う。だから、やめときなよ」
 彼女はさらさらと言うと、外の景色に飽きたのか視線を手元へ移し、立ち上がった。もうふらつく様子はなく、ごそごそと引き出しを漁って、そこに仕舞われていた青いリボンを髪に結い直す。俺は彼女がいつ暴れだすか、逃げてしまうか、心配して一挙手一投足を見つめ続ける。頭の片隅でずっと考えている。止めなきゃ。どうすれば。
 彼女は一歩分だけ進んで窓辺に寄り添う。眩い陽光の飽和する病室のさなか、逆光になった青い目が振り返る。
「日暮。戦える?」
 かすかな期待と、失望を、同時にはらんだ眼光。
「戦えるなら、やろう。もし戦い方がわからないとか、あなたが私より弱いようなら、本当にもう今のあなたに用は無いよ。私はここを出ていくし、世界を滅ぼすか、世界に存在を弾かれるまでは、きっと止まらない」
「待ってくれよ。だからさ。なんで、わざわざ滅ぼす必要があるんだ。ほっといたって滅ぶんだぞ、どんな世界も、かならず……」
「……日暮は」
 失望が色を濃くしてゆく。出逢った瞬間に光を灯したはずの青が虚ろに還ってゆく。窓からさす朝陽ばかりまぶしくて、彼女は暗く沈んでゆく。
 焦燥が胸を焼く。いかないで。悲しまないで。俺が原因かもしれないが、思ってしまうものは仕方が無い。
「本当に優しいね……」
「どういう意味だよ」
「私も、うしないたくはなかったな。滅びを悼む気持ちとか、何もかも終わってゆく摂理がすべてだと思えていた諦めとか、」
 ぴし。不穏な音が耳を掠めたから彼女に手を伸ばした。たぶん、ガラスに亀裂の走る音だった。伸ばした指先の掠める中空に透明な水滴が触れる。水滴は瞬く間に水流となって球形に俺を取り囲む。ごうごうと回転し、白む朝の病室を滲む向こうへ隔絶する。
 最後に見た彼女は、髪を飾るひとすじの青いリボンに癖のように指先を触れさせ、うつむいていて。
「そこまでの認識で、それだけで、私も留まっていられたらよかったね」
「──、っ青空、」

 光がほとばしる。焔の赤を阻むように、ペールターコイズが空間を揺らし、けれどそれはたった一瞬にすぎず、上からまた朱く書き換えられる。
 刹那に無理だと悟って俺は力を収めた。粒子を揺らした青い光がほどけ消える。意志の固さが異能の強さに直結するこの世界で、俺には彼女を止めることができない。ごちゃつく遺志を取りまとめることに必死でいるような俺の力では。
 朝を満たした白は、穏やかなばかりだったあの白は呼吸を待たず朱に塗り替えられた。廻る水流に守られた先でガラスの弾け飛ぶ音がする。水が無数に火花を反射しきらめく。灼熱の星空に包まれている。
「そこで見ていてね、日暮。もし気が向いたら、私を殺しに来て」

 どうしてそこまでするんだ。
 どうして、そこまでしなければならないほどの苦しみを、痛みを、たったひとりで抱えて、誰の手も借りないで、笑顔を繕って、余裕のあるような振りばかりして、悲劇を巨悪に仕立て上げて。助けてくれと言えないから、裁いてくれと言えるようになるまで止まらない。
 どうして俺を頼ってくれないんだよ。
 間違える前に、言えばよかっただろ。苦しいって。助けてって。違うのか。
 俺しかいないだろ。お前にずっと寄り添っていられるのは。違うのか? 俺じゃいけないのか。

 爆音が耳をつんざく。それは建物の倒れる音であり、人間のひしゃげる音であり、街の崩壊する音であり、悲鳴であり怒号であり、
 何もかもが水の向こうに滲んでいる。俺は考えている。助けに行くべきだ。彼女を、彼女の力で犠牲になっているすべてのひとびとを、ひとりでも多く。助けたい。身をやつす衝動は吐き気を催すほどに強くて、だけど無理だ、と思う。一歩でもこの守られた泡沫を出れば俺は死ぬのだろう。託されてきたすべてを、俺の存在でしか保たれない遺志を抱いて。だから俺が死ぬわけにはどうしてもいかない。どうしても、いかないのだ。
 ただうずくまった。ただ、目を閉じて祈った。涙が溢れた。
 どうせ繰り返す。彼女もいずれ全部を忘れて、また俺に希望をかける日が来る。いつか殺してもらうためだとは言え、穏やかに寄り添ってくれる日が来る。次のその時こそ問おう。何があったの、と。もう忘れたと言うのなら一緒に探そう。かつて滅び消え去ったすべてはここにあるから。俺の、この煩雑な魂の奥底に、わずかにでも遺されているはずだから。
 世界というのはどうやら人為的に滅ぼすこともできるらしい。俺はまたひとつ看取りを終えて、浮遊感に包まれる。一面の夕景を騙る茜色の心象風景へ、還ってゆく。迷いなく足を踏み出す。次に行こう。落ちてゆく。
 繰り返すために。
 祈り続けるために。




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